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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 14日

観心本尊抄文段 上十二 日本国中の諸宗諸流、我が主師親を知らず。他人の主師親を以て我が主師親と為し、還(かえ)って我が主師親を下(くだ)す。豈(あに)不孝の者に非ずや。


問う、本尊の名義(みょうぎ)は如何。

答う、(およ)そ本尊の名は、()に通じ、内に通じ、(ごん)に通じ、実に通じ、迹に通じ、本に通ず。故に内外・権実・迹本の諸宗、(みな)主師親を以て用いて本尊と為す。

故に宗祖云く「一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべき者(みつ)あり所謂(しゅ)()(しん)これなり」と。

故に其の家々に主師親を根本と為し之を尊敬す、故に本尊というなり。故に本尊の名は内外(ないげ)(ごん)(じつ)迹本(しゃくほん)の諸宗に通ずと(いえど)も、而も其の体に於て天地(てんち)雲泥(うんでい)なり。

所謂(いわゆる)儒家(じゅけ)には(さん)(こう)()(てい)(もっ)て本尊と()す。倶舎(くしゃ)(じょう)(じつ)(りつ)宗並びに禅宗は三蔵劣応(れっとう)(じん)の小釈迦を本尊と為す。法相(ほっそう)・三論の二宗は通教の勝応(しょうおう)(じん)の大釈迦仏を本尊と()す。浄土宗阿弥陀(あみだ)仏、華厳(けごん)宗は台上の盧舎那(びしゃな)(ほう)(しん)、真言宗は大日如来を用いて本尊と為す。若し天台(てんだい)大師は止観(しかん)の四種三昧(さんまい)の中には弥陀(みだ)を以て本尊と為し、別時の一念三千の時は南岳(なんがく)所伝の十一面観音(かんのん)を以て本尊と為し、(まさ)しく法華三昧の中には(ただ)法華経一部を以て本尊と為す。若し伝教大師は迹門戒壇の本尊は()(きょう)開会(かいえ)の迹門の教主釈尊なり。根本中堂の本尊は薬師如来なり。(ただ)し多くの相伝あり云云。

若し日本国中の諸門流は、或は螺髪(らほつ)(おう)(じん)立像の釈迦、戎は(てん)(かん)()受用(じゅゆう)(ほう)(しん)、或は応仏自受用報身を用いて本尊と為す。此くの如く宗々流々の本尊は其の体(こと)なりと(いえど)も、其の名義(みょうぎ)に於ては格別なるべからず。(ただ)是れ根本と為してこれを(そん)(ぎょう)す。故に本尊と名づくるなり。

当流(また)(しか)なり。文底深秘の大法・本地難思の境智冥合・久遠(くおん)元初(がんじょ)の自受用報身・本有(ほんぬ)無作(むさ)の事の一念三千の南無妙法蓮華経を根本と為して之を尊敬す。故に本尊と名づくるなり。是れ(すなわ)十方(じっぽう)三世の諸仏の御本尊、末法下種の主師親なるが故なり。

本尊問答抄に云く「問うて云く末代(あく)()の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし乃至上に()ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者(ぎょうじゃ)の正意なり乃至()(げん)に云わく」等云云。

此等の文意、主師親を根本と()して之を尊敬する故に本尊と名づくる意なり。

此れに人法あり。(いわ)、人は即ち久遠元初の自受用報身、法は即ち事の一念三千の大曼荼羅(まんだら)なり。人に即して是れ法、事の一念三千の大曼荼羅を主師親と為す。法に即して是れ人、久遠元初の自受用身・(れん)()聖人を主師親と為す。人法の名(こと)なれども、その体(つね)に一なり。此れ(すなわ)ち末法我等が下種の主師親の三徳なり。

(しか)るに日本国中の諸宗諸流、我が主師親を知らず。(なお)在世(じゅく)(だつ)の三徳に(しゅう)す。他人の主師親を以て我が主師親と為し、(かえ)って我が主師親を(くだ)す。(あに)不孝の者に非ずや。哀むべし、悲しむべし云云。

問う、(もう)抄に日()抄を引いて云く「今此の本尊は即ち是れ本有(ほんぬ)の尊像なり。故に本尊と云う」と云云。忠抄の意に云く「本門()()の三千の尊形(そんぎょう)なり。故に本尊と云う」と。日我の抄に云く「本とは本地(ほんち)なり。尊とは迹仏の思慮(しりょ)に及ばず、無始(むし)(しき)(しん)妙境(みょうきょう)(みょう)()の尊体なり。故に本尊と云うなり」と云云。此等の釈義(しゃくぎ)如何(いかん)

答う、正義(しょうぎ)(さき)の如し。(ぼう)は此等の意を含むべきなり云云。

                    つづく


上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-14 19:58 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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