問う、又云わく、宝軽法重抄二十七に云わく「一閻浮提の内に法華経寿量品の釈迦仏の形を書き作れる堂未だ候わず」云云、此の文如何。
答う、此れは是れ寿量品文底の釈迦仏・久遠元初の自受用身の御事なり。故に上の文に云わく「天台云わく、人は軽く法は重し。妙楽云わく、四不同なりと雖も法を以て本と為す」云云。
又云わく「天台・伝教は事極め尽くさず、日蓮が弟子と成らん人々は易く之を知る可し」云云。当に知るべし、自受用身は人法体一なり云云。
問う、又云わく、本尊抄八に云わく「其の本尊の為体本時の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士には上行等の四菩薩、乃至正像に未だ寿量品の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」云云。「此の仏像」の言は釈迦・多宝を作る可しと云う事分明なり云云、此の義如何。
答う、其の本尊の為体等とは正しく事の一念三千の本尊の為体を釈するなり。故に是れ一幅の大曼荼羅即ち法の本尊なり。而も此の法の本尊の全体を以て即ち寿量品の仏と名づけ亦「此の仏像」と云うなり。寿量品の仏とは即ち是れ文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり。既に是れ自受用身の故に亦「仏像」と云うなり、自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人なるが故に出現と云うなり。故に山家大師秘密荘厳論に云わく「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」云云。全く此の釈の意なり、之を思い見る可し。
又「仏像」の言未だ必ずしも木絵に限らず、亦生身を以て仏像と名づくるなり。即ち文句第九の如し、若し必ず木絵と言わば「出現」の言恐らくは便ならず、前後の文「本化出現」と云云。之を思い合わす可し云云。
富士の蘭室は日蓮大聖人を「本門の教主釈尊」と仰ぐ につづく