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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 16日

四十七、強信の日妙、山海を渡る

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                       (日蓮大聖人御一代記より)
 日蓮は佐渡の一の(さわ)入道の屋敷に転居を許された。
 塚原の三昧堂とはうってかわった真新しい堂だった。塚原のあばら家とは見ちがえる建物である
 日蓮への幕府の処遇は、明らかに好転していた。二月騒動以降、幕府内で日蓮の処遇をめぐり、何がしかの動きがあったことが容易に推察された。日蓮は島の中を自由に往来できるようになった。また佐渡の島民とも自由に法華経の説法をすることができた。   

塚原問答以後、しだいに人々が日蓮のもとに集まりだした。彼らは自分たちから進んで日蓮をかこみ説法を聞いた。阿仏房夫妻もその中にいた。

「世間に人の恐るるものは、炎の中と(つるぎ)の影とこの身の死することです。牛馬なお命を惜しむ。いわんや人間をや。(らい)人なお命を惜しむ。いかにいわんや壮人をや。命にすぎたるもののなければこそ、これを布施として仏法を習えばかならず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。また財宝を仏法におしまん者、まさる身命を捨つべきや。主君のために命をすてる人は少ないようだがその数は多い。男子は恥に命をすて、女人は男のために命をすてる。世間の浅きことには身命を失いながら、大事の仏法などにはすてることがない。ゆえに仏になる人もいない。

畜生の心は弱きをおどし、強きをおそれる。いまの学者らは畜生のようであります。智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそれる。()(しん)と申すのがこれです。悪王の正法をやぶるに、邪法(じゃほう)の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失わん時、師子王のごとくなる心をもてる者かならず仏になるべし。例せば日蓮がごとし。これはおごれるのではない。正法をおしむ心の強盛なるゆえです」

島民がぞくぞくと集まってくる。三ヶ月前には想像もできない光景である。

「先日合戦あり。日蓮は聖人ではないが法華経を説のごとく受持すれば聖人のごとし。また世間の作法かねて知ることにより、忠告したことも誤りはなかった。現在に言いのこす言葉の(たが)わざらんをもって後生の疑いをなしてはなりませぬ。日蓮はこの関東の一門の棟梁であり、日月であり鏡であり眼目である。日蓮捨てさる時、七難かならずおこるべしと、去年(こぞ)九月十二日御勘気(ごかんき)こうむりし時、大音声(おんじょう)もって呼ばわりしことはこれです。わずかに六十日、百五十日にしてこのことおこる。これはまだ華報(けほう)である。実果(じっか)の成ぜん時、いかに嘆かわしいことであろう」

武士がたずねた。

「では日蓮殿が智者ならば、なぜこのたびの王難にあわれたのですか」

「日蓮かねてより存知のことです。父母を打つ子あり阿闍(あじゃ)()王なり。仏・阿羅漢を殺し血をいだす者あり、提婆(だいば)(だっ)()これなり。大臣はこれをほめ、瞿伽(くぎゃ)()(注)らはよろこんだ。日蓮は当世にはこの御一門の父母である。仏・阿羅漢のごとし。しかるを流罪して主従ともによろこんでいる。あわれに無慚(むざん)な者たちです。邪法の僧らが自らの災いのすでにあらわれるのをなげいてはいたが、かくなるをいったんはよろこぶでしょう。のちにはかれらがなげきは日蓮が一門に劣るべからず。例せば泰衡(やすひら)(注)が弟を討ち、()(ろう)判官(ほうがん)(注)を討ちてよろこんだように。()()()()

日蓮もまた、かく責められるのも先業なきにあらず。宿業ははかりがたい。くろがねは鍛え打てばつるぎとなる。賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし。このたびの御勘気は日蓮に世間の(とが一分(いちぶん)ありません。ひとえに先業の重罪を今生に消して、後生の三悪道をのがれんとするものです」

佐渡の人々は日蓮の説法を聞いて不思議に思った。

なぜこの人が流罪となったのか。この日蓮という人を流罪したのは鎌倉殿のまちがいではなかったのか。結果、幕府は北条一門の内乱による二月騒動という惨劇をひきおこした。その原因はこの御坊を罪におとした報いではなかったのか。しかも日蓮は鎌倉から一千余里も離れたこの佐渡で騒動を予言したではないか。あまりにも見事に的中したので()謀反(むほん)一味だとの噂がたったほどだった。

人々は日蓮上人に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

こんどは千日尼がきく。阿仏房の妻である。

質問は切実だった。

「上人様、わたしたち夫婦は長年、念仏を唱えてまいりました。法華経によれば、謗法の罪は千劫たっても消えないとうかがっております。はたしてこの罪は消えることはないのでしょうか」

日蓮がよくぞ難問を問うた」とばかりに二度三度うなずいた。

「日蓮とて過去世は謗法の身であった。この世に生まれてからも念仏を唱え、悪行を積んできた。いま謗法の酔いさめてみれば、酒に酔える者が父母を打ってよろこんでいたが、酔いさめてのち嘆くようなものです。日蓮の過去世より今日までの謗法は恐ろしく深い。佐渡流罪という大難は日蓮が強く法華経の敵を責めたがゆえに、一時に集まりおきました。法華経を(まも)る功徳の力により、地獄に堕ちずして仏となることができるのです。法華経を念じ法華経の行者を護る阿仏房・千日尼夫妻の罪障は、かならず消し去ることができます

日蓮が断言するのを聞き、阿仏房夫妻は思わず手をあわせた。

こうして佐渡は法華経一色に染まった。

一国が妙法に帰依(きえ)するのを広宣流布という。理想郷の実現がせまっていた。

だがこれをうらむ者がいた。

念仏、禅の僧らが建物のかげでささやいた。

「どうする・・このままではわれらは飢え死にするぞ。すでに佐渡の国の者も大半は日蓮についた。なんとかせねば・・」

鎌倉の下町には道の両側に店がならび、人々が群をなしていた。物売りのかけ声が飛びかう。

人々が出店をのぞきこんだ。小町屋とよばれる商店は品物を店先にならべて道をせまくし、所かまわず売り買いが始まる。大都市鎌倉は二月騒動が終息し、平穏にもどろうとしていた。騒動は北条の一族同士が争う血なまぐさい事件だったが、時の流れとともに忘れさられようとしている。庶民は毎日の衣食住に精いっぱいで、権力者どうしの争いにかまっていられない。

日妙親子がこの通りを歩いていた。

母の日妙は(みの)(がさ)わらじを買った。

娘の(おと)御前が楽しそうに店をながめる。乙は子供たちの仲間にはいって遊んだ。日妙がその様子を満足げにながめ、つかの間の幸せな気分に浸っていた。

夕陽が鎌倉の市井を照らす中、笑顔の親子が家に帰ってきた。

日妙は法難のさい、信心に反対する夫と離縁した。今は娘と二人暮らしだが気丈に毎日をやりくりしていた。

その親子が玄関の戸を開けたとたん、足が止まってしまった。

見なれた草履がならんでいる。

日妙が緊張した。両親がきていたのだ。

床の間には経机があり、法華経の経巻が安置されていた。

日妙が父母にうやうやしく手をついた。

「これはこれは。前もってお知らせていただければ、おまちしておりましたものを」

父親が日妙の手にした蓑や草鞋をながめた。

「なんの支度だ。旅でもするのか」

険悪である。

日妙が虚をつかれたようにどぎまぎした。
「いえ、このたびのいくさで思い知りました。なにかあれば鎌倉をでる用意も必要と思いまして」

母親がなげいた。

「そんなことより、女一人でこれからどうするのです。子供も小さいのに」

母親が袖で頬をぬぐう。

日妙が笑顔をつくろった。

「父上様、母上様、心配はございませぬ。まだ多少のたくわえはございます。女だからとて、なんの不足もございませぬ」

なげくのは父親もおなじだった。

「そんなことだから離縁するのだ。もっと男を立てなさい。なぜ別れた」

日妙がきっぱりといった。

「父上、わたしはもう嫁にはいきませぬ。わたしのまわりは不甲斐ない男ばかりでございます。武士だ、侍だといっても、いざとなれば体裁を気にして出世しか頭にない人たちです。そんな男にだれがついていきましょう」

「それがいかんのだ」

父親が机の経巻を指さした。

「こんな法華経など、まだもっているのか。日蓮など信じているから、そのような気性になるのだ。親戚はお前のことをなんといっていると思う。日蓮を先にして夫を捨てた悪妻の見本といっているのだ」

娘の(おと)前が日妙をかばった。

「おじいさま、おばあさま。そんなこわい顔で母上をいじめないでください。上人さまのどこがわるいのです。乙にはやさしいお坊様です。おじいさまやおばあさまのように、こわい人ではありませぬ」

 乙御前が日妙にだきついた。

母親がうろたえた。

父親がおちついていった。

「とにかくお前が法華経をたもっているかぎり、財産を分け与えるわけにはいかぬ。お前がどうしても強情をはるならば、親子の縁を絶つまでじゃ。そうなったら幼い子供と二人で生きていかねばならぬ。心細いであろう。どうじゃ、考えなおすことはできぬのか」

沈黙がながれた。

現代とちがって父親の権威は絶大である。当時、土地などの遺産分与の権利は家父長がにぎっていたのである。いったん子に与えても「悔い返し」といって、取りもどす権利があったほどだ。

やがて日妙があきらめたようにうなずいた。

「承知しました。子が親にしたがうのはあたりまえです。これからは日蓮上人と法華経からはなれてまいります」

父母がほっとした。

乙御前がおどろいて日妙の目を見る。

母親がはじめて笑顔をみせた。

「よくぞ申してくれました。それでこそわが娘。そなたはかならず目ざめるものと信じておりました。これでまた、よい縁談もさがすことができます」

父親も表情をゆるめ、懐から銅銭をさしだした。

「これは一部である。そちにとらそう。だが今の言葉、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

日妙が沈んだ顔で床に両手をついた。

父母がさわやかに家をでて、親子がのこった。

乙御前が顔をくもらせた。

「お母様」

日妙はやがて笑顔にもどった。乙御前も表情をゆるめる。

母が娘に片目をつぶった。

「ああでもしなかったら帰らないでしょ」

「では・・」

日妙が蓑や草鞋を目の前においた。

「信心はすてませぬ。さあ行きますよ。覚悟はよいですか」

乙御前が目を輝かせた。

「では、わたしもいっしょに」
 日妙がうなずくと同時に乙御前が抱きついた。

翌朝、陽が鎌倉の山あいからのぞきはじめた。

日妙親子が佐渡へ旅立とうとしていた。

見送るのは四条金吾夫妻、土木常忍、太田乗明ら同心の徒である。

日妙親子の笑顔がすがすがしい。

彼女は佐渡行きを決意した。日蓮にどうしても会いにいかねばならない。日妙は日蓮に再会することで、今の自分の悩みが一気に解決できると信じた。

女の身で不安はある。しかも子連れだ。だが日蓮に会いたいという一心が勝った。先に見参した四条金吾には道中の心得や佐渡の様子などを根ほり葉ほり聞いた。日妙はこんどは自分が佐渡に行く番だと決めていた。

太田たちが心配した。鎌倉の騒動が終わったとはいえ、まだ三ケ月しかたっていない。

「大丈夫なのか、女の身で、しかも子まで連れて佐渡に渡るとは危険だ。やめたほうがよい」

四条金吾が大田をおさえた。

「まて。日妙殿の決心はかたいのだ」

金吾がきびしいまなざしで日妙をみつめる。

「どうかご無事で」

日妙が出発のあいさつをした。

「では行ってまいります」

見送る者たちが日妙親子の背中に手をあわせた。金吾の妻、日眼女が袂で涙をふいた。


日妙親子は出発した。

道中は馬に乗り、馬の便のないときは徒歩だった。

当時、鎌倉から佐渡へは十三日の道のりである。母娘二人ではどうだったか。いずれにしても大旅行である。

この道のりは、日蓮がたどった行程でもある。まず鎌倉から相模の国を出て武蔵に入る。広大な関東平野を北上し久米川、児玉をすぎて上野国高崎につく。高崎から西に向かい標高千メートルの碓氷峠を越えて信濃にはいる。宿場は追分、今の軽井沢である。ここからさらに北上し越後にはいる。そして日本海にたどりつく。さらに海沿いを北上し柏崎をとおり寺泊に到着。ここで船にのり佐渡へわたる。だが順風をまたねばならない。「海は荒海」とあるとおり、現代でも欠航があいつぐ波濤だった

日妙親子がはるかな関東平野を歩いていく。頭に笠、肩に荷袋、足に脚絆。その姿が長旅であることをあらわしていた。

はるか後方から騎馬が駆けてきた。武士の馬は日妙の前でとまった。役人のようである。

「そなたら、どこへいく」

日妙が慎重にこたえた。

「おそれいります。信濃まで足をはこびたいと思いまして」

「ほう、それは遠いの。鎌倉で合戦があったばかりだ。なにかと物騒でな。そなたら見たところあまりに不用心じゃ。引きかえす気はないか」

日妙が首をふった。

「信濃に身内がおります。はやり病でどうしても行かねばなりませぬ」

「それはしかたないのう。それでは気をつけられよ」

騎馬が去っていった。

母娘がふたたび進む。

乙御前が不思議そうにきいた。

「お母様、どうしてうそをつくのでございます。わたしたちは佐渡へ行くのでございましょう。身内ではなくて、上人様にお会いするのでございましょう」

 日妙の目がやさしい。

「上人は無実の罪であの島にいるのです。でもおもてむきは罪人。本当のことをいうわけにはいきません」

「お母様、どうして上人様のところにいくのですか」

 日妙が北の空を見つめた。

「あのかたはわたしがお会いした人の中で、なにより尊いのです。あのかたの教えはいまもこの胸に染みついています。上人のすばらしさは、わたしだけが知っています。思えば今まで、むなしい毎日でした。母はこれからあの喜びをとりかえしにいきます。一刻も早く会いにいきたいのです」

 母子が果てしない荒野を行く。

 

 日妙は百姓家に立ちよった。小銭とひきかえに麦飯を買う。

雨が静かにふりはじめた。

その夜、二人は寺の小堂で泊まった。

日妙は乙御前が眠っているそばで空を見あげた。雨がふっては思うようにすすまない。

彼女は袋の中の小銭をかぞえた。路銭が少なくなってきた。もともと無謀な旅であるとはわかっていたが、早くも困難がまちうけた。

くわえて二月騒動のせいだろうか。人々は道を行くにも、泊まる宿でもよそよそしかった。聞いても答える者は少なく、宿を借りようとしても断られることがつづいた。

(ひょう)(かく)の災いは津々浦々におよんでいるようだった。


        四十八、日蓮、始めて佐渡で本尊を図現する につづく


中巻目次
              

        

 瞿伽(くぎゃ)()

 瞿伽(くぎゃ)()尊者ともいう。悪時者・牛守と訳す。釈迦族の出身。提婆達多を師匠とし舎利弗・目連を誹謗して生きながら地獄に()ちた。また死んで大蓮華地獄へ堕ちたといわれる。
  泰衡

 藤原泰衡の事。久承二年(一一五五)~文治五年(一一八九)。鎌倉初期の陸奥の豪族。秀衡(ひでひら)の子。父の遺言によって源義経をかくまっていたが、頼朝の圧迫に耐えられず、ついに衣川(ころもがわ)の館で義経を攻め滅ぼした。しかしまもなく自らも頼朝に攻められ、逃走中、部下に殺されて奥州藤原氏の最後となった。

 九郎判官

源義経のこと。平治元年(一一五九)~文治五年(一一八九)(よし)(とも)の子。幼名を牛若・九郎といった。平治の乱で母・常盤(ときわ)とともに平氏に捕らえられたが、幼いため許されて鞍馬寺(くらまでら)へ入れられた。後にここを脱出して陸奥(むつ)藤原(ふじわら)秀衡(ひでひら)の客分となる。治承四年(一一八○)兄・源頼朝の挙兵に応じ、近江で源義仲(よしなか)を討ち、次いで平氏を一の谷・屋島・壇の浦に攻め、全滅させた。しかしのちに頼朝と不仲となり、ついに頼朝の追討を受けて諸国に逃れ、再び陸奥の秀衡に保護を求めた。秀衡の死後、頼朝の圧迫に耐えきれなくなった泰衡(やすひら)に背かれ、衣川で自害した。



by johsei1129 | 2017-07-16 18:57 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)


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