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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 24日

末法の仏法僧は自我偈の文に顕然なり 【当流行事抄】唱題篇二

問う、(およ)法華(ほっけ)本門(ほんもん)の三宝とは塔中(たっちゅう)の両尊即ち仏宝なり、法華一部は是れ法宝なり、上行已下は是れ僧宝なり、(かく)の如き三宝は経文に顕然(けんねん)なり。是の故に吾等信を投ずるに地有り、久遠元初の三宝末法に出現すとは、此れは是れ前代未聞の事なり、()誠証(じょうしょう)無くんば誰か之を信ずべけんや。

答う、諸流は(ただ)在世の三宝を知って未だ末法の仏法僧を知らず、(しか)も亦共に(ほん)()()(ぜん)を許す。下種の三宝は惑耳(わくに)(きょう)(しん)す、今明文を引いて不信の闇を晴らさん。

経(寿量品)に曰わく「時に我及び衆僧、(とも)(りょう)鷲山(じゅせん)等云云。時とは即ち末法なり、我は即ち仏宝なり、及は即ち法宝なり、衆僧(あに)僧宝に非ずや。此くの如き三宝末法に出現するが故に「()我及(がぎゅう)()(しゅつ)と云うなり、(しか)りと(いえど)も謗法罪の衆生は悪業の因縁を以て無量阿僧祇(あそうぎ)(こう)を過ぐれども此くの如き三宝の名を聞かず、故に経(寿量品)に説いて「()の諸の罪の衆生は三宝の名を聞かず」と云うなり。(ただ)信行具足の(やから)のみ有って則ち皆此くの如き三宝を見ることを得。故に経(寿量品)に云わく「諸有の功徳を修し柔和(にゅうわ)(しち)(じき)者は、則ち皆我身皆(ここ)()って云云。諸有(しょう)(しゅう)功徳(くどく)は即ち是れ行なり、柔和質直(あに)信心に非ずや、(そっ)(かい)(けん)我身(がしん)とは我が身即ち是れ仏宝なり、在此(ざいし)()説法(せっぽう)とは法は即ち所説(あに)法宝に非ずや、説は即ち能説(むし)ろ僧宝に非ずや。(しか)れば則ち経文明白なり、(あお)いで之を信ず可きのみ。

末法出現の三宝、その体最も明らかなり  につづく

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by johsei1129 | 2015-01-24 17:05 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


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