第一 方便品篇
問う、凡そ当流の意は一代経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品を以って用いて所依と為し、専ら迹門無得道の旨を談ず、何ぞ亦方便品を読誦し以って助行とするや。
答う、但是れ寿量品が家の方便品なり。宗祖の所謂「予が読む所の迹門」とは是れなり。予が読む所の迹門に亦両意を含む。所謂一には所破の為、二には借文の為なり。故に開山上人曰わく「一に所破の為とは方便称読の元意は只是れ牒破の一段なり。二に借文の為とは迹の文証を借りて本の実相を顕わすなり」等云云。
今謹んで解して曰わく、文々句々自ら両辺有り、所謂文・義なり。文は是れ能詮、義は是れ所詮、故に読誦に於て亦両意を成す。是れ則ち所詮の辺に約せば所破の為なり、能詮の辺に約せば借文の為なり。故に所破の為とは即ち迹門所詮の義を破するなり。借文の為とは迹門能詮の文を借りて本門の義を顕わすなり。
且く唯仏与仏乃能究尽の文の如き、此の一文を誦するに即ち両意を含む。
一には所破の為とは、立正観抄に云わく「経に唯仏与仏乃能究尽とは迹門の仏、当分に究尽する辺を説くなり」等云云。
二には借文の為とは、十章抄に云わく「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」等云云。
一文既に然り、余は皆准説せよ。両意有りと雖も是れ前後に非ず、是れ別体に非ず、唯是れ一法の両義にして明闇の来去同時なるが如きなり。
天月を見ずして但池月を見ることなかれ につづく
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