日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 29日

本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可し、と明かした【唱法華題目抄】四

[唱法華題目抄 本文]その四

 問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき。

 答えて云く、第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても、法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし。道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず。常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし。たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し。助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし、愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず、其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

 問うて云く只題目計を唱うる功徳如何。

 答えて云く、釈迦如来・法華経をとかんとおぼしめして世に出で・ましまししかども、四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をまうけ、七十二にして始めて題目を呼び出させ給へば、諸経の題目に是を比ぶべからず。其の上法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。天台大師・玄義十巻を造り給う、第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の意を宣べ給う、第二の巻より七の巻に至るまでは又広く妙の一字を宣べ八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を釈し、第十の巻には経の一字を宣べ給へり。経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めたり。妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり。止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う。一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし。華厳・阿含等の四十余年の経経・小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず、又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳をおさめず、又王にては有れども王中の王にて無き経も有り、仏も又経に随つて他仏の功徳をおさめず平等意趣をもつて他仏自仏とをなじといひ、或は法身平等をもて自仏・他仏同じといふ。実には一仏に一切仏の功徳をおさめず、今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏・一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり。諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。

 問うて云く、此の法門を承つて又智者に尋ね申し候えば法華経のいみじき事は左右に及ばず候、但し器量ならん人は唯我が身計りは然る可し。末代の凡夫に向つてただちに機をも知らず爾前の教を云いうとめ法華経を行ぜよと申すは、としごろの念仏なんどをば打ち捨て又法華経には未だ功も入れず有にも無にもつかぬようにてあらんずらん。又機も知らず法華経を説かせ給はば信ずる者は左右に及ばず若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕ち候はんずらん。其の上仏も四十余年の間・法華経を説き給はざる事は、若但讃仏乗・衆生没在苦の故なりと在世の機すら猶然なり、何に況や末代の凡夫をや。されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言わく、無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云。此等の道理を申すは如何が候べき。

 答えて云く、智者の御物語と仰せ承り候へば、所詮末代の凡夫には機をかがみて説け左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ。彼人さやうに申され候はば御返事候べきやうは抑若但讃仏乗・乃至無智人中等の文を出し給はば、又一経の内に凡有所見・我深敬汝等等と説いて、不軽菩薩の杖木瓦石をもつて・うちはられさせ給いしをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。

 問うて云く、一経の内に相違の候なる事こそよに得心がたく侍ればくわしく承り候はん。

 答えて云く、方便品等には機をかがみて此の経を説くべしと見え不軽品には謗ずとも唯強いて之を説くべしと見え侍り、一経の前後水火の如し。然るを天台大師会して云く「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之を強毒す」文。文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし。然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらえて後に法華経を説くべし、本と大の善根もなく今も法華経を信ずべからずなにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて、逆縁ともなせと会する文なり。此の釈の如きは末代には善無き者は多く善有る者は少し、故に悪道に堕ちんこと疑い無し。同くは法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか、然らば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍い無き者をや。又法華経の方便品に五千の上慢あり、略開三顕一を聞いて広開三顕一の時、仏の御力をもて座をたたしめ給ふ後に涅槃経並に四依の辺にして今生に悟を得せしめ給うと。諸法無行経に喜根菩薩・勝意比丘に向つて大乗の法門を強いて説ききかせて謗ぜさせしと。此の二の相違をば天台大師会して云く「如来は悲を以ての故に発遣し、喜根は慈を以ての故に強説す」文。文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣いて当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲み給いて座をたたしめ給いき。譬えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如し。喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず後の楽を思いて強いて之を説き聞かしむ。譬えば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し。又仏在世には仏法華経を秘し給いしかば四十余年の間等覚不退の菩薩名をしらず、其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給いて最後にきかしめ給いき、末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡ぶ、末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり。文の心は仏在世には仏一期の間多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出して謗ぜしめず機をこしらへて之を説く、仏滅後には当機の衆は少く結縁の衆多きが故に多分に就いて左右なく法華経を説くべしと云う釈なり。是体の多くの品あり又末代の師は多くは機を知らず機を知らざらんには強いて但実教を説くべきかされば、天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざれば但大を説くに咎無し」文。文の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云う文なり、又時の機を見て説法する方もあり。皆国中の諸人・権経を信じて実経を謗し、強に用いざれば弾呵の心をもて説くべきか時に依つて用否あるべし。

 問うて云く、唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候。

 答えて云く、仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き、後には法華経を説いて言わく「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可」文。文の心は仏但爾前の経許りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪の失ありと説かれたり。後に属累品にいたりて仏右の御手をのべて三たび諌めをなして三千大千世界の外・八方・四百万億那由佗の国土の諸菩薩の頂をなでて、未来には必ず法華経を説くべし、若し機たへずば余の深法の四十余年の経を説いて機をこしらへて法華経を説くべしと見えたり。後に涅槃経に重ねて此の事を説いて、仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに又法の四依あり実経をついに弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり。故に如来の滅後後の五百年・九百年の間に出で給いし竜樹菩薩・天親菩薩等、遍く如来の聖教を弘め給うに、天親菩薩は先に小乗の説一切有部の人・倶舎論を造つて阿含十二年の経の心を宣べて、一向に大乗の義理を明さず、次に十地論・摂大乗論・釈論等を造つて四十余年の権大乗の心を宣べ、後に仏性論・法華論等を造りて粗実大乗の義を宣べたり。竜樹菩薩亦然なり、天台大師・唐土の人師として一代を分つに大小・権実顕然なり、余の人師は僅かに義理を説けども分明ならず、又証文たしかならず、但し末の論師並に訳者・唐土の人師の中に大小をば分つて大にをいて権実を分たず、或は語には分つといへども心は権大乗のをもむきを出でず、此等は不退諸菩薩・其数如恒沙・亦復不能知とおぼえて候なり。

 疑つて云く、唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身牙より光を放つ、善導和尚は弥陀の化身口より仏をいだす、この外の人師通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多し、なんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや。

 答えて云く、阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ、婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず。唐土の道士の中にも張階は霧をいだし鸞巴は雲をはく、第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり。通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず。

文応元年太歳庚申五月二十八日                   日 蓮  花 押
鎌倉名越に於て書き畢んぬ

by johsei1129 | 2015-01-29 19:27 | 御書十大部(五大部除く) | Comments(0)


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