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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 06月 30日

観心本尊抄文段 上一 暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕われざるなきなり。


  観心本尊抄文段 上    

                      富山大石寺二十六世 日寛 謹んで記す


 ()れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には(ただ)法華経、法華経二十八品の中には(ただ)本門寿量品、本門寿量品の中には但文底(もんてい)深秘(しんぴ)の大法にして本地(ほんち)(ゆい)(みつ)の正法なり。

 此の本尊に(にん)あり(ほう)あり。人は(いわ)く、久遠元(くおんがん)(じょ)境智冥合(きょうちみょうごう)自受用(じじゅゆう)(ほう)(しん)。法は謂く、久遠名字(みょうじ)の本地難思(なんし)の境智の妙法なり。法に(そく)してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は(こと)なれども、その(たい)(つね)に一なり。その体は一なりと(いえど)も、(しか)も人法宛然(おんねん)なり。(まさ)に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

これ(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の()(しゅ)せらるる処なり。

故に十方(じっぽう)三世(さんぜ)(ごう)(しゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆(ことごと)くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。(たと)えば百千枝葉(しよう)同じく一根に(おもむ)くが如し。

故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり。故に(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして(かな)わざるなく、罪として滅せざるなく、福として(きた)らざるなく、理として(あらわ)れざるなきなり。(みょう)(らく)所謂(いわゆる)正境(しょうきょう)に縁すれば功徳(くどく)(なお)多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐(ほんかい)、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人(ぎょうにん)(しょ)(しゅう)明鏡(みょうきょう)なり。

故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期(いちご)の大事なり」等云云。故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂(いわゆる)三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(くでん)種脱(しゅだつ)一百六箇の本迹、三大章疏(しょうしょ)七面七重口決(くけつ)(たい)(とう)両家二十四番の勝劣、摩訶(まか)止観(しかん)十重(じゅうじゅう)(けん)(かん)の相伝、四重(しじゅう)興廃(こうはい)、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨(しゅうし)の三箇、文上(もんじょう)文底(もんてい)本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)自行(じぎょう)()()形貌(ぎょうみょう)種脱、(はん)(しょう)名字(みょうじ)応仏(おうぶつ)昇進(しょうしん)久遠(くおん)元初(がんじょ)名同(みょうどう)(たい)()、名異体同、事理の三千、(かん)(じん)教相(きょうそう)本尊(ほんぞん)七箇の口決(くけつ)三重の相伝、筆法(ひっぽう)の大事、明星(みょうじょう)(じっ)(けん)の伝受、(じん)(じん)(おう)()、宗門の淵底(えんてい)(ただ)我が()の所伝にして諸門流の知らざる所なり。

所以(ゆえ)(にっ)(ちゅう)(にっ)(しん)の博覧も(なお)当抄の元意(がんい)(あきら)むる(あた)わず。(いか)(いわん)(にち)(ごん)(にっ)(ちょう)(にっ)(ちょう)日講(にちこう)等の僻見(びゃっけん)(やから)をや。

この故に宗祖の本懐これが為に(おお)われ、当抄の奥義(おうぎ)(いま)(かつ)(あらわ)れざるなり。故に宗門の流々(りゅうりゅう)(みな)本尊に迷い、(あるい)螺髪(らほつ)応身立像の釈迦を以て本尊と為し、或は(てん)(かん)()受用(じゅゆう)色相(しきそう)荘厳(そうごん)の仏を本尊と為す。これ(しか)しながら、当抄の意をめらざる故なり。

(ただ)房州の(にち)()のみ(ひと)りその大要を得たり。(しか)りと(いえど)も、その(もん)()に至っては、(いま)()(つく)さざるの処あり。学者、文に(のぞ)(よろ)しく之を斟酌(しんしゃく)すべし。

()れ時享保(きょうほう)第六(1721年)(たい)(さい)(かのと)(うし)猛夏中旬、総州(ほそ)(くさ)の学校及び当山所栖(しょせい)の学徒等四十余輩、異体同心に、()に当抄を講ぜんことを()う。

(こん)()一途(いちず)にして信心無二なり。余(おもえ)らく、四十余輩(むし)一人(いちにん)に非ずや。或は三四(さんし)並席(びょうせき)(いましめ)(まぬか)れんか。

 この故に老病()うべきなしと雖も、(つい)固辞(こじ)する能わず、(ほぼ)文の起尽(きじん)(わか)ち、(ほぼ)義の綱要を示す。またこれを後代の君子に(おく)(ねんごろ)に三仏の顔貌(げんみょう)を拝せんことを()するのみ。


                   つづく



by johsei1129 | 2015-06-30 22:31 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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