2015年 08月 11日

真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、と説いた【十章抄】

【十章抄】
■出筆時期:文永八年(西暦1271年)五月 五十歳 御作。
■出筆場所:鎌倉 館にて。
■出筆の経緯:本抄は、比叡山に遊学し天台学を学んでいた三位房日行に送られた書です。本抄で大聖人は「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり、日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし」と記し、南無妙法蓮華経と唱えることが末法の修行であることを強く指導されておられます。
文末では「止観よみあげさせ給はばすみやかに御わたり候へ」と記し、天台の摩訶止観を修業したら速やか
に大聖人の元に見参するよう促されております。

尚大聖人はこの書を記した四ヶ月後に「竜の口の法難」に遭われ、この書を著した時点では、未だ御本尊を御図現されておられません。
また日蓮一期の弘法を付属された日興上人は「日興誡置文」 で、天台の修学について「義道の落居無くして天台の学文すべからざること」と弟子・信徒一同に大聖人の法門を第一にして習得するよう戒められておられます。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵。
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[十章抄 本文]

華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為そ等の釈にばかされて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず法華経なり「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。

 止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何に況や爾前に分たへたる事なり。
 
一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし、されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。

但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、法華経に十七種の名ありこれ通名なり・別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり、阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき・口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり、此等をしらざる天台・真言等の念仏者・口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ在家の者は一向に念うやう天台・真言等は念仏にてありけり、又善導・法然が一門はすなわち天台真言の人人も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり、わづらわしく・かれを学せんよりは法華経をよまんよりは一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す、此の義・日本国に充満せし故に天台・真言の学者・在家の人人にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。

 九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛なりしより・これはじまれり、あわれなるかなや、外道は常楽我浄と立てしかば仏世にいでまさせ給いては苦・空・無常・無我ととかせ給いき、二乗は空観に著して大乗にすすまざりしかば仏誡めて云く五逆は仏のたね・塵労の疇は如来の種・二乗の善法は永不成と嫌わせ給いき、常楽我浄の義こそ外道は・あしかりしかども名はよかりしぞかし、而れども仏名をいみ給いき、悪だに仏の種となる・ましてぜんはとこそ・をぼうれども仏二乗に向いては悪をば許して善をば・いましめ給いき。

当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり、設いぜんたりとも義分あたれりと・いうとも先ず名をいむべし、其の故は仏法は国に随うべし、天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あり・わかれたり、震旦亦復是くの如し、日本国は一向大乗の国・大乗の中の一乗の国なり、華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず何に況や小乗の三宗をや、而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは源方等部より事をこれり法相・三論・華厳の見を出ずべからず、南無阿弥陀仏は爾前にかぎる、法華経にをいては往生の行にあらず開会の後・仏因となるべし、南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず但法華八箇年にかぎる、南無阿弥陀仏に開会せられず法華経は
能開・念仏は所開なり、法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり、譬えば如意宝珠の如し金銀等の財を備えたり、念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず、譬へば金銀等の如意宝珠をかねざるがごとし、譬へば三千大千世界に積みたる金銀等の財も一つの如意宝珠をばかうべからず、設い開会をさとれる念仏なりとも猶体内の権なり体内の実に及ばず、何に況や当世に開会を心得たる智者も少なくこそをはすらめ、設いさる人ありとも弟子・眷属・所従なんどは・いかんがあるべかるらん、愚者は智者の念仏を申し給うをみては念仏者とぞ見候らん、法華経の行者とはよも候はじ。

又南無妙法蓮華経と申す人をば・いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん、当世に父母を殺す人よりも謀反ををこす人よりも天台・真言の学者と云はれて善公が礼讃をうたひ然公が念仏をさえづる人人は・をそろしく候なり。この文を止観よみあげさせ給いて後ふみのざの人にひろめてわたらせ給うべし、止観よみあげさせ給はばすみやかに御わたり候へ。

沙汰の事は本より日蓮が道理だにもつよくば事切れん事かたしと存じて候いしが人ごとに問注は法門にはにずいみじうしたりと申し候なるときに事切るべしともをぼへ候はず、少弼殿より平三郎左衛門のもとに・わたりて候とぞうけ給わり候、この事のび候わば問注はよきと御心得候へ、又いつにても・よも切れぬ事は候はじ、又切れずば日蓮が道理とこそ人人は・をもい候はんずらめ、くるしく候はず候、当時はことに天台・真言等の人人の多く来て候なり、事多き故に留め候い了んぬ。

by johsei1129 | 2015-08-11 00:29 | 弟子・信徒その他への消息 | Comments(0)


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