日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 23日

亡き母の舎利を頚に懸け大聖人の草庵に見参した富木常忍を称えた書【忘持経事】

【忘持経事】
■出筆時期:建治二年(1276)三月三十日 五十五歳御作。
■出筆場所:身延 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍に送られたご消息文です。本書を記された一か月ほど前、富木殿の母が九十歳という長寿を全うし亡くなられる。富木常忍は葬儀を終えられると亡き母を弔うため、遺骨を頚(くび)にかけて、はるばる下州より身延の大聖人の草庵に見参した。この様子を大聖人は「舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ<中略>然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見る。法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ、案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」と、まるで叙情詩の如く印象的に記されておられます。
尚、本抄の題号「忘持経事」は、常忍が亡き母を大聖人に弔ってもらうという大願を果たし安堵したためか、所持していた持経(法華経)を身延の草庵に忘れ、そのことを本書冒頭で大聖人が「忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす」と記さりたことな由来する。また常忍は本書を受け取ったあと、自身の目録(日常目録)に「物忘者ノ事」と題号をつけている。

■ご真筆: 中山法華経寺所蔵(重要文化財)。
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[忘持経事 本文]

忘れ給う所の御持経追て修行者に持たせ之を遣わす。
魯の哀公云く人好く忘る者有り移宅に乃ち其の妻を忘れたり云云、孔子云く又好く忘るること此れより甚しき者有り桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり等云云、夫れ槃特尊者は名を忘る此れ閻浮第一の好く忘るる者なり。今常忍上人は持経を忘る日本第一の好く忘るるの仁か、大通結縁の輩は衣珠を忘れ三千塵劫を経て貧路に踟ちゅうし、久遠下種の人は良薬を忘れ五百塵点を送りて三途の嶮地に顛倒せり。

今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。此れより第一の好く忘るる者あり、所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗し念仏者等を扶助する是れなり。親に背いて敵に付き刀を持ちて自を破る、此等は且く之を置く。

夫れ常啼菩薩は東に向つて般若を求め、善財童子は南に向いて華厳を得る。雪山の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ、此等は皆上聖大人なり其の迹を検すれば地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ・身は八熱に入つて火坑三昧を得・心は八寒に入つて清凉三昧を証し、身心共に苦無し。譬えば矢を放つて虚空を射、石を握つて水に投ずるが如し。

今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり、身は俗に非ず道に非ず禿居士、心は善に非ず悪に非ず羝羊のみ、然りと雖も一人の悲母堂に有り、朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り、営む所は悲母の為め、存する所は孝心のみ。而るに去月下旬の比・生死の理を示さんが為に、黄泉の道に趣く此に貴辺と歎いて言く、齢既に九旬に及び、子を留めて親の去ること次第たりと雖も倩事の心を案ずるに去つて後来る可からず何れの月日をか期せん。

二母国に無し、今より後誰をか拝す可き、離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る其の中間往復千里に及ぶ。国国皆飢饉し山野に盗賊充満し宿宿粮米乏少なり、我身羸弱・所従亡きが若く牛馬合期せず峨峨たる大山重重として漫漫たる大河多多なり、高山に登れば頭を天に打ち幽谷に下れば足雲を踏む、鳥に非れば渡り難く鹿に非れば越え難し、眼眩き足冷ゆ、羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。

然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見る、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ、案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。

我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり。譬えば種子と菓子と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目連尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時・無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給うか、然して後に随分仏事を為し事、故無く還り給う云云、恐恐謹言。

富木入道殿

by johsei1129 | 2015-07-23 20:20 | 富木常忍・尼御前 | Comments(0)


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