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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 20日

観心本尊抄文段 下二十  「彼は脱、此は種」の御文に三意を含む。


一 在世の本門と末法の初は一同に(じゅん)(えん)なり

此の下は三に在末の本門の異を判じて流通(るつう)の正体を示し、(かん)(じんの)本尊(ほんぞん)結成(けつじょう)す。文(また)二と為す。初めに一往(いちおう)名同(みょうどう)、次に「但し」の下は再往(さいおう)(たい)()なり。

文に「在世の本門」と云うは、即ち是れ第四の三段、文上脱益(だっちゃく)の本門なり。「末法の()」とは即ち是れ第五の三段、文底下種の正宗、末法の本門なり。

問う、()(しか)らば、(まさ)に「末法の本門」と云うべし。何ぞ「末法の()」と云うや。

答う、末法の始めは即ち是れ()(おん)(がん)(じょ)なり。(あに)本門に(あら)ずや。是れ久末同の(じん)()(あらわ)すなり。

文に「一同に純円」と云うは、是れに人法有り。

(いわ)く、人に約する(とき)は、在世の本門の教主は久遠(じつ)(じょう)の仏にして、()(じょう)正覚(しょうがく)の方便を()びざる故に純円なり。

末法の本門の教主は久遠元初の名字(みょうじ)(ぼん)(しん)にして、色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の方便を帯びざる故に純円なり。

又法に約する(とき)は、在世の本門の所説は十界久遠の三千にして、本無(ほんむ)(こん)()の方便を帯びざる故に純円なり。

末法の本門の所説は「不渡(ふと)()(ぎょう)」の妙法にして、(じゅく)(だつ)の方便を帯びざる故に締円なり。故に純円(みょう)(どう)云うなり。

問う、何ぞ此の下を一往と()し、「但し」の下を再往と為すや。

答う、体異を明かさんが(ため)(しばら)く名同を示す故なり。例せば天台(てんだい)(みょう)(らく)の解釈の如し。(げん)(もん)の第二に今昔(こんじゃく)二円の同異(どうい)を明かして云く「()の妙、()の妙、妙の義(こと)なること無し。(ただ)方便を(たい)するか方便を帯せざるかを以て異なりとするのみ」等云云。疏記(しょき)の第三に法華・無量義の同異を示して云く「彼は出水(しゅっすい)の如し、此れは開敷(かいふ)(ごと)し。所以(ゆえ)(すなわ)()(れん)故華(こけ)と為す。(ただ)未開・当開の別あるのみ」等云云。又云く「(ごん)(じつ)名同、義意不同」と。又云く「一家の釈義、名通義別」と。()し此等の文意を(さと)らば、即ち当文の意を知らん。又略要集、之を思い合すべし。

文に「彼は脱、(これ)は種」等と云うは、此の下は次に再往体異、(また)二と為す。初めに能説(のうせつ)の教主、次に所説の法体(ほったい)なり。

(じゅく)(だつ)の文の中に(すで)に五段あり。当文には略すと(いえど)も、其の義を()くに非ず。故に能説の教主に勝劣(しょうれつ)の義を含み、所説の法体に(また)()(どう)始終(しじゅう)を含むなり云云。(しか)るに辰抄(しんしょう)等の意に「本同(ほんどう)(やく)()」と云云。是れ大謗法の濫觴(らんしょう)、種脱混乱の根源なり。

今此の文を釈するに、(しばら)く三段と為す。初めに文相を(つまび)らかにし、次に種脱を詳らかにし、三に本尊を詳らかにするなり。

初めに文相を詳らかにするとは、此の一文に(また)三意を含む。所謂(いわゆる)文義意是れなり。

初めに文の重とは、(まさ)しく在末の本門の(ことな)りを判ずるなり。(いわ)く、在世の本門の教主は色相(しきそう)荘厳(しょうごん)脱益(だっちゃく)の仏なり。故に「彼は脱」と云うなり。末法の本門の教主は名字(みょうじ)(ぼん)(しん)の下種の仏なり。故に「(これ)は種」と云うなり。

又在世の本門の正宗(しょうしゅう)は文上脱益の品二半なり。故に「彼は(いっ)(ぽん)二半」と云うなり。末法の本門の正宗は文底(もんてい)下種の妙法なり。故に「(これ)(ただ)題目の五字」と云うなり。当に知るべし「我等が内証の寿量品とは(だっ)(ちゃく)寿量の文底の本因(ほんにん)(みょう)の事なり」と云云之を思い合すべし。

次に義の重とは、是れ末法流通(るつう)の正体を示すなり。謂く、在世の本門、脱仏(だつぶつ)所説の正宗は是れ在世脱益の(ため)にして、末法下種の法に(あら)ず、故に流通(るつう)の正体と()さず。末法の本門、下種の仏の所説の正宗(しょうしゅう)は正しく末法下種の為なり、故に末法流通の正体と為す。故に「彼は脱(これ)は種」等と云うなり。

三に意の重とは、観心の本尊を結成(けつじょう)するなり。謂く、在世の本門脱益の人法は是れ教相(きょうそう)の本尊にして観心の本尊に非ず、故に末法の本尊と為さず。末法の本門下種の人法は(まさ)しく是れ観心の本尊なり、故に末法下種の本尊と為すなり。故に「彼は(だつ)、此は種」等と云うなり。

学者(まさ)に知るべし、略釈の中に「此の本門の肝心(かんじん)」と云うは、略して熟脱の本尊を(えら)ぶなり。迹門三段の中に「()(じょう)正覚(しょうがく)の仏・本無(ほんむ)(こん)()の百界千如を説いて」と云うは、是れ熟益(じゅくやく)の本尊を簡ぶ所以(ゆえん)なり。本門三段の中に「念三千(ほとん)(ちく)(まく)(へだ)つ」と云うは、是れ脱益の本尊を(えら)ぶ所以なり。今「彼」「此」と云うは、正しく文上脱益、迹門・理の一念三千の教相の本尊を(えら)んで、文底(もんてい)下種の本門・事の一念三千の観心の本尊を(あらわ)すなり。御相伝の文の釈、略して題の下に是れを引くが如し云云。又問答の起尽(きじん)之を思い合すべし。(あに)前代未聞の本尊に非ずや。

                        つづく





by johsei1129 | 2015-09-20 06:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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