問う、凡そ法華本門の三宝とは塔中の両尊即ち仏宝なり、法華一部は是れ法宝なり、上行已下は是れ僧宝なり、斯の如き三宝は経文に顕然なり。是の故に吾等信を投ずるに地有り、久遠元初の三宝末法に出現すとは、此れは是れ前代未聞の事なり、若し誠証無くんば誰か之を信ずべけんや。
答う、諸流は但在世の三宝を知って未だ末法の仏法僧を知らず、然も亦共に本未有善を許す。下種の三宝は惑耳驚心す、今明文を引いて不信の闇を晴らさん。
経(寿量品)に曰わく「時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」等云云。時とは即ち末法なり、我は即ち仏宝なり、及は即ち法宝なり、衆僧豈僧宝に非ずや。此くの如き三宝末法に出現するが故に「時我及倶出」と云うなり、然りと雖も謗法罪の衆生は悪業の因縁を以て無量阿僧祇劫を過ぐれども此くの如き三宝の名を聞かず、故に経(寿量品)に説いて「是の諸の罪の衆生は三宝の名を聞かず」と云うなり。唯信行具足の輩のみ有って則ち皆此くの如き三宝を見ることを得。故に経(寿量品)に云わく「諸有の功徳を修し柔和質直なる者は、則ち皆我身皆此に在って法を説くと見る」云云。諸有修功徳は即ち是れ行なり、柔和質直豈信心に非ずや、則皆見我身とは我が身即ち是れ仏宝なり、在此而説法とは法は即ち所説豈法宝に非ずや、説は即ち能説寧ろ僧宝に非ずや。然れば則ち経文明白なり、仰いで之を信ず可きのみ。
末法出現の三宝、その体最も明らかなり につづく
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