一 行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり文
是れ止観第五の文を挙ぐるなり。止の五・百十七に云く「如来行の時は帝釈右に在り、梵天左に在り。金剛前に導き、四部後に従う」等云云。
今謹んで案じて曰く、此の止観の文の梵帝の左右は恐らくは是れ反転せり。応に「帝釈左に在り、梵天右に在り」と云うべし。是れ行の時に約する故なり。
将に此の義を明かさんとするに、且く両段と為す。初めに行坐の列次を明かし、二に聴法の列次を明かさん。初めに行坐の列次を明かすに、初めに文証を引き、次に道理を明かさん。
初めに文証を引くとは、西域六十一に云く「尼拘律樹林に卒堵婆あり。釈迦如来正覚を成じ已って国に還り、父王に見えて為に法を説く処なり。乃至浄飯王、諸の群臣と四十里外に駕を佇め迎え奉る。是の時、如来と大衆と倶なり。八金剛は周衛し、四天王は前に導く。帝釈と欲界天と左に侍り、梵天と色界天と右に侍り、諸僧其の後に列在す」略抄等云云。
書註の十八・二十一に云く「仏昇忉利天為母説法経に云く『仏摩耶に語るに、生死の法、会あれば必ず離あり。我今応に閻浮提に下還すべし」と。義足経の下巻に云く「是の時、天子有り。三階を化作す。金・銀・瑠璃なり。仏は須弥の頂より下りて瑠璃階に至り住したまう。梵天王及び諸有の色天は悉く仏の右面より金階に随って下り、天王釈及び諸有の欲天は仏の左面より銀階に随って下る」等云云。
林の十九・七に云く「菩薩処胎経に云く『其の時、八大国王各五百張の白氎を持ち尽く金棺を裹む。爾の時に大梵天王諸の梵衆を将い右面に在って立つ。釈提桓因、諸の忉利諸天を将い左面に在って立つ」と云云。
西域二・二十に云く「伽藍の側に卒堵波あり。高さ数百尺、是れ釈迦仏、昔国王と為って菩薩行を修する処なり。遠からずして二の石の卒堵波あり。各高さ百尺、右の側は梵王の立つ所、左は乃ち天帝の立つ所なり」云云。又第五・六に云く「戒日天王、仲春の月、初一日より珍味を以て諸の沙門に饌え、二十一日に至る。王、行宮より一の金像の高さ三尺に余るを出し、載するに大象を以てし、張るに宝幰を以てす。戒日王は帝釈の服を為し、宝蓋を執って以て左に侍り、拘摩羅王は梵天の儀を作し、白払を執り、而して右に侍り、各五百の象軍鎧を被って周衝す」等云云。
今、上来の諸文を以て是れを考うるに、若し行坐の時は右梵・左帝宛も日月の如し。
つづく
上巻 目次