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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 05日

人法体一の故に蓮祖を以て御本尊と為すべし 【末法相応抄下】八


三に正義を示すとは、今此の文を消するに即ち分かちて二と()す。

初めに「本門の教主釈尊」とは是れ標の文にして人の本尊に約するなり。

次ぎに「所謂(いわゆる)宝塔」の下は是れ釈の文にして法の本尊に約す、全く本尊抄に同じきなり。 

(しか)るに標釈の二文、人法同じからず、是の故に()(すべから)く人法一別の相を(りょう)すべし。()わく、若し理に拠って論ずれば法界に非ざること無く、若し()()って論ぜば一別無きに非ず。謂わく、迹中化他の色相の仏身は能生(のうしょう)所生、人法体別是れ世情に随順する方便の身相なる故なり。(たと)えば天月・水月其の体同じからざるが如し。若し本地自行の自受用身は(とも)に是れ能生にして人法体一なり、是れ本地難思境智(みょう)(ごう)する故なり。譬えば月と光と和合して其の体是れ一なるが如きなり。妙楽の云わく「本時の自行は(ただ)円と合す、化他は定まらず(また)八教有り」云云。此に相伝あり云云。

然るに当文明らかに法を以て人を釈する故、文の(こころ)謂わく、本門の教主釈尊を本尊と為すべし、所謂(いわゆる)教主釈尊の当体全く是れ十界互具、百界千如、一念三千の大曼荼羅の故なり云云。是れ(あに)人法体一を顕わすに非ずや。故に知んぬ、是れ(しゃく)(ちゅう)()()の色相の仏身に非ず、(まさ)に是れ本地自行の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)なるべきなり、本地自行の自受用身とは即ち是れ本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊なり。本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり。是れ則ち(ぎょう)()(まった)く同じき故なり。
 
名異体同の御相伝「本因妙の教主日蓮」之を思い合わすべし、之を思い合わすべし。故に当文の(こころ)人法体一の故に蓮祖を以て本尊と為すべし云云。
 又標の文に「本門の教主釈尊を本尊と
()すべし」と云うは、文の意、蓮祖は本因下種の教主なり、故に本尊と為すべし云云。
 又次ぎ下の文に蓮祖自身の三徳を示して云わく「日蓮が慈悲広大
乃至(ないし)日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳有り、無間地獄の道を(ふさ)ぎぬ」等云云。慈悲は父母なり、盲目を開くは師なり、道を塞ぐは主君なり、蓮祖の三徳分明(ふんみょう)なる故に本尊と為すべし云云。故に此の文の中に三義具足す、有智の君子(むし)ろ之を信ぜざらんや。当流の相伝()えて之を疑うこと(なか)れ。


 本果妙をしりぞけ、本因妙を説く   につづく

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by johsei1129 | 2015-01-05 14:37 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


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