日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 19日

20 北条時宗を諌暁

 このままでは(らち)が明かない。

 翌十月、日蓮は意を決し、弟子を使いとして一斉に関係各所に書状を届けた。相手は北条時宗を筆頭に幕府要人および仏教寺院である。日蓮の鬼気迫る行動だった。

 伯耆房は日蓮の書状をもって宿屋入道の館に出向いた。だが、屈強な門番に止められた。

 伯耆房は取り次ぎの役人に告げた。

「日蓮上人の使い、伯耆房日興と申します。鎌倉殿あてに書状を持参いたしました」

 いっぽう日朗は書状をもって侍所にむかい、門前に立った。

 門番が日朗を制止した。日朗は屈しない。

「日蓮上人の弟子、日朗と申す者。平の左衛門尉様にこの書状をご持参いたした。御計らいのほどを」

 日昭は極楽寺にむかった。

「極楽寺良観殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日昭がまいった」

 日持は建長寺に走った。

「建長寺道隆殿に書状あり。日蓮上人の弟子、日持がまいった」 

 日蓮の書状は合計十一箇所に及んだ。届けられた先は北条時宗、幕臣の平頼綱・宿屋入道・北条弥源太、寺院および僧侶の建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。

 日蓮は国主北条時宗の前で鎌倉の七ケ寺との対決を望んだ。建長寺をはじめとした七ケ寺こそ国をほろぼす元凶だからである。

 日蓮はこの七ケ寺の本質をつく。この時の心境を弘安元年九月六日、妙法比丘尼に送った消息で次のように記している。

而るに又()(あずま)にうつりて年を()るまゝに、彼の国主を失ひし真言宗等の人々鎌倉に下り、相州の足下にくゞり入りて、やうやうにた()かる故に、(もと)上臈(じょうろう)なればとてすか()されて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあが()め、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐法皇の果報の尽き給ひし(とが)より百千万億倍すぎたる大科鎌倉に出来(しゅったい)せり。妙法比丘尼御返事 

(訳文)五十年前、後鳥羽上皇が承久の変に敗れ、隠岐へ流されたあげく崩御したのも邪教のゆえである。この邪教の輩は東の鎌倉へうつり、北条にとりいって国を傾けている。今また蒙古を前にして、邪正を定めないまま国が滅びようとしている。相州すなわち時宗の前で悪比丘が根をはっている。これを退治することができるのは自分しかいない。

北条時宗は従者が日蓮からの書状を読みあげるのを聞いていた。横で安達泰盛がじっと時宗の表情をうかがっている。

 日蓮が送った十一通の中で、執権時宗にあてた書は極めて格調が高い。日本の国主への敬意にあふれている。対句を多用し、読む者をして歌うような(なめ)らかさでしたためている。その気品は時宗の父北条時頼に呈した立正安国論を思わせる。日蓮は子の時宗にも全く同じ心魂を費やした。この書状もまた時頼の時と同様、幕臣宿屋入道をつうじて提出された。

謹んで言上せしめ候。(そもそも)正月十八日西戌(せいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること立正安国論の如く少しも(たが)はず普合(ふごう)しぬ。日蓮は聖人の一分に当たれり。未萌(みぼう)を知るが故なり。

(しか)る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺、寿福寺、極楽寺、多宝寺、浄光明寺、大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より()め来るべきなり。

(すみ)やかに蒙古の人を調(じょう)(ぶく)して我が国を安泰(あんたい)ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之(かな)うべからず。(かん)(しん)(くに)()れば則ち其の国正しく、争子(そうし)家に在れば則ち其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡()る。

(それ)此の国は神国なり。神は非礼を()けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は、皆一乗擁護(おうご)の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云わく『諸仏救世者(くせしゃ)は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ず』と。一乗捨棄(しゃき)の国に(おい)ては(あに)善神怒りを成さざらんや。

仁王(にんのう)(きょう)に云わく『一切の聖人去る時七難必ず起こる』と。彼の()(おう)伍子胥(ごししょ)(注)が(ことば)を捨て吾が身を亡ぼし、(けつ)(ちゅう)(注)は(りゅう)()(注)を失ひて国位を(ほろ)ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。(あに)嘆かざらんや、豈驚かざらんや。

日蓮が申す事御用ひ無くんば、(さだ)めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使ひなり。経に云わく『則ち如来の使ひ、如来の所遣(しょけん)として、如来の()を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。

この由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有りて御報に(あず)かるべく候。所詮は万祈(ばんき)(なげう)ちて諸宗を御前に召し合わせ、仏法の邪正を決し給へ。澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ(いま)知らざるは(りょう)(しょう)(あやま)()り(注)、闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)り(注)()。三国仏法の分別に於ては殿前(でんぜん)在り、()所謂(いわゆる)阿闍(あじゃ)()・陳・隋・桓武是なり。()へて日蓮が私曲(しきょく)(あら)ず。(ただ)(ひとえ)に大忠を(いだ)く故に、身の為に之を申さず。神の為、君の為、国の為、一切衆生の為に言上(げんじょう)せしむる所なり。恐々謹言。                    

 文永五年十月十一日           日蓮花押

 謹上 宿屋入道殿                 『北条時宗への御状

 泰盛が怒りだした。

「なんという無礼で傲慢(ごうまん)書状だ」

 時宗は瞑目したまま黙考をしていた。


                       21  僭聖増上慢、極楽寺良観への書状 につづく
上巻目次


 呉王・伍子胥 

 呉王。

 中国・春秋時代の呉の王。(在位紀元前四九六~四七三)。父王闔閭(こうりょ)は越王(こう)(せん)との戦いに敗れ、太子・夫差(ふさ)に復讐を遺言して死ぬ。王位に就いた夫差は二年後に越を会稽で破った。呉の名臣伍子胥(ごししょ)は、越が後日、力を回復するのを恐れ、勾践を殺そうとするが、夫差は和を請う勾践を許した。勾践は(きも)()めて復讐を誓い、兵力の回復に努め、呉に攻め入り、ついに勝利を収めた。夫差は敗走して和を請うたが、勾践は許さなかったため、伍子胥の諫言を用いなかったことを悔やんで自害し呉は滅亡した。

 伍子胥

?~紀元前四八五年。中国・春秋時代、呉王に仕えた重臣。父の伍奢(ごしゃ)は楚の平王に仕えたが、平王二年(紀元前五ニ七)内紛のために兄の()(しょう)と共に殺された。そのため彼は楚を去って敵国の呉王闔閭(こうりょ)に仕え、孫武と共に楚を破り、平王の墓をあばいて、その(しかばね)に鞭をうって復讐をとげた。その後、闔閭の子・夫差に仕え、夫差が大いに(えつ)軍を破った時、越の後難を危惧した彼の再三の進言が聞き入れられず、逆に自害させられた。その時「わが目をくりぬいて呉の東門にかけておけ、やがて越が呉を滅ぼす様をみよう」といって死んだという。彼の予言どおりに呉は滅ぼされた。

 桀・紂

 中国古代の王。()の桀王、殷の紂王のこと。

 夏の桀王は中国古代、夏王朝最後の王。名を()()という。史記によると、不道徳で酒池肉林(しゅちにく りん)をきわめ、暴虐で人民を苦しめた。忠臣(りゅう)(ほう)(いさ)めたが用いず頭をはねたほどの暴悪ぶりだった。のち(いん)(とう)王に滅ぼされた。殷王朝最後の(ちゅう)王とともに悪王の代表とされている。

 殷の紂王は紀元前十一世紀頃、中国・殷王朝最後の王。()()悪王の名が高く、臣下の言に耳をかさず農民を重税で苦しめ、周の武王に滅ぼされて殷王朝は崩壊した。のち、()(けつ)王とともに、桀紂と称され、悪王の(たとえ)に用いられるようになった。

 竜・比

 竜蓬と比干のこと。共に中国古代の忠臣。竜蓬は夏の桀王に、比干は殷の紂王に仕えたが、ともに主君の暴虐を諫めて容れられず殺された。殷も夏も忠言を聞かなかったため滅亡したといわれる。

 

 澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ知らざるは(りょう)(しょう)の誤り

 澗底とは谷の深い所。優れた(たくみ)が険しい谷で誰も知られずに茂る立派な松を知らないのは、良匠の名に恥じること。転じて優れた人材を草の根を分けても探し出すことの必要性をいう。

 闇中(あんちゅう)(きん)()を未だ見ざるは愚人の(とが)なり

 錦衣を着た人がいても、闇の中では見ることができないこと。愚人は天下に賢人、聖人のいるのがわからないことのたとえ。



by johsei1129 | 2017-03-19 18:57 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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