2014年 12月 03日

12 国家諌暁の契機となった正嘉の大地震、勃発

聴衆が松葉ケ谷に集まった。

四条金吾・富木常忍・工藤吉隆・池上兄弟ら古参の信徒のほか、見覚えのない黒衣の僧侶もいる。

土間のかげで二人の子供たちも顔をだして様子を見ている。孤児だった二人は寝食の恩をうけていらい、自然に日蓮の下働きをひきうけた。日蓮は少年をそれぞれ熊王、鷹王と呼んでかわいがった。
 その日蓮が薄墨の衣を身にまとい聴衆に語る。

「仏法を滅ぼす者はだれであるか。権人(きりびと)であろうか、それとも一介の庶民であろうか。そうではない。みなに立派な僧と慕われ、世の尊敬を集める僧侶が釈尊の仏法を滅ぼすのです。経にいわく『師子(しし)の中の虫の師子を食らう』と。仏法を他の敵はやぶりがたい。仏法の中の僧侶こそ仏法を滅ぼす者です」
 黒衣の僧がさえぎった。
「日蓮とやら。その僧侶とはだれをいうのか。(それがし)は思いあたるふしがないのだが」

日蓮が静かに答える。

「極楽寺良観殿でございます」

聴衆にどよめきがおこる。日蓮の信徒もおどろいた様子だった。

黒衣の僧がなじる。

「なにを血迷っておるか。良観上人はこの鎌倉で生き仏といわれておる。関所を作って木戸銭を集めては深い川に橋をつくり、荒れた土地に道路をつくっておるのだ。あのような尊い方を師子身中の虫などと」

日蓮はこたえる。

「いま良観上人のふるまいを見るに、財宝をたくわえ、借銭、蓄財を所行としている。それが僧侶の姿でしょうか。だれがこれを信ずるであろう。関所を設けることは旅人にとって、わずらいです。眼前のことである。あなたは見ておらぬか」

黒衣の僧が日蓮に強く反駁(はんぱく)する

「なんといっても良観殿は鎌倉殿の御帰依あつい。おぬしのような卑しい身分ではない。(かみ)の信任あればこそ、僧侶の力がそなわるもの。鎌倉殿のご帰依なくては、いかに正論を吐いたところでなんになろう」
 日蓮は毅然としてかえす。 

「鎌倉殿が名君であれば、必ず法華経はご理解できるはずです。笑うことなかれ。いにしえにも釈迦に阿闍(あじゃ)()王(注)()天台大師に陳隋の皇帝(注)()伝教(でんきょう)大師には(かん)武天()皇(注)()がおられた。今はそれを信ずるまで」

黒衣の僧侶が笑って出ていった。

四条金吾が怒った。おとなしく聞いていたが我慢ならない。

「なんと無礼な坊主だ。わたしが問いつめてみます」

日蓮はとめた。

「まちなさい金吾殿、放っておきなさい。彼らはわれわれの様子を見にきたのです」

短気な金吾は日蓮の制止を利かずにいきり立つ。日蓮は金吾の気を冷ますかのごとく諭した。

「最初から話を聞く態度ではない。彼らはわが法華宗が広がっていることに、おだやかではなくなっているのです


騒動が一段落すると、日蓮は皆に新しい弟子を紹介した。

「ところで門下に有望な若者が入門してまいりましたのでお引き合わせいたします」

若い僧が手をついた。

「三位房日行と申します。僧俗立場は異なれど異体同心で法華経の弘通に励んでいきましょう」 

三位房が得意満面の表情で皆に一礼をした。一同も深々と三位房に頭をさげる。

工藤吉隆がおもわず声をあげた。

いやあ、いつの間にか上人のこの館も賑やかになりもうしたな

金吾がおおげさにいう。

「これでは良観殿も我々の様子も見たくなるわい」

一同が笑った。


この時だった。草庵の床がゆれ始めた。

一同がさわぐ。金吾が指図した。

「地震だ。おのおの静まれい。窓を、戸を開けよ」
 いきり立っていた金吾が皆に冷静に指示した。
地震がおきた時、戸や窓を開いておかないと外に脱出できず、建物が倒壊した場合圧死してしまう危険があった。 

このころ鎌倉では地震が頻発し、めずらしくはなかった。だが今夜はとりわけ揺れが大きい。

同じころ、鎌倉幕府執権の館が小刻みにゆれた。障子がガタガタしだした。

北条時頼は立ちあがり天井を見守った。

そこに時宗、時輔の兄弟が飛びこんできた。

「父上」

「これは大きいぞ。急ぎ兵を呼びあつめろ」

兄弟があわてて出ていく。

この時、床が上下にゆれた。

時頼が叫ぶ。

「たてゆれだ」

鎌倉の町全体が波のようにゆれる。

住民が家財道具をだしながら悲鳴をあげた。彼らは外に出て、井戸のまわりにむらがった。このとき、井戸から人の声がひびいた。不気味な音響がこだまする。住民がまた散った。

さらに地面がまた激しく横揺れし、たまらず民家が倒壊しはじめた。

悲鳴がひびく。

日蓮の庵室も大きくゆれた。

「あぶない、みなさん外へ」

と言ったとたん、家屋が真っ二つにちぎられ、床下からひびのはいった地面があらわれた。

絶叫がこだまする。

大切にしていた経巻が転がっていく。日蓮は経巻が落ちる瞬間につかみとった。周囲の弟子たちが懸命に日蓮をかばうように抱きかかえた。

月明かりの中、草庵は無惨に破壊された。月明かりが目も当てられないほどの惨状を照らす。

町のほうぼうでは火の手があがっている。

逃げまどう人々が走りまわる中、弟子たちが集まり、一人一人を確認した。

「大丈夫でござるか。けがは。みなさんおられますか。行方不明の者はおられませんか

たいまつを手に四条金吾、常忍らがひかえる。

日蓮が信徒に告げた。

「みなさんは一刻も早く本宅へ帰ってください」

金吾がうなずいた。

「ではゆこう」

一同が四方に走り去り、筑後房日朗らの弟子が草庵のあった場所に立ちつくす。

みな安堵のあまり、泣き出しそうだった。

「上人、われらは全員無事でございます。まったく奇跡としか・・」

日蓮が思い出したようにうめいた。

「子供たちはどうした。あの二人は・・」

一同が青くなり、あたり一面をさがしまわった。

「おーい。熊王、鷹王・・」

やがて倒壊した建物の脇で鷹王が倒れているのを見つけた。横で熊王がうずくまって泣いている。

「鷹王・・」

かけよったが鷹王の息がない。

日蓮は眠るような鷹王を抱いて題目を唱え続けた。
 余震が収まると鷹王の身は日蓮と弟子たちにより、法華経の題目によって弔われ、夜になってその日のうちに荼毘(だび)付された。
 

朝、鎌倉の町は押しつぶされた家々がならんだ。

家族という家族が、地面に横たわる死体のそばで泣き叫んだ。

この震災はのちに正嘉の大地震といわれた。マグニチュード七から七・五だったという。鎌倉の建物という建物は、ひとつのこらず倒れた。鎌倉八幡宮も無惨に傾いている。
 『吾妻鏡』はこの地震について特筆している。

 八月二十三日 乙巳(きのとみ) (いぬ)刻大地震。音有り。神社仏閣一宇として全きこと無し。山岳類崩し、人屋(てん)(とう)。築地皆悉く破損し、所々の地裂け水湧き出る。中下馬橋辺地裂け破れ、その中より火災燃え出る。色青しと。


午後八時ごろ、大地震はおきた。築地とは土をつき固め、上に屋根をかけた土塀である。これがすべて破損したというから、地震がいかに巨大だったかがわかる。

翌朝から日朗や日昭らの弟子たちが廃墟のあとを片づけ始めた。かろうじて生きのこった小僧の熊王も悲しみをこらえ手伝う。熊王は日蓮のもとで兄弟のように育った鷹王を失った。

ひととおり片がつくと、南無妙法蓮華経と書かれた卒塔婆(そとうば)にむかって一同手をあわせた。

しかしここに日蓮の姿がない。
 日蓮は早朝、弟子たちに岩本実相寺に向かうことを告げ、すでに一人旅立っていた。
 


     13 立正安国論そして日興との運命の出会い につづく
上巻目次


 阿闍世王

梵名アジャータシャトル。未生怨と訳す。マカダ国の王。マカダは当時インド第一の強国だった。太子であった時、提婆逹(だいばだっ)()と親交を結び、仏教の外護者であった父備婆(びんば)(しゃ)()王を監禁し、獄死させて王位についた。さらに釈迦を迫害したが、のちに懐悔(かいげ)し、経典の第一回結集の外護者となった。釈迦は自分の命をさいて、四十年の寿命を阿闍世に与えたという。


天台大師 

 五三八~五九七。中国南北朝・(ずい)代の天台宗開祖。姓は陳氏、(いみな)智顗(ちぎ)。十八歳の時、果願寺の法緒のもとで出家。天嘉元年(五六○)大蘇山に南岳大師訪れ厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の『()(しん)精進・()(みょう)真法』の句に至ってついに法華三昧を感得したといわれる。三十二歳の時、宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。至徳三年(五八五)に陳主の再三の要請で仁王経等を講じ、禎明元年(五八七)法華文句を講説した。陳末の戦乱の頃、隋の晋王広(煬帝)に菩薩戒を授け智者大師の号を賜った。その後、故郷に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止(まかし)(かん)を講じたついで天台山に入り六十歳で没する彼の講説は弟子の章安(灌頂(かんじょう))によって筆記され、法華三大部(法華文句(もんぐ)、法華玄義、摩訶止観)としてまとめられた。尚、日蓮大聖人は天台大師を、薬王菩薩の再誕で、日本では伝教大師(最澄)として応誕したと説いている。「薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども」(一念三千法門) また「聖人御難事」では「天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う」と示され、()天台大師が摩呵止観の講説により出世の本懐を遂げたと断じている。


 陳隋の皇帝

陳隋は中国の王朝名。

陳は南北朝時代、南朝最後の王朝。永定元年(五五七)~禎明三年(五八九)。梁の武帝の跡を受けて建国し、隋に滅ぼされた。天台は五代後主や文武官僚の帰依をうけた。

隋は五八一年~六一九年。楊堅(高祖文帝)が建てた統一国家。秦・漢の古代国家以後、南北に分裂していた中国を統合し唐の統一国家の基礎を築いた。

 桓武天皇

天平九年(七三七)~延暦二十五年(八○六)。第五十代天皇。律令制の改革、平安遷都を行った。延暦四年(七八五)、伝教大師が比叡山を建立すると、天皇はこれを天子本命の道場と号し、六宗を捨てて伝教に帰依した。同七年、伝教は桓武天皇のために根本一乗止観院を建てた。



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by johsei1129 | 2014-12-03 22:09 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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