問う、今日在世得脱の衆生は皆是れ三五下種の輩なり、何ぞ久遠元初の下種等と云うや。
答う、三五下種と言うとは且く是れ当家第一・第二の教相の意なり。若し第三の教相顕われ已れば在世の衆生は皆悉く久遠元初下種の人なり。且く身子の如き鹿苑の断惑は只是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず、是れ則ち種子を知らざる故なり。然るに法華に来至して大通の種子を覚知す、此れ即ち跨節の断惑なり。然りと雖も若し本門に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ず、未だ久遠の下種を了せざるの故なり。而る後本門に至って久遠の下種を顕わす、此れ即ち跨節の断惑なり。然りと雖も若し文底に望むれば猶是れ当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり。若し文底の眼を開いて還って彼の得道を見れば実に久遠元初の下種の位に還って名字妙覚の極位に至る、此れ即ち真実の跨節の断惑なり。故に経(譬喩品)に云わく「以信得入」等云云。以信豈名字に非ずや、得入は即ち是れ妙覚なり。
又云わく「我等当信受仏語」云云。
宗祖釈して云わく「此の無作三身は一字を以て得たり、所謂信の一字なり」云云。信は即ち慧の因、名字即なり、無作三身豈妙覚に非ずや。身子既に爾り、一切皆然らん云云。当流深秘、三重相伝云云。
久遠元初下種のわれらが妙覚に至る明文 につづく
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