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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 05月 01日

開目抄愚記 上一

  
  開目抄上愚記本

                富山大石学頭大貳(だいに)阿闍(あじゃ)()日寛記す

      序

一 当抄の興記を述作する事。

  (およ)そ当抄の興起は、別して竜口(たつのくち)巨難()いて由って起る所なり。(いわ)く、蓮祖大聖人は正しく末法の法華経の行者にして三徳有縁(うえん)の仏なり。(しか)るに日本国の上下万民は(いま)(かつ)てこの事を知らず。父母宿世の(かたき)よりも強く(にく)み、謀叛(むほん)殺害の者よりも強く責め、(あまつさ)え文永八年九月十二日には既に御命に及ぶ。然りと雖も、誹謗の人()えて現罰を(こうむ)ることなし。諸天等の誓言も(ほとん)徒然(とぜん)なるに似たり。故に弟子檀那は恐らく疑心を生じ、蓮祖はこれ法華経の行者に非ずと(おも)う。故に正しく法華経の行者なることを決定(けつじょう)し、疑を断じて信を生ぜしめんが為にこの抄を述作するなり。これ則ち佐州已後内々に(これ)(かんが)え、翌年二月にこれを書し、別しては四条金吾頼基(よりもと)に賜い、通じては弟子檀那の形見に()したまうなり。

  当抄上三十六に云く「諸天等の守護神は仏前の御誓言あり、法華経の行者には・さる()になりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・()げんとこそをぼすべきに()の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心(かんじん)一期(いちご)の大事なれば処処にこれをかく」と。

 下巻二十七に云く「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日()(うし)の時に(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて(かえる)(とし)の二月・雪中にしるして有縁(うえん)の弟子へ()くればをそ()ろしくて・()そろしからず・()ん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方(じっぽう)の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」と文。

  佐渡抄十四・九に云く「去年の十一月より(かんが)えたる開目抄と申す文二巻造りたり、(くび)()らるるならば日蓮が不思議とど()めんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮に()りて日本国の有無(うむ)はあるべし、(たと)えば(いえ)に柱なければ・たもたず、人に(たましい)なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門(すで)に日本の柱をたをしぬ(乃至)かやうに書き付けて中務(なかつかさ)三郎左衛門尉が使にとらせぬ」と云云。中務三郎左衛門とは即ち四条金吾の義なり。(たつの)(ぐち)の時、別して捨身決定(けつじょう)(じん)()を顕せし故にこの人に(たま)うなり。

一 当抄の大意の事

凡そ当抄の大意は、末法下種の(にん)の本尊を顕すなり。謂く、蓮祖出世の本懐は(ただ)三箇の秘法に()り。(しか)りと(いえど)も、佐渡已前に於ては(いま)だその義を顕さず。佐渡已後にこの義を顕すと雖も、(なお)当抄等に於ては未だその名目を出さず。然りと雖も、その意は(つね)に三箇の秘法に在り。

 中に於て当抄は()ず末法下種の人の本尊を顕すなり。故に当抄の始めに三徳の尊敬(そんぎょう)等を標し、次に儒外(じゅげ)()いで内典を釈する中に、先ず一代の(せん)(じん)を判じ、(じゅく)(だつ)の三徳を顕し、次に蓮祖はこれ法華経の行者なることを明かす。

  巻の終りに至って(まさ)しく下種の三徳を顕し、「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」というなり。

  また佐渡抄に「日本国の魂なり、日本国の柱なり」とは、即ち蓮祖は日本国の主師親なるが故なり。

  報恩抄に云く「(ひとつ)には本門の教主釈尊を本尊と()すべし。(ふたつ)には本門の戒壇。(みつ)には本門の題目なり。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」(取意)等云云。これを思い合すべし。

一 当抄の題号の事。

今、開目抄と題することは、盲目を開く義なり。所謂(いわゆる)、日本国の一切衆生、執権(しゅうごん)等の(まく)(おお)わるる為に真実の三徳を見ること(あた)わず、故に盲目の如し。(しか)るに当抄に、一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす、故に開目抄と名づくるなり。

(つぶさ)にこれを釈せば、いうところの「開」とは即ち二意を含む。一には所除(しょじょ)、二には所見なり。所除は即ち執権等なり、所見は即ち三徳なり。(たと)えば、世の盲目の膜を除いて物を見るを、目を開くと名づくるが如し。()し膜を除かずんば、これ目を開くには(あら)ず。若し物を見ずんば、(また)目を開くには非ず。今また是くの如く二意を含むなり。妙楽の記三中四十八に云く「(ほつ)とは開なり。所除の辺に約して名づけて発迹(ほっしゃく)と為し、所見の辺に約して名づけて発本と為す」と云云。「開」の字の両意この文に分明なり。

次に盲目とは四人を出でず。一には外典(げてん)の人、二には()(ぜん)の人、三には迹門(しゃくもん)の人、四には脱益(だっちゃく)の人なり。

一に外典の盲目とは、(ただ)世間有為(うい)の三徳に執して出世無為(むい)の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。

二に爾前の盲目とは、但爾前権経の三徳に(しゅう)して法華真実の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。

三に迹門の盲目とは、(ただ)迹門熟益の三徳に執して本門久遠(くおん)の三徳を見ず、故に盲目と名づくるなり。
 四に脱益の盲目とは、
(ただ)文上(もんじょう)脱益の三徳に執して文底下種の三徳を見ず、故に(なお)盲目と名づくるなり。

  略して(だい)()を結せば、今この抄の意、
 一には世間
有為(うい)の三徳の執を除いて出世無為の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 二には
()(ぜん)権経の三徳の執を除いて法華真実の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 三には迹門熟益の三徳の執を除いて本門
久遠(くおん)の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 四には文上脱益の三徳の執を除いて文底下種の三徳を見る、故に開目抄と名づくるなり。
 今題号の意、
(まさ)しく第四に()り、(しか)りと雖もこの義、幽微(ゆうび)にして(あらわ)し難し。故に浅きより深きに至って次第にこれを判ずるなり。(たと)えば、高きに登るに必ず(ひく)きよりし、遠きに往くに必ず近きよりするが如し。故に諄々(じゅんじゅん)として丁寧(ていねい)なり。
 学者、深く思いてこれを
(ゆるがせ)にすること(なか)


                   つづく

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by johsei1129 | 2015-05-01 22:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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