日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 14日

10 弟子への薫陶

鎌倉の下町に夕陽がさす。

下町には井戸が点々としてあった。

町人がこの井戸から水をくみあげる。

日蓮の弟子、筑後房日朗(注)も列にまじって水をくんだ。

彼はまだ十代である。下総国海上郡能手郷に生れ、幼名を吉祥丸といった。建長六年、父の平賀二郎有国とともに日蓮に帰依し、叔父の日昭のもとで得度した。

この頃になると日蓮の名は、良しきにつけ悪しきにつけ鎌倉中にひろまっていった。そして日蓮を慕って弟子となる僧があいついだ。

世間の評判は悪名高い日蓮だったが、じっさいに会うと気はやさしく、話は機知に富んでいた。しかも言葉の一つ一つが経文に裏打ちされて理路整然としている。聴き入る者は日蓮の確信あふれる説法ばかりでなく、人柄そのものにもひかれた。

日昭・日朗に続いて(きょう)(にん)(ぼう)大進房(だいしんぼう)少輔(しょうい)(ぼう)など、若い才能ある弟子が入門してきた。なかでも鏡忍房は日蓮より二十歳年上で弁舌、識見ともにすぐれ、当時の弟子の中で第一とされた。

日蓮が館に帰ってきた。

玄関を開けると、日朗が豆を煮込んでいた。

「お帰りなさいませ」

弟子たちが膳の準備をした。みな若いだけに食欲は旺盛である。

豆が盆に、漬物は皿にのせられた。この時代、庶民の主食は豆か、粟、稗に玄米を混ぜた雑穀である。白米は公家が食べていたが、ビタミン不足で脚気になり早死にだったという。

日蓮が豆をほうばりながら聞いた。

筑後房は、今日どちらに布教に出向かれたのかな

日朗少年は元気よい。

「はい。和賀江の海岸の付近を布教にまいりました」

「ほう」

「あの一帯は念仏の家が多くございました。また律宗の良観殿を熱烈に信仰しております」

日蓮はにこやかである。

「ご苦労であった。これも日朗にとって大切な修行だ。たくさんの人に信心を語っていきなさい」

ふと気がつくと、二人の子が窓から家の中をのぞきこんでいる。身なりが貧しい。子供は豆の皿を眺めていた。

弟子の大進房が追いはらった。

ここは子供の来るところではない。仏法の修行をする所です。早くうちに帰りなさい

日蓮が声をかける。

「どうした」

大進房がはきすてるようにいった。

「恐らく、みなしごでしょう。飢謹で離散した家の子供ではないかと。ちかごろ、この辺をうろついております」

「どれどれ」

日蓮が窓からのぞくと幼い二人が体をよりそい、かたまっていた。兄弟ではないようだ。

日蓮は豆の椀をとって外へでた。

子供たちは日蓮に気づくと逃げだしてしまった。

日蓮は子供たちが走り去るのを見届けると豆の椀を玄関においた。こうしておけば勝手に食べるであろう。

大進房があきれた。

「上人・・」

「よいではないか。孤児になったのはあの子らのせいではない。今はだれもがひもじい思いをしている。せめて自分のまわりだけでも施さなくては。眠るところもないのであろう。日朗、(むしろ)はなかったか」

「はい、ございますが」

「もってきなさい」

日蓮が筵を土間においた。

これでよい」

 そこに日朗が気を利かせ枕を二つ持ってきて蓆を敷いた隅においた。

日蓮はそれをみて何も言わず笑顔で見つめていた。


日が暮れて、いつもどおり日蓮の講義が始まった。

日蓮と弟子たちの関係はどうだったのだろう。日蓮はどのように門下と接したのか、具体的な史料はのこっていない。今となっては想像するだけだが手がかりはある。

日蓮のあとを継いだ伯耆房(ほうきぼう)日蓮門下が厳守すべき条項として『日興遺戒置文』といわれる書を残している。全部で二十六ケ条あるが、その中に日蓮門下の根本となる()(どう)弘法(ぐほう)の方針が示されている。

伯耆房は日蓮の教えをかたくなに守り、生涯くずさなかった僧である。日蓮の方軌をそのまま受けつぎ、後世の弟子に師と同じ手法で法を弘めるよう遺言した。

したがってこの「遺誡置文」は伯耆房の独創ではなく、日蓮が生前、弟子・信徒に残した教えを取りまとめて、そのまま記されたといってよい。ここに当時の日蓮教団の状況、師、弟子、信徒の関係性を垣間見ることができる。

まず目を引くのは、門下の衣の色が黒色ではなく、薄墨だったことである。

一、衣の墨・黒くすべからざる事。

現代の僧侶のような黒衣でもなく、色あざやかなものでもない。薄いねずみ色だった。日蓮、日興の血脈を引き継いでいる日蓮正宗の僧侶の法衣は、薄墨の色を今も変わらず守っている。

 なお『四菩薩造立抄』の冒頭に、富木常忍が日蓮に薄墨の法衣を供養したことが記されている。


 白小袖(こそで)一、薄墨(うすずみ)(そめ)(ころも)一、同色の袈裟(けさ)一帖(いちじょう)鵞目(がもく)一貫文給び候。今に始めざる御志、(ことば)を以て()べがたし。(いず)日を期してか対面を遂げ心中の朦朧(もうろう)を申し(ひらかば)や。


また二十六世の日寛は薄墨の理由をのべる。

  問ふ法衣の色に但薄墨を用る其(いわれ)如何、答ふ(また)多意有り、一には是名字(みょうじ)(そく)を表する故なり、(いわ)く末法は(これ)(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生にして最初下種の時なり(しかる)に名字即は是下種の位なり、故に荊溪(けいけい)(いわ)く聞法を種となす等云云。聞法(あに)名字に非ずや、種となす(あに)下種の位に非ずや、故に名字即を表して(ただ)薄墨を用るなり。  当家三衣抄

名字即とは初めて仏法を信じ持つ人のことをいう。この仏法は、初めて信受した名字即の位で証果を得ることができる。順位や階級とは無縁である。
 また弟子たちには(じき)(とつ)の着用を禁じた。直綴は上衣と下着をつなぎ合せた法服である。腰から下に(ひだ)があるのが特徴だが、日蓮はこれを許さず、()(けん)だけを着せた。素絹とは精製前の荒い絹糸のことで、日蓮は終生この姿でいた。色とりどりの法服とはまったく縁がない。

さらに袈裟は最下位の僧侶がつける五条を使った。衣とあわせて「素絹五条」という。あくまでも質素に徹した。

 袈裟は当初、インドで糞のように捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作ったところから糞掃(ふんぞう)()ともいった。現在日本で使われている袈裟は、新品の布で作るが、この名残りで、わざわざ小片にした布をつぎ合わせて作っている。小布を数枚つないだ縦一列を一条という。日蓮につづく僧侶はいまも簡素な五条袈裟である。

袈裟は右肩を出すようにして、体に巻きつけるようにかける。右肩を出すのは相手に敬意を表す印度の習慣である。

また印度の僧侶は当初、袈裟一枚で生活していたが、北へ行くほど寒さをしのげないので、しだいに下衣をつけるようになった。これが法衣の始まりである。

話をもとにもどす。
 弟子たちは日蓮の薫陶もあり猛烈に勉学にいそしんだ。そして勉学が終われば法門について議論をはじめた。

一、学問未練(みれん)にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。

無学の者は自分の弟子にしないという。日蓮は十二歳の時から経典の修学にうちこんだ。弟子たちにも同じく、きびしい修練を課している。

勉学した上、対論、議論を好むことで仏法の理解は深まり、正邪を立てわける能力がついていく。弟子たちは互いの切磋琢磨によって成長していった。自余とは「そのほか」「その他のもの」の意味である。日蓮は自余を交えない純粋な討論をうながした。目的は仏法の奥底を学び、他宗の誤りをただすことである。目的を忘れると雑談になり、心は遊戯におちいる。批判精神を忘れると学業自体が停滞する。

一、謗法(ほうぼう)(注)()()(しゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)の化()(ならび)に外書歌道を好む可からざる事。

さらに日蓮は数ある弟子の中でも、才能のある者は口をきわめて賞賛している。

一、身軽法(しんきょうほう)(じゅう)(注)の行者に於ては下劣の法師()りと(いえど)当如(とうにょ)(きょう)(ぶつ)(注)の道理に任せて(しん)(ぎょう)を致す可き事。

一、弘通(ぐつう)の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の(おもい)を為す可き事。

一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば(あお)いで師匠とす可き事。

下賎の者であろうと若年であろうと、果敢に法を弘め、智慧すぐれた者は尊敬し、年長の思いをなし、師匠とすべきだという。日蓮はこれを率先した。法の前に差別はない。身分や出自はいっさい関係ない。

日蓮はすぐれた才能を見いだすことを無上のよろこびとした。いまはじめてひらく妙法の世界に、自分と同じ智慧をもつ者があらわれはじめたのである。自分の分身ともいうべき弟子が涌出(ゆしゅつ)しはじめた。これほどうれしいことはない。日蓮は「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(御義口伝下)といったが、まさにそれである。

とりわけ議論の中で巧みに答える弟子をほめたたえた。

一、巧於(ぎょうお)難問(なんもん)(どう)(注)の行者に於ては先師の如く賞翫(しょうがん)す可き事。

先師とは日蓮のことである。戒文は先師日蓮をなつかしむようにしるしている。

さらにすぐれた人材は大切に育てねばならない。彼らには雑用などの些事をとどめ、学問に専念させている。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し(さしお)き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

 この頃の日蓮にとって、弘教は当然のことながら、何より未来への基盤を強固にするための優れた弟子の発掘に必死だった。

 ところで日蓮は弟子たちにどのような方法で仏法を講義したのか。

 日蓮がみずから図示した「釈迦一代五時鶏図 (継図)」という真筆が、現代まで断簡を含めると十余枚ほど残されている。この書は釈迦から末法までの仏教の伝来を右から左に、ちょうど鳥の羽を伸ばした態で書かれた図で、日蓮はこれを壁からつりさげて弟子に教育したものと思われる。あたかも現代の教育現場で、教師が黒板に板書しながら生徒に教えているようなものである。

 『曾谷入道殿許御書』に「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し」と説かれているが、日蓮は自ら弟子たちにその通り実践していた。おそらくその図は、日蓮が身延に入山した以降は、弟子たちが各宿坊で日蓮同様に使用し、信徒に説法したものと思われる。

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                 『一代五時鶏図(千葉県弘法寺蔵)


真夜中、日蓮が灯心のもとで経巻を読み、そこに天台、妙楽、伝教等の論・釈の文言等を書き加えていった。

その脇で弟子たちが眠りについている。

外ではこがらしが吹いていた。

 夜になり、孤児の二人が肩をふるわせながら日蓮の草庵に近づいた。

二人は草庵の中をのぞきこむ。

日蓮が背をむいて、ひたすら経文を書いている。

やがて子供たちは入口においてある椀をみつけた。

日蓮が筆を休め、そっと土間をのぞき込む。

玄関には空の椀がころがっていた。

二人の子はいつのまにか筵にくるまって寝ている。

日蓮は筆を休め、そっと土間を覗き込む。
 あどけない寝顔だった。

日蓮の顔に思わず笑みがこぼれた。



               11 生涯の法敵、極楽寺良観につづく


上巻目次



筑後房(ちくごぼう)(にち)(ろう)

寛元三年四月八日(一二四五年) -元応二年一月二十一日(一三二○年)六老僧の一人。大国(だいこく)()(じゃ)()とも称する。下総(しもうさ)国の出身。父は平賀有国。六老僧の一人日昭は叔父で、池上兄弟とは縁戚にあたる。

日朗は建長六年、大聖人に帰依する。竜の口法難の際、幕府に捕えられ(つち)(ろう)に投獄された五人の一人。また佐渡の流罪中の大聖人を度々訪ねている。尚、日蓮大聖人()遷化(せんげ)の後、池上宗仲が法華経の文字数六九、三八四文字と同じ坪数の領地を寄進、ここに寺院を建立し開祖となる。現在の池上本門寺である。しかし残念ながら現在の池上本門寺は釈迦の立像を本尊としている。大聖人が図現した十界曼荼羅(まんだら)()(えい)(どう)に掲げられているが、本尊とはしていない。つまり日朗には日蓮大聖人の末法の本仏としての内証は伝わっていなかったことになる。

謗法

誹謗(ひぼう)正法のこと。正法に背いて信受しないこと。または信受しない人。

「口に(そし)るを誹と言ひ、心に背くを謗と云ふ」(大智度論)

身軽法重

「身は軽く法は重し」と読む。章安の涅槃経疏巻十二菩薩品の文。教法弘通の精神を示した文で、衆生の身は軽く弘むべき法は重いとの意。一身を賭して教法を弘むべき旨を述べたもの。

当如敬仏

(まさ)に仏を敬うが(ごと)くすべし」と読む。仏を敬うように、妙法を受持する衆生に敬意を表すること。法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文。同品に「()し是の経典を受持せん者を見ては、当に()って遠く(むか)うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」とある。

「無智の者は此の経を説く者に使はれて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば()当起遠迎当(とうきおんごうとう)(にょ)敬仏(きょうぶつ)』の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし。例へば宝塔品(ほうとうぼん)の釈迦多宝の如くなるべし。」  『松野殿御返事

巧於難問答

「難問答に巧みにして」と読む。法華経従地涌出品第十五の文。地涌の菩薩を我が弟子なりと明かした釈迦の言葉に、弥勒が疑問を呈した偈の中にあり、地涌の菩薩を称賛した句の一つ。あらゆる難解な論議に対しても巧みに正しく答えることをいう。



by johsei1129 | 2017-03-14 14:43 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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