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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 04月 06日

二十二、 三類の怨敵

                    英語版


極楽寺の奥まった一室に一本のろうそくがともされていた。

この部屋に良観、建長寺の蘭溪(らんけい)道隆、念仏僧の然阿良忠が車座にすわった。

良観は律宗、南宋から渡来した道隆は禅宗、良忠は浄土宗の代表である。かつてこの三人は反目していた。しかし日蓮があらわれてからは「敵の敵は味方」とばかり、結束して協力するようになった。

然阿がおもむろに口火を切る。

「見ましたか」

道隆が額にしわをよせる。明らかに戸惑いを隠せない。

「確かに。まことにあやしげな書状でございます」

念阿良忠がうめくように吐き捨てる。

「日蓮め、九年も前の予言が当たったことをよいことに、鎌倉殿に訴え、われらと対決しようとは」

道隆はめずらしく愚痴をこぼした。

「予言が的中したせいでわれわれの信徒が日蓮に流れておる。おかげで座禅を組む者がめっきりと減りました。この先、蒙古が実際に襲来したら、ますます日蓮にすがろうとして信徒が流れていくに違いない。これではわれわれの生きる手だてがなくなるというもの。良観殿、なにか名案はありませぬか」

良観ただ一人、なにか秘策でもあるかの様子でおちついている

「対決については無視することです。日蓮のこのたびの件は、平の左衛門尉様もいたくご立腹の様子。日蓮はこのままでいけば罰せられることは確実です」

然阿はそれでも不安な顔を消せない。

「しかし鎌倉殿の父、時頼殿は日蓮の伊豆流罪を赦免しておる。鎌倉殿がまた日蓮を罰するというのは無理があるのでは」

良観が声をひそめて語りだした。
「問題はそこです。なんとしても日蓮を蹴落とさなければならない。日蓮本人がむずかしいとすれば弟子檀那に狙いをつけましょう」
 道隆が首をかしげる。

「弟子檀那とな・・」

「さよう。日蓮の弟子の中には江間氏の配下に四条金吾など御家人が多数おります。ご政道を批判する者の信徒が幕府の中にいるのです。これは鎌倉殿にとっても由々しきこと」
「なるほど」

 念阿と道隆は、闇の中で良観の自信たっぷりの口調にうなずいた。

 日蓮は蒙古襲来の予言で幕府の眼をさました。世間は注目し、幕府も日蓮を起用する動きがあったが、これをおさえたのは宗教界では良観、幕府内では平の左衛門尉をはじめとする主流派だった。他宗批判をくりかえす日蓮が幕府内で実権をにぎれば、彼らの地位は一夜のうちに転落する。良観らは幕府にとりいり讒言した。

北条時宗の耳にも日蓮への非難は聞こえていた。日蓮の耳には千葉家の富木常忍、御家人の四条金吾をはじめとする武家の信徒を通じ、この策謀は聞こえていた。のちに佐渡で記された『開目抄』でつぎのように述べている。


(それ)昔像法の末には(ごみ)(ょう)(注)・修円(注)等、奏状をさゝげて伝教大師を(ざん)(そう)す。今末法の始めには良観・念阿等、偽書を注して将軍家にさゝぐ。あに三類の怨敵(注)にあらずや。開目抄下

四百年前の伝教大師でさえ非難された。日蓮もおなじであると。
 世間で崇拝されている良観や然阿が日蓮をよこしまに攻撃する。彼らは三類の怨敵ではないか、と断言している。


時宗は鎌倉御所の弓場にいた。

御家人がまわりに控()いる

時宗の矢が的の中心にあたった。

「お見事」

御家人がいっせいに声をあげる。

時宗はにこりともせず言った。

「筑紫にむかった大将には、弓の訓練を絶やさぬよう指示しておけ。蒙古兵は弓に長けていると聞いておる」

泰盛がうなずいた。

それはぬかりありません殿のお考えの通り、この度の蒙古との一戦は陸と海の戦いになり、弓矢での戦いが肝心となります。ただ恩賞の準備に困っております。分け与える土地が不足しておりまする」

時宗はこともなげだった。

「それは奉行であるそなたの仕事ではないか。よく考えよ」

平頼綱がにやりとして言上した。

「全国の体制固めの件。諸国に下知を飛ばしました。筑紫にむかう武士の数。軍資金の徴収、不用な土地の没収もすすめております」

 時宗が弓を引きしぼって矢をはなつ。彼は矢が的の中央を射抜いたのをたしかめて言った。

「諸国の財政を苦しめてはならぬ。過酷な取り立ては不満分子を生む。そやつらは幕府にとって蒙古より脅威だ」

頼綱はつづける。

「そのことについて、各所に狼藉、浮浪人の輩をとらえております。とくにこの鎌倉では、不逞(ふてい)の者は一人もださぬよう警戒しておりまする。ただ鎌倉殿のお許しをえて捕縛したき者がおります」

泰盛があざ笑った。

「だれだ。この鎌倉に、そのような者がいたか」

「日蓮めにございます」

時宗が的をはずした。

頼綱がすすみでる。

「あの男、敵国攻撃の予言を盾に、幕府を悩まさんとしております。生かしておけば必ず禍根をのこすでありましょう。いま世情は蒙古襲来を恐れ、緊張しきっておりまする。日蓮を捕らえ、静めるのが肝要かと」

時宗がふたたび弓を引きしぼった。

「父上は日蓮殿を許した。わしもそれに従うまでだ」

頼綱が食いさがる。

「しかしあのような無礼な書状は幕府はじまっていらい、前代未聞、死罪に等しき内容でござる。首をはねるべきか、鎌倉追放か。弟子檀那どもは、所領ある者は土地をとりあげ、あるいは牢に入れて責め、あるいは島流しにすべきでございましょう」

ここで時宗がひとりごとのようにつぶやいた。

「父上はよく仰せられた。だれがほんとうの部下であるか、よく考えよと。主人にこびる部下は多く、(いさ)める臣下は少ない。前途多難な時であるのに、わたしは孤独だ。日蓮殿がどのような人かは知らぬ。だがこのわたしにとって、頼もしい味方かもしれぬ」

座が一瞬で静まった。

家臣が気落ちしている。時宗が見たこともない顔だった。

たまらず苦笑いした。

「ゆるせ、おぬしたちも時宗の頼もしい味方である。おのおの方は皆立派な鎌倉武士だ。叱ったわけでもないのに、そんなに気落ちするな」

時宗が大笑いしながら去っていく。

所従が頼綱に弓をすすめたが「おのれ日蓮めが」と叫び、手に持った弓を真っ二つに折ってしまった。

結局、十一通の書状への反応はまったくなかった。

日蓮は五十五歳の時に著した『種々御振舞御書』に悲憤をこめて次のように記している。

 日本国のたすかるべき事を御計らひのあるかとをも()わるべきに、さはなくして或は使ひ悪口(あっく)し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども(かみ)へも申さず。   




          二三、強敵の胎動  につづく


上巻目次


 護命

天平勝宝二年(七五○)~承和元年(八三四)。平安初期、法相宗の僧。()()()()()()()()()()()光仁十年(八一九)、伝教が比叡山に一乗戒壇の建立を願い上奏すると、護命はそれを非法として奏上し、伝教と祈雨を争ったが敗れた。


 修円

 延暦二十一年(八○二)一月十九日、高雄山寺で伝教と法論を行い、論破された。修円は伝教が唐から帰国後、伝法灌頂を受けた。弘仁九年(八一九)に伝教の大乗戒壇建立の請願に対し、同十年(八一九)護命らと共に反対する上奏を行った。また伝教の後継者だった義真の没後、延暦寺総事になろうとしたが宗徒に反対されて室生山に移り没した。


 三類の怨敵

三類の強敵(ごうてき)もいう。釈迦滅後、法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。法華経勧持品第十三で説かれる。妙楽が法華文句記の中でその名を定義した俗衆(ぞくしゅ)増上慢・道門増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つ。

俗衆増上慢とは法華経の行者を悪口罵詈(めり)し、刀杖を加えたりする仏法に無知な在俗の人々のこと。

「第七有諸無智人の事 御義口伝に云く一文不通の大俗なり。悪口(あっく)罵詈(めり)等分明なり。日本国の俗を諸と云うなり」

道門増上慢とは慢心で邪智に富んだ僧侶をいう。
「第八悪世中比丘の事 御義口伝に云はく、悪世中比丘の悪世とは末法なり、比丘とは謗法たる弘法等是なり。法華の正智を捨て権教の邪智を本とせり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は正智の中の大正智なり。」『勧持品十三箇の大事

僭聖増上慢とは聖者のように(よそお)い、社会的に尊敬を受けるもので、内面では利欲に執し悪心を(いだ)いて,法華経の行者を怨嫉(おんしつ)し、ついには権力を利用して流罪・死罪にまで迫害を及ぼす敵人をいう。




by johsei1129 | 2017-04-06 20:01 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(0)


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