日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2014年 11月 30日

百四、日興、身延離山

 
 日蓮入滅八年後の正応元年冬、四十三歳となった日興は川沿いの道をたどり、身延山をおりていった。
 師の墓を離れなければならないのだ。断腸の思いであった。
 日興はその苦衷を波木井一族の一人、原殿にあてた消息にしたためる。原氏は一族の中にあったが、日興を理解していた。


身延沢を(まか)り出で候事、面目なさ本意(ほい)なさ申し尽し難く候へども(うち)(かえ)し案じ候へば、いづ(何処)くにても聖人の御義を相継ぎ(まいら)せて世に立て候はん事こそ(せん)にて候へ、さりともと思ひ奉るに御弟子(ことごと)く師敵対せられぬ、日興一人本師の正義を存じて本懐を()げ奉り候べき(ひと)に相当たりて覚え候へば本意忘ること無く候、又君達(きんだち)は何れも正義を御存知候へば悦び入り候、(こと)(さら)御渡り候へば入道殿不宜(ふぎ)に落ちはてさせ給ひ候はじと覚え候。

この消息に日興の心中をかいま見る思いがしてくる。

身延山で正法を興隆するという初志はもろくもくずれた。しかし日興は苦悩のどん底から思いだしていた。いかなることになろうと、聖人の正義を継いで世に立てることが自分の使命なのだと。

日興は原殿のかわらぬ信心をよろこんでいる。原殿が今までどおり日興のもとで教えをうければ、実長は不義におちいることがないであろうという。ここでも日興は実長をかばっている。

日興は最後にいう。

元より日蓮聖人に背き(まい)らする師(ども)をば捨てぬが(かえ)って(とが)にて候と申す法門なりと御存知渡らせ給ふ可きか、何よりも御影(みえい)の此の程の御照覧如何(いかん)見参にあらざれば心中を尽し難く候、恐々謹言。 

               

日興は自分に言いきかせるようにいう。日蓮にそむく弟子を捨てないのは、かえって謗法になると。御影とは日蓮のことである。

日興が身延山をおりていったのは真冬だった。十一月とも十二月ともいわれる。山中には雪がつもっていた。師の日蓮が佐渡へ流罪となったのも真冬である。

日興は雪をふみわけて、身延の山中を下りながら思わずにはいられなかった。

師匠はこのことをなんと思われるだろうか。はからずもこの有様となってしまったが、師はわかってくださるだろうか。たよれるのは自分しかいない。亡き師はこんな自分を見守ってくださるだろうか。「御影の此の程の御照覧如何」とは無限の思いであったろう。

下山はさすがに大規模だった。日蓮自筆の大御本尊など、はこばれた宝は長持で二十七駄におよんだという。馬に二個背負わせるから合計で五十四棹になる。

江戸時代の史料にいう。

之に(より)て身延山の地・謗法となるがゆへ、日興上人・宗祖大聖人御付属の霊宝、本門戒壇の大御本尊・並に紫宸殿(ししんでん)の御本尊(注)、()御肉付の御歯(注)()・御焼骨其の(ほか)あらゆる霊宝等長持(ながもち)廿七駄方荷に収め給ひ、正応元年十一月・身延山を立ちのかせ給ひければ、波木井の一門大に驚き度々還往を()ひ奉れども思召(おぼしめ)し有りて帰らせ給はず、翌年春南条七郎修理太夫(たゆう)平時光殿の請招によって駿州(すんしゅう)富士上野にいたらせ給ひ、最勝の地を(えら)んで大石の原に御建立あって本門戒壇の大御本尊を安置し給ふ。 富要第七巻『大石要法血脈問答』 

 
f0301354_21543277.jpg

尾形禮正画 大石寺創建之図屏風  中央は日興上人 右端は南条時光


日興はこのあと青年地頭の南条時光が領する富士上野郷に移り住み、ようやく安住の地をえた。時光についてはすでに書いたとおりである。日興が住むべき地は時光の上野郷以外にない。

そして日興は早くもこの年、今の大石寺の建立に着手している。

自ら鍬を取ったであろう。自ら木をはこんだであろう。自ら工具を手にしたであろう。日興には師の正義をここで立てるのだという意気ごみがつのっていた。

日興に続く弟子たちも、さっそく自らの坊を建立しはじめた。日目は蓮蔵坊を、日華は寂日坊を、日秀は理境坊を、日禅は南之坊を、日仙は百貫坊をそれぞれ建てていく。

壮観であった。彼らは日興にともない、師の正義を守り、弘通することに生きがいを感じていた。

こうして十月十二日、日蓮の命日の前日だった。

日興は真新しい本堂に、楠木の巨木から造立した大御本尊を安置した。この本尊こそ「日興が身に()て給わる所の弘安二年の大御本尊」すなわち一閻浮提総与の大曼荼羅である。師の日蓮はこの本尊の広宣流布における意義を記していた。

又五人並びに已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提の(ほか)万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為すべきなり。        『百六箇抄

 五老僧以下の弟子檀那が日本をはじめ全世界に妙法を弘めようとも、日興が譲り受けた大本尊を中心に据えよと。この大曼陀羅はこの大石寺に安置され、今日に至っている。

さらに師日蓮は、自身の法義を最も理解していた太田乗明に「三大秘法稟承事」という遺言書を送っている

戒壇とは王法仏法に(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びく(注)の其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を(たず)ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮(いちえんぶ)(だい)の人、懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず大梵天(だいぼんてん)(のう)帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり。

(中略) 此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)地涌(じゆ)千界の上首として日蓮(たし)かに教主大覚世尊より口決(ぐけつ)相承(そうじょう)せしなり、今日蓮が所行は(りょう)鷲山(じゅせん)禀承(ぼんしょう)()()計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。

  問う一念三千の正しき証文如何(いかん)、答う次に出し申す可し此に於て二種有り、方便品に云く「諸法実相・所謂(しょい)諸法・如是相・乃至欲令(よくりょう)衆生開仏知見」等云云、底下(ていげ)凡夫(ぼんぷ)・理性(しょ)()の一念三千か、寿量品に云く「(ねん)()(じつ)成仏已来(いらい)・無量無辺」等云云、大覚世尊・久遠実成の当初(そのかみ)証得の一念三千なり。

 今、日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。予年来(としごろ)己心に秘すと(いえど)も此の法門を書き付て留め(おか)ずんば門家の(ゆい)(てい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可し、其の後は何と悔ゆとも(かの)うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も(せん)無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。

 弘安五年卯月(うづき)八日                         日蓮 花 押

 大田金吾殿御返事


壮大な仏閣を建てることが本門戒壇の建立ではない。大集(だいしつ)経で説かれる正法像法の最後の五百年は「多造塔寺堅固」で、釈迦の予言通り中国・日本で多くの仏閣・伽藍(がらん)が建立された。しかし日蓮は終生、質素な草庵を拠点として布教及び弟子信徒の育成に邁進(まいしん)してきた。豪華絢爛(けんらん)な伽藍で人々の注目を引き、信仰に導くという手法は釈迦滅後の「像法時代」の布教方法であることを喝破(かっぱ)していた。

妙法蓮華経 分別功徳第十六に次の文がある。


阿逸(あいつ)()。是善男子。善女人。不須為我。復起塔寺。及作僧坊。以四事供養衆僧。

所以者何。是善男子。善女人。受持読誦。是経典者。為已起塔。造立僧坊。供養衆僧。

[]

阿逸多(弥勒(みろく)菩薩)よ、是れら善男子・善女人は、我が為に()た塔寺を起し、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを(もち)いざれ。

所以(ゆえん如何(いかん)、是の善男子・善女人にして、是の経典(法華経)を受持し読誦(どくじゅ)せば、これ(すで)に塔を起し、僧坊を造立し、衆僧を供養せし者なればなり


 つまり末法に於いては、妙法蓮華経の神髄を図現した御本尊を受持し南無妙法蓮華と唱えることが究極の行であることを示している。日蓮は出家した弟子、在家信徒に紙幅の御本尊を下付し続けた。現在百三十(ぷく)程の日蓮直筆の御本尊が伝えられている。日蓮から御本尊を下付された弟子信徒は、質素な宿坊、自らの家屋敷に安置し布教の起点として日蓮の法門の教線を拡大していった。


日蓮は「三大秘法稟承事」で明確に「有徳(うとく)(おう)(かく)(とく)比丘(びくの其の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時」と遺言している。
 日蓮の滅度以降、今日にいたるまで、日蓮日興の血脈を引き継ぐ弟子信徒等は本門戒壇の建立をめざして布教をつづけていった。

大石寺二十六世の(にち)(かん)が本門の戒壇について説く。

本門の戒壇に()あり、()あり。理は(いわ)く道理なり。また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る(ところ)の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり。(まさ)に知るべし「是の処は即ち是れ道場」等云云。次に()の戒壇とは即ち富士山(あも)生原(うがはら)に戒壇堂を建立するなり。『報恩抄文段

そして「有徳王・覚徳比丘の其の乃至(むかし)末法濁悪の未来に移さん時」が来るまで、本門の戒壇は建立できない。



       百五、大導師 日興上人 につづく

下巻目次



 紫宸殿の御本尊

紫宸殿すなわち政治の中心となる建物に掛ける本尊。

「一、蓮祖真筆大曼荼羅三枚続 一幅

弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云はく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云々。」『冨要第五巻 富士大石寺明細誌』 


御肉付の御歯

日蓮大聖人が生前、日興に与えた歯のこと。歯には大聖人の肉片がついている。日量の「富士大石寺明細誌」によれば、日蓮大聖人は広宣流布の時に、この歯が光り輝くと予言している。門外不出の非開封だが、五十年に一度および貫主の交代時に公開される。

「日蓮聖人肉付の御歯一枚  御生(ごしょう)(こつ)と称す、蓮祖の存日、生歯を抜き、血脈相承の証明と()て之を日興に(たま)ひ、()の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し、代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度(だい)(がわり)蟲払(むしばらい)(とき)を開封し奉り拝見に入れしむ、常途(じょうと)之を開かず。」『冨要第五巻 同』

有徳王・覚徳比丘

釈迦の過去世における菩薩修行中の因位の姿。涅槃経巻三金剛身品の文。拘尸(くし)()城に出現した歓喜増益如来の正法が、あと四十年で滅しようとしている末世に、多くの破戒の悪僧と戦い、正法を護持する覚徳比丘を守った。王はこの時全身に傷を受けて亡くなったが、護法の功徳で阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、その仏の第一の弟子となり、覚徳比丘は第二の弟子となった。正法が滅しようとする時の信仰者の心構えと、正法を守る者の功徳の大きさを示したもの。立正安国論 参照。



by johsei1129 | 2014-11-30 15:26 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)


<< 百五、大導師 日興上人      百二、五老僧の邪義 >>