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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 13日

開目抄愚記 下四十  摂折(しょうしゃく)二門を五義に約す

一 今の時は(けん)にして法(かく)

  人心嶮岨(けんそ)なること(なお)(さん)(がく)の如し。故に「嶮」というなり。楽天の云く「(たい)(こう)(みち)()く車を(くだ)く。()し君が心に比すれば是れ(たん)()なり」と。垣は平らかなり。「阿波(あわ)鳴戸(なると)は波風も無し」。(注:世の中を渡り比べていまぞ知る 阿波の鳴戸は波風もなし 作者不詳)

一 ()摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)

  此の下は次に釈、亦三あり。初めに(しょう)(しゃく)偏執(へんしゅう)を示し、次に「無智」の下は摂折適時(ちゃくじ)を明かし、三に「譬へば熱き」の下は譬。

初めの摂折偏執の中に(ほっ)()り、見るべし。

一 無智・悪人の国土に充満の時は摂受を(さき)とす安楽行品のごとし

  安楽行品の初めに云く「後の悪世に於て、()(かん)()く是の経を説かん」と云云。此の文、(まさ)しく「無智・悪人の国土に充満の時」を説くなり。是れ(すなわ)ち勧持品の中の「後の悪世の衆生は善根(うたた)少なくして、増上(ぞうじょう)(まん)多く」及び「裟婆(しゃば)国の(うち)は、人(へい)(あく)多く」等の文を()して「後の悪世」と説くが故なり。

  問う、彼の品の中に(すで)に三乗の行人を()ぐ。何ぞ無智・悪人充満の悪国というや。

  答う、悪国と云うと(いえど)も、善人無きに(あら)ず。(ただ)是れ少分なるのみ。例せば(ぼう)(こく)の中にも少分は正信の者あるが如し云云。

一 邪智・謗法(ほうぼう)の者の多き時は折伏(しゃくぶく)(さき)とす(じょう)不軽(ふきょう)品のごとし

  少分は正信の者あり、故に「謗法の者の多き時」と云うなり。不軽(ふきょう)品に云く「時に(もろもろ)の四衆、法に計著(けいじゃく)せり」と。又云く「時の四部の衆の著法(じゃくほう)の者」云云。是れ(すなわ)執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)邪智(じゃち)謗法の者を説くなり。

一 (たと)へば熱き時に寒水を用い等

  此の下は三に(たとえ)(また)二あり。初めに(しょう)(しゃく)適時(ちゃくじ)(とく)(あらわ)し、次に「草木」の下は(かえ)って摂折偏執(へんしゅう)(とが)を示すなり。

一 草木は日輪の眷属(けんぞく)文。

  「日輪」は是れ太陽、「草木」は是れ少陽なり。故に「眷属」というなり。(えき)の中に、木を以て少陽に配するなり。

一 末法に摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)あるべし等

  問う、()(しか)らば、末法も(また)摂受を行ずべきや。

  答う、(しょう)(しゃく)二門に()いては古来の義(らん)(ぎく)なり。今(しばら)く五義に約す云云。

  一には教法に約す。(いわ)く、其の大旨(たいし)を論ずれば、法華は(まさ)しく是れ折伏の教法なり。是れ(すなわ)ち法華の(かい)(けん)()(ぜん)(ごん)()を破し、法華の実理を(あらわ)すが故なり。(げん)(もん)第九・二十八に云く「法華折伏、()権門(ごんもん)()」等云云。本迹(ほんじゃく)(かい)(けん)、准例して知るべし。

  二には機縁に約す。謂く、()本已(ほんい)()(ぜん)の衆生の為には、摂受(しょうじゅ)門を以て而して之を(しょう)()す。若し(ほん)()()(ぜん)の衆生の為には、折伏門を以て而して之を(ごう)(どく)す。此の故に(しょ)第十・十八に云く「(もと)(すで)善有らば、釈迦小を以て而して之を将護す。(もと)(いま)善有らざれば、不軽(ふきょう)(だい)を以て而して之を強毒す」等云云。

  三には時節に約す。

  宗祖の云く「末法に於ては大小・(ごん)(じつ)・顕密、(とも)に教のみ有って得道無し。一閻(いちえん)浮提(ぶだい)謗法と()(おわ)んぬ、逆縁の為には(ただ)南無妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し」と云云。

  下の文に云く「(たと)い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも(乃至)時機をしらず(しょう)(しゃく)の二門を(わきま)へずば・いか()でか生死(しょうじ)を離るべき」と云云。()の外の諸文、枚挙(まいきょ)(いとま)あらず云云。

  四には国土に約す。即ち今文の意なり。(いわ)く、末法は折伏の時なりと(いえど)も、()し横に余国を尋ぬれば(あに)悪国なからんや。其の悪国に於ては摂受を(さき)()すべし。(しか)るに日本国の当世は破法の国なる事分明(ふんみょう)なり。故に折伏を(さき)と為すべきなり云云。

  五には教法流布(るふ)の前後に約す。(すで)竜樹(りゅうじゅ)(てん)(じん)天台(てんだい)伝教(でんぎょう)等、前々(さきざき)流布の教法を破し、当機(とうき)益物(やくもつ)の教法を(ひろ)む。今、蓮祖も亦(しか)なり。前代流布の爾前・迹門を破して末法適時(ちゃくじ)の大白法、本門寿量の肝心(かんじん)を弘むるなり。其の相、諸抄の如し。之を略す。

つづく


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by johsei1129 | 2015-09-13 21:06 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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