日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 10日

4 日蓮、鎌倉で弘教を開始 二

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 日蓮は同時に禅宗を攻めた。文永五年(一二六八)に述作された「聖愚問答抄」で当時の禅僧の姿を如実に記している。


(ここ)(うきくさ)のごとく諸州を回り(よもぎ)のごとく県々(けんけん)に転ずる非人の、それとも知らず来たり、(かど)の柱に寄り立ちて(ほほ)()み語る事なし。あやしみをなして是を問ふに始めには云ふ事なし。後に()いて問ひを立つる時、彼が云はく、月蒼々(そうそう)として風忙々(ぼうぼう)たりと。形質(なりかたち)常に(こと)に、言語又通ぜず。其の至極(しごく)を尋ぬれば当世の禅法是なり。  

禅僧は言葉が通じないという。現代ではこれほどひどくはないが教えは昔とかわっていない。根本の中身は同じである。 

禅宗もまた念仏と同じく一切経を否定した。禅の宗旨は、釈尊は仏法の真髄を経ではなく、釈迦の弟子摩訶(まか)迦葉(かしょう)(注)一人に口伝であたえられたとする。したがって経文に真実はなく、学ぶのはむだであるという。これを教外別伝といった。この奥義を伝える者が達磨(だるま)以下の禅僧である。

日蓮は怒りをこめて彼らを糾弾する。

 禅宗と申す宗は教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に迦葉(かしょう)尊者にひそかにさゝやかせ給ヘリ。されば禅宗をしらずして一切経を習うものは犬の(いかずち)かむ()がごとし。猿の月の影を()るに()たり云云。此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ、無礼なる故に主君にかん()()うせられ、あるいは(じゃく)なる法師等の学文にも()うき、遊女のもの()ぐる()わしき本性に(かな)へる邪法なるゆへに、皆一同に持斎になりて国の百姓をくらう(いな)(むし)となれり。しかれば天は天眼をいか()らかし、地神は身をふるう。  『撰時抄

持斎とは仏門に入った人のことをいう。蝗虫とはイナゴのことである。ひとかどの道心をおこして仏道に入った者が、国の(つい)えをむさぼる害虫になっているという。

したがって禅宗がおこると、にわか坊主が続出した。なんの知識ももたず、修行もせず、見識もない者が、高僧らしくふるまう。こんな人間はいうまでもなく傲慢になる。日蓮の指摘のように常識さえもなくなってしまう。


 今時の禅宗は大段、仁・義・礼・智・信の五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは内外典(ないげてん)の法なり。(しか)るを彼の僧家の者を見れば、昨日今日まで田夫(でんぷ)野人(やじん)にして黒白を知らざる者も、かちん(褐色)(じき)(とつ)をだにも()つれば、うち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり、礼もせず其の上に居らんと思ふなり。(これ)傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にして畜生に劣れり。(ここ)を以て伝教(だい)()(注)の御釈に云はく、川獺(せんだつ)祭魚のこゝざし、(りん)()父祖の食を通ず、鳩鴿(きゅうごう)三枝(さんし)の礼あり、(こう)雁連(がんつら)(みだ)らず、(こう)羊踞(よううずくま)りて乳を飲む。(いや)しき畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に(おい)てその礼なからんやとあそばされたり取意。彼らが法門に迷へる事道理なり。人倫にしてだにも知らず、是天魔(てんま)()(じゅん)ふる()まひ()にあらずや。  新池御書

()日蓮は「川獺(かわうそ)でさえ正月にとらえた魚をていねいにならべ、先祖を祭るという伝説があり、林に棲む(からす)は自分を育ててくれた親やそのまた親が餓えないように、(えさ)をはこんで恩にむくいる。鳩は親鳥より三つ下の枝にとまるという。雁が列を乱さないのは知るとおりである。恙とは子羊のこと。羊の子は親に頭をさげて乳を飲む」と言う。このように動物でさえ礼を守り孝行をおこなう。これをはずすのは畜生以下であるとした。

ではなぜ禅宗がこの時代ひろまったのか。

理由は至極明白である。時の権力者が信奉していたからだった。
 時の権力者とは執権北条時頼である。時頼はすでに日本国を支配する皇帝といってよい。天皇もおり征夷大将軍も存在したが、武士がひれ伏すのは時頼だけだった。

 彼は宋から禅僧の蘭渓(らんけい)道隆(どうりゅう)を招いた。日蓮が二十五歳の時である。この七年後の建長五年に建長寺を創建し、道隆を請じている。建長五年は日蓮が安房の地で立宗宣言をした年である。
時頼はさらにこの三年後、道隆により出家し入道となり、法名を覚了房道崇と名のった。かなりの心酔ぶりである。時頼にしたがう者はぞくぞくと座禅を組んでいった。つられて道隆の名声も高くなっていったが、日蓮は道隆を見抜いていた。

日蓮は度度(たびたび)知つて日本国の道俗の(とが)を申せば、是は今生の(わざわい)・後生の(さいわい)なり。(ただ)し道隆の振舞は日本国の道俗知りて候へども、(かみ)(おそ)れてこそ尊み申せ、又内心は皆()とみて候らん。 『弥源入道殿御消息


禅宗は武士のあいだに広まったというが、実態はこのようなありさまだった。同時代に生きた日蓮はさらに言う。


建長寺・円覚寺の僧共の作法戒門を破る事は大山の(くず)れたるが如く、威儀の放埓(ほうらつ)なることは猿に似たり。是を供養して後世を助からんと思ふは、はかなしはかなし。『新池御書

建長寺は時頼が建て、円覚寺は息子の時宗が建てた。両寺とも現存しているが、日蓮この両寺に供養して後世善処を願うのは浅はかだ、と断じている。




                   5 四条金吾登場 につづく
上巻目次




摩訶迦葉

迦葉。尼倶利陀(にくりだ)長者の息子。釈迦(しょう)(もん)十大弟子の一人で、頭陀(ずだ)第一といわれる。法華経の会座(えざ)(授記品第六)で、光明如来の記別を受けた。釈尊滅後、阿闍(あじゃ)()(おう)()()を受け、仏典結集の座長として摩竭陀(まかだ)国の王舎城の南、七葉窟(ようくつ)で、羅漢(あらかん)五百余と半年以上に渡り、釈尊の説いた教えを取りまとめた。また付法蔵の第一として二十年間、小乗教を弘通した。

 伝教大師

神護景雲元年(七六七)~弘仁十三年(八二二)。平安初期、日本天台宗の開祖最澄のこと。()()()()()()()十二歳で出家し、()暦四年(七八五)東大寺で具足戒を受け、いったん故郷に戻ったがその後比叡山へ入り、草庵を結んで諸経論を究めた。延暦七年(七八八)に草庵を延暦寺と号し、さらに延暦十二年(七九三)一乗止観院と改めた。延暦二十一年(八○二)に高雄寺で華厳・法相・三論等の碩学十余人と、宗の優劣を論じた。延暦二十三年(八○四)に入唐して()()()()()()()()天台の義、および禅、真言を学び、翌年帰国し延暦二十五年(八○六)天台宗を開いた。弘仁四年(八一三)に嵯峨天皇の護持僧となり、また旧仏教界の反対の中で、大乗戒壇実現の努力を続けた。没後七日の六月十一日に大乗戒壇の勅許がおりた。

日蓮大聖人はこの大乗戒壇を高く評価し「仏法の人をすべて一法となせる事は,内証は竜樹・天親にもこえ南岳・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり」(撰時抄)と称賛している。弟子に義真・円澄・慈覚などがいる。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「山家学生式」など多数。

 なお、日蓮大聖人は観抄」で「()れ天台大師は(むかし)霊山(りょうぜん)(あり)ては薬王と名け、今漢土に在ては天台と名け、日本国の中にては伝教と名く。三世の弘通(ぐつう)(とも)に妙法と(なづ)」と説いている。





by johsei1129 | 2014-11-10 21:40 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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