2017年 09月 17日
疫病が大流行している最中に、佐渡の阿仏房が、はるばるばるたずねてきた。弘安元年七月、五十七歳の時である。日蓮は飛びあがらんばかりによろこんだが、真っ先に尋ねたのは疫病のことだった。妻千日尼への手紙には、生々しい様子がえがかれている。
抑去々・去・今年のありさまは、いかにならせ給ひぬらむとをぼつかなさに法華経にねんごろに申し候ひつれども、いまだいぶかしく候ひつるに、七月廿七日の申の時に阿仏房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにと、まづといて候ひつれば、いまだやまず、こう入道殿は同道にて候ひつるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんがせんとてかへられ候ひつるとかたり候ひし時こそ、盲目の者の目のあきたる、死し給へる父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有るを、ゆめにて悦ぶがごとし。あわれあわれふしぎなる事かな。此れもかまくらも此の方の者は此の病にて死ぬる人はすくなく候。同じ船にて候へば、いづれもたすかるべしともをぼへず候ひつるに、ふねやぶれてたすけぶねに値へるか。また竜神のたすけにて、事なく岸へつけるかとこそ不思議がり候へ。 『千日尼御前御返事』 七月二十七日の午後四時ごろ、日蓮は阿仏房を見つけた。真っ先にきいたのは国府入道と千日尼の安否だった。 阿仏房がいうにはみな無事であり、国府入道は一緒にきたが、稲刈りが近づいたので泣く泣くひきかえしたという。 日蓮はそれを聞いてほっとしている。なにしろ山の中なので情報が断片的にしか伝わらない。 病は蔓延していたが、信徒たちは鎌倉でも甲斐でも、病死する者は少なかったという。法華経の力で助け船にあったようだと証言している。それにしても「いづれもたすかるべしともをぼへず」とある。疫病はそれほどすさまじかった。 若い女性信徒から日蓮のもとへ手紙がきた。 彼女は富士郡重須の地頭、石河新兵衛の娘で、母親が南条時光の姉であった関係で、はやくから日蓮に帰依していたと思われる。その娘つまり時光の姪が重い病になり、彼女はそれまで何度か日蓮に手紙を出していたが、病状が急変しこれが最後の手紙であると覚悟の気持ちを伝えている。
この姫御前が臨終の時、南無妙法蓮華経と唱えたことを時光から知らされた日蓮は、時光への返書で姫御前はかならず成仏すると称えている。 此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。此の女人はなにとなけれども自然に此の義にあたりて・しををせぬるなり。たうとしたうとし 『上野殿御返事』
黄河は千年に一度すむといへり。聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値ふといへども法華経には値ひがたし。設ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。何ぞなれば末代の法華経の行者は、法華経を説かざる華厳・阿含・方等・般若・大日等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝れて候なるを、妙楽大師釈して云く「供養すること有らん者は福十号に過ぎ、若し悩乱する者は頭七分に破れん」云云。 今日本国の者去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼ゆる犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はやみぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕にも妙にも破ぬらん。 罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。聖人をあだめば総罰一国にわたる。又四天下、又六欲(注)四禅(注)にわたる。賢人をあだめば但敵人等なり。今日本国の疫病は総罰なり。定んで聖人の国にあるをあだむか。山は玉をいだけば草木かれず。国に聖人あれば其の国やぶれず。山の草木のかれぬは玉のある故とも愚者はしらず。国の破るゝは聖人をあだむ故とも愚人は弁へざるか。 『日如御前御返事』 日蓮は疫病に感染こそしなかったが、暮らし向きは困窮の日々がつづいた。 山の中である。地頭波木井の供養はあてにできなかった。飢饉もつづく。日蓮は遠くにいる弟子信徒の供養がなければ食べることすらできない。 一月、富士上野郷の地頭、南条時光は山中の日蓮に供養の品をおくった。餅九十枚・薯蕷五本だった。 日蓮は時光に感謝の返事をおくる。そこには身辺の過酷なくらしがしるしてある。五十八歳の時である。 夫海辺には木を財とし、山中には塩を財とす。旱魃には水をたからとし、闇中には灯を財とす。女人はをとこを財とし、をとこは女人をいのちとす。王は民ををやとし、民は食を天とす。この両三年は日本国の内に大疫起こりて人半分げんじて候上、去年の七月より大なるけかちにて、さといちのむへんのものと山中の僧等は命存しがたし。 『上野殿御返事』 さらに南条時光は、この年の十二月、深雪をわけいって白米一駄をおくった。 窮乏の身だった日蓮は涙ながらの手紙をおくる。ほかの弟子には気丈にみせても、強信の時光にはありのままの心をさらけだしている。
日蓮は日本国に生まれてわゝくせず、ぬすみせず、かたがたのとがなし。末代の法師にはとがうすき身なれども、文をこのむ王に武のすてられ、いろをこのむ人に正直者のにくまるゝがごとく、念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値ひて法華経をひろむれば、王臣万民ににくまれて、結句は山中に候へば、天いかんが計らはせ給ふらむ。五尺のゆきふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかんふせぎがたし。食たへて命すでにをわりなんとす。かゝるきざみにいのちさまたげの御とぶらい、かつはよろこびかつはなげかし。一度にをもい切ってうへしなんとあんじ切って候ひつるに、わづかのともしびにあぶらを入れそへられたるがごとし。あわれあわれ、たうとくめでたき御心かな。釈迦仏法華経、定めて御計らひ候はんか。恐々謹言。 十二月廿七日 日蓮花押 「一度にをもい切ってうえしなん」とある。現代の弟子・信徒がこの文を読めば、胸がつぶれる思いがするだろう。 日蓮はとうとう病を得るようになった。ひどい下痢がつづいたのである。 信徒たちはこれを知り、懸命に薬や食物を甲斐にとどけた。なかでも医術に長けた四条金吾は、薬草で一時的に回復させた。感謝の手紙がのこっている。
将又日蓮が下痢去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。 『中務左衛門尉殿御返事』 さらに池上宗長は味噌をおくった。味噌は体力の回復に最適である。 日蓮は大難をのりこえた兄弟を案じながら感謝の手紙をおくる。 みそをけ一つ給び了んぬ。はらのけはさゑもん殿の御薬になをりて候。又このみそをなめて、いよいよ心ちなをり候ひぬ。 あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候へ。恐々謹言。 『兵衛志殿御返事』
注 六欲 凡夫が持っている六種の欲望のこと。法華玄義巻上に説かれる。 一、色欲 (青・黄・赤・白・長短・男女等の色境に対して貪著を生ずるもの) 二、形貌欲 (端麗な容姿を見て貪著を生ずるもの) 三、威儀姿態欲 (立居・振る舞いや微笑を含んだ愛らしい態度を見て、愛着をいだくもの) 四、語言音声欲(巧みな言葉・美声による清雅な歌詠等に接して愛着をもつもの) 五、細骨欲(男女の皮膚の繊細で柔らかく滑らかなことに貪著を生ずるもの) 六、人相欲(男女の愛らしい人相を見て貪著するもの) 欲界の惑を離れて色界の四禅天に生ずる初禅・二禅・三禅・四禅の四種類の禅定のこと。大智度論等に説かれる。
by johsei1129
| 2017-09-17 22:38
| 小説 日蓮の生涯 下
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