2015年 07月 16日

我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なりと説いた【南条兵衛七郎殿御書】

■出筆時期:文永元年(1264)十二月十三日 四十三歳御作。
■出筆場所:安房・花房蓮花寺にて。
■出筆の経緯:本書は南条時光の父南条兵衛七郎から、病状が思わしくないことを伝えられことへの返書となっております。
大聖人は「心あらん人は後世をこそ思いさだむべきにて候へ<略>私にはかなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ」と記し、健康な人でもいつかはこの世を去らなければならない。それ故、後の世のことを定めることが大事で、これは自分一人では叶わぬことで、釈尊の教である法華経が根本であると諭しておられます。さらに本書を著した一か月前の十一月十一日に「小松原の法難」が勃発したことを伝え、法華経法師品の「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」の文を引き「唯日蓮一人こそよみはべれ<中略>されば日蓮は日本第一の法華経の行者なりと断じておられます。
文末では「もし、さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし。日本第一の法華経の行者、日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事(粗末に扱うこと)は候はじ」と記し日蓮に帰依し続けるよう励まされております。
尚、南条兵衛七郎は一時病状は回復するものの、翌年三月八日、時光がまた七歳の時に逝去なされます。その際大聖人は兵衛七郎を弔うため富士上野郷に赴き、南条家の墓を墓参されておられます。
■ご真筆: 京都市 本禅寺所蔵(第三紙)、他10箇所にて断簡所蔵。古写本:日興上人筆(北山本門寺、 千葉妙本寺蔵所蔵)。
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[御真筆 第三紙]

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[日興上人筆(千葉妙本寺蔵所蔵]

[南条兵衛七郎殿御書 本文]
御所労の由承り候はまことにてや候らん、世間の定なき事は病なき人も留りがたき事に候へば・まして病あらん人は申すにおよばず・但心あらん人は後世をこそ思いさだむべきにて候へ、又後世を思い定めん事は私にはかなひがたく候、一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。

 しかるに仏の教へ又まちまちなり人の心の不定なる故か。しかれども釈尊の説教・五十年にはすぎず、さき四十余年の間の法門に華厳経には心仏及衆生・是三無差別・阿含経には苦・空・無常・無我・大集経には染浄融通・大品経には混同無二・雙観経・観経・阿弥陀経等には往生極楽、此等の説教は皆正法・像法・末法
の一切衆生をすくはんがためにこそと、かれはべりけんめ。しかれども仏いかんがおぼしけん、無量義経に「方便の力を以て四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれて、先四十余年の往生極楽等の一切経は親の先判のごとく・くひかへされて「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給いて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨て但無上の道を説く」と説かせ給へり。

方便をすてよととかれてはべるは、四十余年の念仏等をすてよととかれて候。かうたしかにくひかへして実義を定むるには「世尊の法は久くして後要当に真実を説くべし」といひ、「久しく斯の要を黙して務いで速かに説かず」等と定められしかば、多宝仏は大地よりわきいでさせ給いてこの事真実なりと証誠をくわへ、十方の諸仏は八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ふ。二処・三会・二界・八番の衆生一人もなくこれをみ候いき。

此等の文をみ候に、仏教を信ぜぬ悪人・外道はさておき候いぬ。仏教の中に入り候ても爾前・権教・念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍・一万・乃至・六万等を一日にはげみて、十年・二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人人は、先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか。

此等は仏説を信じたりげには我身も人も思いたりげに候へども、仏説の如くならば不孝の者なり。
故に法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す、復教詔すと雖も而も信受せず」等云云。

此の文の心は、釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とには・ましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は、釈迦一仏にかぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。

この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり故に、雖復教詔而不信受等と説かれたり。たとひ爾前の経につかせ給いて百千万億劫・行ぜさせ給うとも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば・不孝の人たる故に、三世・十方の聖衆にもすてられ、天神・地祇にもあだまれ給はんか是一。

たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も、根だにも利なれば得道なる事これあり。提婆達多・鴦崛摩羅等これなり。たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり、須利槃特等是なり。我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆をば・おかさざれども、五逆に似たる罪・又日日におかす、又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・人ごとに法華経をばもちゐず、又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず、信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の、十年・二十年の奉公あれども・君の敵をしりながら奏もせず、私にもあだまずば奉公皆うせて、還つてとがに行はれんが如し。当世の人人は謗法の者としろしめすべし是二。

仏入滅の次の日より千年をば正法と申して持戒の人多く得道の人これあり。
正法千年の後は像法千年なり、破戒の者は多く得道すくなし、像法千年の後は末法万年なり、持戒もなし破戒もなし無戒の者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだれたる世なり、清世と申してすめる世には直繩のまがれる木をけづらするやうに、非をすて是を用うるなり。正・像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば、五濁さかりにすぎて、大風の大波を起して岸を打つのみならず、又波と波とをうつなり。見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり・世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり。

しかるに当世は正・像二千年すぎて末法に入つて二百余年、見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり、火を水を以てけすが如し。善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり、すたれあばるれども念仏堂にあらずといひて、すてをきて・そのかたはらにあたらしく念仏堂をつくり彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす。此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしとみへはべり。これらをもつてしるべし、善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機皆うせはてて唯実大乗経の機のみあり、小船には大石をのせず悪人・愚者は大石のごとし、小乗経並に権大乗経・念仏等は小船なり、大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等は、たとへば冬・田を作るが如し時があはざるなり是三。

国をしるべし、国に随つて人の心不定なり。たとへば江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる、心なき草木すらところによる、まして心あらんもの何ぞ所によらざらん、されば玄奘三蔵の西域と申す文に、天竺の国国を多く記したるに・国の習として不孝なる国もあり、孝の心ある国もあり、瞋恚のさかんなる国もあり、愚癡の多き国もあり、一向に小乗を用る国もあり・一向大乗を用る国もあり、大小兼学する国もありと見へ侍り。又一向に殺生の国・一向に偸盗の国・又穀の多き国・又粟等の多き国不定あり、抑日本国はいかなる教を習つてか生死を離るべき国ぞと勘えたるに、法華経に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」等云云、此の文の心は法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり。

弥勒菩薩の云く「東方に小国有り唯だ大機のみ有り」等云云。此の論の文の如きは閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか、肇公の記に云く「この典は東北の小国に有縁なり」等云云。法華経は東北の国に縁ありとかかれたり、安然和尚の云く「我が日本国皆大乗を信ず」等云云、慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云、釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の心ならば日本国は純に法華経の機なり。一句・一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし、有縁の法なるが故なり。たとへばくろかねを磁石のすうが如し・方諸の水をまねくににたり、念仏等の余善は無縁の国なり・磁石のかねをすわず方諸の水をまねかざるが如し。

故に安然の釈に云く「如実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云。此の釈の心は日本国の人に法華経にてなき法をさずくるもの我が身をもあざむき人をもあざむく者と見えたり。されば法は必ず国をかんがみて弘むべし。彼の国によかりし法なれば必ず此の国にもよかるべしとは思うべからず是四。

又仏法流布の国においても前後を勘うべし。仏法を弘むる習い必ずさきに弘めける法の様を知るべきなり。
例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知るべし、薬と薬とがゆき合いてあらそひをなし人をそんずる事あり、仏法と仏法とがゆき合いてあらそひをなして人を損ずる事のあるなり、さきに外道の法弘まれる国ならば仏法を・もつて・これをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり・まとうか・ぢくほうらんの震旦に来つて道士をせめ、上宮太子・和国に生れて守屋をきりしが如し。仏教においても小乗の弘まれる国をば大乗経をもつてやぶるべし、無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し、権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつて・これをやぶるべし、天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し、而るに日本国は天台・真言の二宗の
ひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆・皆法華経の機と定りぬ。善人・悪人・有智・無智・皆五十展転の功徳をそなふ、たとへば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如し、而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして珠に似たる石をもつて珠を投させ、石をとらせたるなり、止観の五に云く「瓦礫を貴んで明珠なりと申す」は是なり、一切衆生石をにぎりて珠とおもふ、念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還つてはらをたち法華経の行者をのりて・ことに無間の業をますなり是五。

但、とのはこのぎをきこしめして念仏をすて法華経にならせ給いてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給いてはべるらん、法華経をすてて念仏者とならせ給はんは峯の石の谷へころび、空の雨の地におつると・おぼせ大阿鼻地獄疑なし、大通結縁の者の三千塵点劫を、久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあいて法華経をすてて念仏等の権教にうつりし故なり。一家の人人・念仏者にてましましげに候いしかば、さだめて念仏をぞすすめまいらせ給い候らん。我が信じたる事なればそれも道理にては候へども・悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人人なりと・おぼして・大信心を起し御用いあるべからず、大悪魔は貴き僧となり父母・兄弟等につきて人の後世をば障るなり。いかに申すとも法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用いあるべからず、まづ御きやうさくあるべし。

念仏実に往生すべき証文つよくば此の十二年が間、念仏者・無間地獄と申すをばいかなるところへ申しいだしても、つめずして候べきか。よくよくゆはき事なり、法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は、日蓮らは十七八の時よりしりて候いき。このごろの人の申すもこれにすぎず、結句は法門はかなわずしてよせてたたかひにし候なり。念仏者は数千万かたうど多く候なり、日蓮は唯一人かたうどは一人もこれなし、今までもいきて候はふかしぎなり、今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にあふものは・わづかに三四人なり、いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のてにて候、自身もきられ打たれ結句にて候いし程に、いかが候いけん、うちもらされて・いままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ。

第四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」、第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、日本国に法華経よみ学する人これ多し、人の妻をねらひ・ぬすみ等にて打はらるる人は多けれども・法華経の故にあやまたるる人は一人もなし、されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあわせ給はず、唯日蓮一人こそよみはべれ、我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。

もし・さきにたたせ給はば梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給うべし。日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ、よもはうしんなき事は候はじ、但一度は念仏・一度は法華経となへつ・二心ましまし人の聞にはばかりなんど・だにも候はば、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ、後にうらみさせ給うな、但し又法華経は今生のいのりともなり候なれば、もしやとしていきさせ給い候はば・あはれ・とくとく見参してみづから申しひらかばや。語はふみにつくさず・ふみは心をつくしがたく候へばとどめ候いぬ、恐恐謹言。
     
文永元年十二月十三日               日 蓮 花押
南条七郎殿


【妙法蓮華経 勧持品第十三】
 濁劫悪世中 多有諸恐怖 悪鬼入其身 罵詈毀辱我
 我等敬信仏 当著忍辱鎧 為説是経故 忍此諸難事
 我不愛身命 但惜無上道
[和訳]
 濁劫の悪世の中には、諸々の恐ろしき事多く有りなん、悪鬼が其の身に入り 我(法華経の行者)を罵詈し毀辱せんも、
 我らは仏を敬い信ずる故に、当に忍辱の鎧(よろい)を著るべし。 是の経を説く為に、此の諸々の難事を忍ばん。
 我は身命を愛せず(惜しむことなく)、但、無上道(仏道)を惜しむなり。
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by johsei1129 | 2015-07-16 20:49 | 南条時光(上野殿) | Comments(0)


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