答う、所引の文皆迹中化他の虚仏、色相荘厳の身に約す故に勝劣有り、若し本地自行の真仏は久遠元初の自受用身、本是れ人法体一にして更に優劣有ること無し、今明文を出だして以て実義を示さん。
法師品に云く「若しは経巻所住の処、此の中已に如来の全身有り」云云。
天台釈して云く「此の経は是れ法身の舎利」等云云。
宝塔品に云く「若し能く持つ有らば則ち仏身を持つ」云云、
普賢経に云く「此の経を持つ者は則ち仏身を持つ」云云。
文句第十に云く「法を持つは即ち仏身を持つ」云云。
又涅槃経に如来行と云い今経には安楽行と云う。
天台文八-六十五に之を会して云く「如来は是れ人、安楽は是れ法、如来は是れ安楽の人、安楽は是れ如来の法、総じて之を言わば其の義異ならず」云云。
記八末に云く「如来涅槃、人法名殊なれども大理別ならず、人即法の故」に云云。会疏十三-二十一に云く「如来は即ち是れ人の醍醐、一実諦は是れ法の醍醐、醍醐の人、醍醐の法を説く。醍醐の法、醍醐の人を成ず。人と法と一にして二無し」云云。
略法華経に云く「六万九千三八四、一々文々是真仏」云云。
諸抄の中文字は是れ仏なりと云云。
御義口伝に云く「自受用身即一念三千」。
伝教大師秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身等」云云。
報恩抄に云く「自受用身即一念三千」。
本尊抄に云く「一念三千即自受用身」云云。
宗祖示して言わく「文は睫毛の如し」云云。斯の言良に由有るかな、人法体一の明文赫々たり、誰か之を信ぜざらんや。