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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 26日

本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可し、と明かした【唱法華題目抄】一 

【唱法華題目抄】
■出筆時期:文応元年(西暦1260年) 三十九歳御作 
■出筆場所:鎌倉・名越の松葉ヶ谷・草庵にて
■出筆の経緯:本抄については日興上人の『富士一跡門徒存知事』に「一、唱題目抄一巻。此の書は最初の御書なり。文応年中・常途の天台宗の義分を以て且く爾前と法華の相違を註し給へり。仍って文言義理共に爾しかなり」とあります。『立正安国論』と同時期に述作されており、両御書ともに法華経と爾前経の勝劣、特に法然の念仏破折が主題となっておられるが、『立正安国論』が国家諌暁を目的としているのに対し、本書『唱法華題目抄』は弟子・信徒の教化を目的として大聖人と念仏信者との十五番の問答形式で、より詳細に分かりやすく法華経と爾前経の勝劣を認められておられます。更に後段では、三十二歳の立宗宣言後七年目に述作された本抄で『本尊は法華経八巻・一巻・一品・或は題目を書いて本尊と定む可し』と、佐渡の地で初めて御図現された御本尊の相貌をすでに示唆されております。
※御本尊の相貌については日女御前御返事を参照願います。 日女御前御返事
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興上人筆(神奈川県、由井氏所蔵)

[唱法華題目抄 本文]その一

 有る人・予に問うて云く、世間の道俗させる法華経の文義を弁へずとも一部・一巻・四要品(ようぼん)・自我偈(じがげ)・一句等を受持し、或は自らもよみかき・若しは人をしてもよみかかせ、或は我とよみかかざれども経に向い奉り合掌礼拝をなし、香華を供養し・或は上の如く行ずる事なき人も、他の行ずるを見てわづかに随喜の心ををこし、国中に此の経の弘まれる事を悦ばん。是体(これてい)の僅かの事によりて世間の罪にも引かれず・彼の功徳に引かれて、小乗の初果の聖人の度度人天に生れて而も悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ・終に法華経を心得るものと成つて十方浄土にも往生し、又此の土に於ても即身成仏する事有るべきや委細に之を聞かん。

 答えて云く、させる文義を弁えたる身にはあらざれども、法華経・涅槃経・並に天台妙楽の釈の心をもて推し量るに、かりそめにも法華経を信じて聊(いささか)も謗(ぼう)を生ぜざらん人は余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。但し悪知識と申してわづかに権教を知れる人・智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和(やわら)げ申さんを誠と思いて・法華経を随喜せし心を打ち捨て、余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん。

 仰せに付いて疑はしき事侍り。実にてや侍るらん。法華経に説かれて候とて智者の語らせ給いしは、昔三千塵点劫の当初(そのかみ)・大通智勝仏と申す仏います。其の仏の凡夫にていましける時、十六人の王子をはします。彼の父の王・仏にならせ給ひて一代聖教を説き給いき。十六人の王子も亦出家して其の仏の御弟子とならせ給いけり。大通智勝仏・法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば、十六人の王子の沙弥・其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり。其の所説を聴聞せし人・幾千万といふ事をしらず。当座に悟をえし人は不退の位に入りにき。又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり、其の人人・当座中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。其の間又つぶさに六道四生に輪廻し、今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退の位に入る。所謂・舎利弗・目連・迦葉・阿難等是なり。猶猶信心薄き者は当時も覚らずして未来無数劫を経べきか知らず。我等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。此の結縁の衆をば天台妙楽は名字観行の位にかなひたる人なりと定め給へり。名字観行の位は一念三千の義理を弁へ、十法成乗の観を凝し、能能(よくよく)義理を弁えたる人なり。一念随喜・五十展転と申すも天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり。博地(はくじ)の凡夫の事にはあらず。
 然るに我等は末代の一字一句等の結縁(けちえん)の衆、一分の義理をも知らざらんは豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや。是れ偏えに理深解微の故に・教は至つて深く・機は実に浅きがいたす処なり。只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給わん時・聞いて悟を得んには如かじ。
 然るに弥陀の本願は有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒等をも択(えら)ばず、只一念唱うれば臨終に必ず弥陀如来・本願の故に来迎し給ふ。是を以て思うに此の土にして法華経の結縁を捨て・浄土に往生せんとをもふは、億千世界の塵点を経ずして疾(とく)法華経を悟るがためなり。法華経の根機にあたはざる人の・此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く・極楽の業は定まらず、中間になりて中中法華経をおろそかにする人にてやおはしますらんと申し侍るは如何に。
 其の上・只今承り候へば、僅に法華経の結縁計(ばかり)ならば三悪道に堕ちざる計にてこそ候へ、六道の生死を出るにはあらず。念仏の法門はなにと義理を知らざれども・弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞え侍れ。

 答えて云く、誠に仰せめでたき上・智者の御物語にも侍るなればさこそと存じ候へども、但し若し御物語のごとく侍(はべ)らばすこし不審なる事侍り。大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字観行の者とは釈せられて侍れども、正しく名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり、後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗して之を捨てし者なり。設え義理を知るようなる者なりとも、謗法の人にあらん上は三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。五十展転一念随喜の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは・末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入る可からずと仰せ候か。是を天台妙楽・初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。
 所詮仰せの御義を委く案ずればをそれにては候へども謗法の一分にやあらんずらん。其の故は法華経を我等末代の機に叶い難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや。若しさやうに侍らば・末代の一切衆生の中に此の御詞(みことば)を聞きて既に法華経を信ずる者も打ち捨て、未だ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず。随喜の心も留め侍らば・謗法の分にやあるべかるらん。若し謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給うとも御往生は不定にこそ侍らんずらめ。
 又弥陀の名号を唱へ極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは、何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん。正(まさ)しくつよき証文候か。若しなくば其の義たのもしからず。前に申し候いつるがごとく法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕すべからず候。六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。但し悪知識に値つて法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか。

 又仰せに付いて驚き覚え侍り。其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば・さかと思い侍る処に、只今の仰せの如くならば弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上、悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ。
 抑(そもそも)大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり。又一念随喜・五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん。委く承り候はばや。又義理をも知らざる者・僅かに法華経を信じ侍るが、悪智識の教によて法華経を捨て・権教に移るより外の世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか。又無智の者の念仏申して往生すると何に見えてあるやらんと申し給うこそよに事あたらしく侍れ。雙観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明かに見えて侍らん上はなにとか疑い給うべき。

 答えて曰く、大通結縁の者を退大取小の謗法・名字即の者と申すは私の義にあらず。天台大師の文句第三の巻に云く「法を聞いて未だ度せず。而して世世に相い値うて今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを妙楽大師の疏記第三に重ねて此の釈の心を述べ給いて云く「但全く未だ品に入らず。倶に結縁と名づくるが故に」文。文の心は大通結縁の者は名字即の者となり。
 又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云く「若しは信・若しは謗、因つて倒れ・因つて起く。喜根を謗ずと雖も後要(かな)らず度を得るが如し」文。文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す。五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり、又初随喜の位の先の名字即と申す釈もあり。疏記第十に云く「初めに法会にして聞く、是れ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内・第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。

[唱法華題目抄 本文]その二に続く




by johsei1129 | 2015-01-26 22:38 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)


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