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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 12月 31日

不軽菩薩の不専読誦を説き明かす 【末法相応抄上】五


問う、又云わく「蓮祖は不軽(ふきょう)の跡を(しょう)(けい)とは不軽の不読誦を顕わす、不軽菩薩に(また)読誦の経釈有り、何ぞ之を()(ぞう)するや。不軽品に云わく、先仏(せんぶつ)(みもと)に於いて此の経を受持し読誦し人の為に説く、故に()阿耨(あのく)菩提(ぼだい)を得たり云云。文の十に云わく、読誦経典は即ち了因性、皆行菩薩道は即ち縁因性、不敢(ふかん)軽慢(きょうまん)()()(じん)(きょう)は即ち正因性、文。不軽の三仏性の中に不軽の読誦を()げて了因仏性を証す、汝(ただ)不専読誦の文を見て一部不読を()ること(はなは)()われ無きなり云云、此の難如何(いかん)

答う、一(えい)眼に在り、空華(くうげ)乱墜(らんつい)すと云云、日辰が博学(はくがく)、州の額を県に打つ、前代未聞の珍謬(ちんびゅう)後世不易(ふえき)恥辱(ちじょく)なり。

謂わく、五失有る故に、

一には時節混乱の(とが)()わく「読誦経典即了因性」とは威音(いおん)(のう)仏の像法の時なり。故に文句に不専読誦の下に於いて此の釈を作すなり。()し所引の経文「我於先仏所受持読誦」とは雲自在王の時なり。故に補註(ふちゅう)十・十四に云わく「()し我宿世に於いて受持読誦せずば疾く菩提を得ること(あた)わずとは此れは雲自在王の時を指す」云云。威音王と雲自在王と実に多劫を(へだ)つるなり、(まさ)に経文を見るべし、(なん)ぞ多劫後の事を引いて多劫前の事に()するや。

二には次位混乱の失、()わく、威音王仏の像法の不軽は観行初品の位なり。文十・十六に云わく「不専読誦経典とは初随喜の人の位なり」云云。(また)雲自在王の(みもと)の不軽は是れ初住の位なり、故に経(常不軽品)に云わく「(また)二千億の仏に値い同じく雲自在燈王と号す、此の諸仏の法中に於いて受持読誦して(もろもろ)の四衆の為に此の経典を説く、故に是の(じょう)(げん)清浄(しょうじょう)耳鼻(にび)(ぜつ)(しん)()の諸根清浄を得たり」云云。補註十・十五に云わく「前に六根浄を得たるは是れ十信なり、又六根浄を得たるは恐らくは是れ初住ならん」云云。証真云わく「前に得るは相似(そうじ)、今得るは真位、故に常と云うなり」云云。何ぞ初住の事を以て初品の事に()するや。

三には能所混乱の失、謂わく、不軽は是れ能随喜の人なり、三仏性は是れ所随喜なり、故に文句に云わく「一切の人(みな)三仏性有ることを随喜す」云云、何ぞ所随喜の仏性を以て能随喜の人に()するや。

四には信謗混乱の失、謂わく、(しょ)に云わく「読誦経典即了因性とは是れ謗者四衆の読誦にして不軽の読誦に非ず」。故に玄文第五・七十四に云わく「是の時の四衆衆経を読誦するは即ち了因性」と云云。(なん)ぞ謗者の読誦を以て信者の不軽に擬するや。

五には所例混乱の失、謂わく、吾が祖の諸抄の所例は(ただ)威音王仏像法の不軽に限るなり、(しばら)く一文を引かん。

顕仏未来記二十七・三十に云わく「本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提(えんぶだい)に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩()(しん)(きょう)(にょ)(とう)の二十四字を以て彼の土に広宣流布して一国の(じょう)(もく)等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の(ことば)異なりと(いえど)も其の(こころ)之同じ。彼の像法の末と此の末法の初めと全く同じ」云云。明文(ここ)に在り、何ぞ(ほしいまま)に雲自在王の(みもと)の不軽の読誦を引いて吾が祖の正義を破らんと欲するや。

問う、尼崎(あまがさき)の相伝に云わく「読誦をするに()いて不専と曰うなり」云云、此の不審如何(いかん)

答う、此の義(はなは)だ非なり。妙楽云わく「(たん)は不雑を顕わし、不専は専に対す」云云。既に「(たん)(ぎょう)礼拝(らいはい)と云う、故に知んぬ、余行を廃するなり。不専と言うは「不敢(ふかん)軽慢(きょうまん)と云うが如く是れ決定なり、故に正経に「不肯(ふこう)読誦(どくじゅ)と云うなり。

   摂受をしりぞけ、折伏門をしめす  につづく

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by johsei1129 | 2014-12-31 22:57 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


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