三に正義を示すとは、今此の文を消するに即ち分かちて二と為す。
初めに「本門の教主釈尊」とは是れ標の文にして人の本尊に約するなり。
次ぎに「所謂宝塔」の下は是れ釈の文にして法の本尊に約す、全く本尊抄に同じきなり。
而るに標釈の二文、人法同じからず、是の故に先ず須く人法一別の相を了すべし。謂わく、若し理に拠って論ずれば法界に非ざること無く、若し事に拠って論ぜば一別無きに非ず。謂わく、迹中化他の色相の仏身は能生所生、人法体別是れ世情に随順する方便の身相なる故なり。譬えば天月・水月其の体同じからざるが如し。若し本地自行の自受用身は倶に是れ能生にして人法体一なり、是れ本地難思境智冥合する故なり。譬えば月と光と和合して其の体是れ一なるが如きなり。妙楽の云わく「本時の自行は唯円と合す、化他は定まらず亦八教有り」云云。此に相伝あり云云。
然るに当文明らかに法を以て人を釈する故、文の意謂わく、本門の教主釈尊を本尊と為すべし、所謂教主釈尊の当体全く是れ十界互具、百界千如、一念三千の大曼荼羅の故なり云云。是れ豈人法体一を顕わすに非ずや。故に知んぬ、是れ迹中化他の色相の仏身に非ず、応に是れ本地自行の自受用身なるべきなり、本地自行の自受用身とは即ち是れ本因妙の教主釈尊なり。本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり。是れ則ち行位全く同じき故なり。
名異体同の御相伝「本因妙の教主日蓮」之を思い合わすべし、之を思い合わすべし。故に当文の意人法体一の故に蓮祖を以て本尊と為すべし云云。
又標の文に「本門の教主釈尊を本尊と為すべし」と云うは、文の意、蓮祖は本因下種の教主なり、故に本尊と為すべし云云。
又次ぎ下の文に蓮祖自身の三徳を示して云わく「日蓮が慈悲広大乃至日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳有り、無間地獄の道を塞ぎぬ」等云云。慈悲は父母なり、盲目を開くは師なり、道を塞ぐは主君なり、蓮祖の三徳分明なる故に本尊と為すべし云云。故に此の文の中に三義具足す、有智の君子寧ろ之を信ぜざらんや。当流の相伝敢えて之を疑うこと勿れ。
本果妙をしりぞけ、本因妙を説く につづく
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