日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 11日

4 日蓮、鎌倉で弘教を開始  一

     英語版
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                       (鶴岡八幡宮)

鎌倉の建長寺の本堂で北条時頼の親子が座禅を組んでいた。
 寺のまわりには警固の武士が集まった。ものものしい警戒ぶりである。
 親子の向かいには黒衣の禅僧、道隆がいる。

道隆は宋から招来した高僧で(あざな)蘭渓(らんけい)。南宋・西蜀(四川省)の人である。三十三歳の時、弟子を伴って日本に渡航し、翌年入京して泉涌寺來迎院にはいった。さらに鎌倉におもむいて壽福寺・浄楽寺にいたが、北条時頼が日蓮の立宗と同じ建長五年に建長寺を建立すると、請ぜられて開山となり時頼の帰依をうけた。

時頼はすでに執権の職から離れていた。だが(さね)(とき)(やす)(とき)とつづく北条の直系は健在で、その権勢は他の御家人を圧倒していた。

また時頼は朝廷でさえ支配下においていた。

きっかけは承久三年(一二二一年)に、()鳥羽(とば)上皇が源頼朝の正室北条政子の弟・第二代執権北条義時を討伐する兵を挙げて敗れた「承久の乱」だった。その結果、義時は後鳥羽上皇を謀反(むほん)(とが)隠岐(おき)へ、順徳天皇を佐渡にそれぞれ配流(はいる)した。また後鳥羽上皇の第一王子だった(つち)御門(みかど)上皇は無実ながら自ら進んで土佐への配流に処された。これ以降、鎌倉幕府は朝廷支配を確立することになる。

この意味で鎌倉幕府の執権は、日本における皇帝ともいってよかった。

親子の背後に(きょう)(さく)をもつ禅僧が立つ。

まず長男時輔が肩をうたれた「何故」とばかり顔をしかめる。

つぎに時宗がうたれた。時宗は兄の反応とちがう。しまったという顔をしたが合掌(がっしょう)低頭(ていとう)してから背筋を伸ばし、また静かに目をつぶった。

道隆がほほえむ。
「やはりお若いだけあって、心が動きなさるな」

父の時頼が目をつむりながら語る。
「ほう、和尚は二人の心を読みとってござるか」

道隆が得意気である。
「時輔殿は時宗殿に対抗心むき出しでございます。弟などに負けられぬという気持ちがありあり」
「ほう、では弟は」
「とりもなおさずお父上の行く末を案じているとお見受けしました」
「わしのか」
「時頼様のあと、いずれが鎌倉の主となるのか。年の上では兄者の時輔殿、器量では自分がなるものかと」

気の荒い時輔が口をはさむ。
「道隆殿、口がすぎないか」

だが時頼が長兄の時輔をとがめた。
「まてまて、和尚の読みは憶測も入っておる。そのようなことで心を乱さないのが禅宗の教えじゃ」

道隆の口元に笑みがこぼれる。

時頼が瞑目しながら聞いた。
「では和尚、わしの心は」

道隆が考えこんだ。
「このごろの天災や飢饉のことではございませぬかな」
「そのようにみえるか」

「鎌倉幕府は今や安泰とみられております。であれば時頼様はこれから内政の充実に心をくだかれておられるはず。しかし、さしもの時頼様も飢餓、疫病、天変にはかなわぬものとお嘆きでは」

「ちがうな」

予想外の反応に道隆の表情が一瞬こわばる。

「和尚のことを考えているのよ。南宋よりわざわざ来られた貴い僧じゃ。わが日本国は宋との貿易を重んじるため、鎌倉の港も整備した。しかしそれは宋のまつりごとが安泰だからできること。その宋が北方の(えびす)におびやかされている」

道隆の額に汗が流れる。

「御存知で・・」

「この寺を建てたのは和尚が中国でならびない情報通であるからこそ。様々な話もわしの耳に入れてほしいものだのう。この日本国に禅宗をひろめようと、お思いなさるのであれば、損になることではないと思うがの」

道隆が下をむいた。

「それがなかなか思うにまかせませぬ。日本国はいま念仏宗が大半を占めまする。それにいま、鎌倉ではわれら禅宗をふくめ、あらゆる宗派を攻撃する僧侶がおりまして」

「ほうそれは奇怪な」

「たしか日蓮とかいう・・」

時頼が笑った。

「わしは海を隔てた他国との外交に不安あり。和尚には、おひざ元鎌倉の日蓮とやらに心配ありか」

鎌倉時代の庶民の家はいまにも倒れそうなものばかりだった。壁は土で固められ、屋根は板を重ね、風で飛ばないように重石をのせていた。現代からみれば貧民街を思わせるが、いつの時代でも人々はたくましい。 

庶民のふだん着は小袖に袴を履き、足元をひもでむすび、腰には腰刀と火打ち袋をつけていた。いまでも田舎で見かけるモンペの格好であり、今のわれわれにも馴染みがある。

現代と際立って違うのは、男が烏帽子をつけていたことである。老いも若きも黒い三角の冠を頭におき、顎でしばって固定させていた。寝る時もつけたという説もある。平安時代の貴族文化が庶民におりてきたと思われる。

食生活は質素だった。主食は玄米に麦、粟を混ぜて蒸かしたもので、現代の様に精米を水から炊くことはなかった。白米は貴族が食したが、そのため貴族の寿命は概して短かった。


日蓮の草庵は質素な建物だった。

安房の田舎からきた一介の僧である。頼るのは故郷安房国のわずかな信徒のみだった。

鎌倉の南東に位置し、初代執権の北条時政が館を構えたという名越に松葉ヶ(やつ)とよばれた地があった。町民の家もあれば武士の家もある。ここは海に近い。ゆるい坂道をくだれば活気にあふれた材木座海岸がある。近くには北条の支族である名越氏の屋敷があった。名越は大尼の実家である。ここは幕府の中枢が住む八幡宮周辺からは遠い。大多数の僧は権力に近づくことにやっきになったが、日蓮はまず松葉ヶ谷に草庵を構え、武士や町民に布教を開始した。

人々はもの珍しいことに興味をおぼえる。

「おい、どこにいくんだ」

「いやなに、最近松葉ケ谷に越してきたとかいう坊さんだ。ありがたい説教をされるというのでな」

「ほう、そいつはおもしれえ。どれ、聞いてやろうじゃねえか」

「そんならおらも行く、ところで銭をとられやしねえか」

町民たちが日蓮の草庵に入っていく。

中では日蓮をかこんで聴衆が十人程度いた。町人もいれば女性も武士もいる。みな板敷にすわって日蓮の話を聞いていた。壁には南無妙法蓮華経と大きく書かれた紙が貼ってあり、その前には質素な宝殿があり、法華経八巻、開経の無量義経一巻、結経の普賢経一巻、計十巻が中央に奉納されていた。

 日蓮は宝殿を背にして説法を始めた。

「念仏を信じる人は南無阿弥陀仏と唱えます。お釈迦様を祈るのではなく、阿弥陀を祈っている。そもそも阿弥陀は釈迦仏が阿弥陀経で説いた仏です。いわば釈迦仏を親とするなら阿弥陀仏は他人と同じです。それ故、衆生が親の釈迦仏をないがしろにして他人を崇めるのは親をさげすむのとおなじです

聴衆が首をかしげた。

「禅宗の僧は教外別伝といい、仏の教え以外に口伝(くでん)()(しょう)につたえられたと妄説を立てています。そんなことはありえません。禅宗は仏教を始めた大恩ある釈尊をのけ者にする天魔の教えです」

聴衆が一人、二人と去っていった。首をふって帰る者もいた。

そしてだれもいなくなった。

日蓮はそれでも平然としていた。

日蓮は法華経の題目である南無妙法蓮華経を直接説いていった。聞いている人の機根にかかわらず、いきなり説いていく。これを折伏といった。

釈迦はこれとは逆に四十余年にわたって衆生を誘引した。仏法の核心である法華経を説くために、さまざまな法を説いていった。これを調機調(ちょうきじょう)(よう)という。釈迦は出世の本懐である法華経を説き始めるのに四十数年を要したのである。

日蓮は釈迦とちがって法華経の核心を直ちに説いていった。

この方法は法華経の()()「常不軽菩薩品第二十」に示されているそこに登場する不軽菩薩(注)全ての大衆に分け隔てなく「全ての衆生に仏となる命(仏界(ぶっかい))がある」と説いていったのが折伏である。大衆は法華経の縁をもっていない。これを(ほん)未有(みう)(ぜん)(注)いう。このため大衆は不軽菩薩に悪意をいだき、(じょう)(もく)()(しゃく)をもって迫害した。日蓮もまた不軽菩薩と同じ運命をたどる。

日蓮正宗第二十六世の(にち)(かん)(注)は説く。末法の衆生は本未有善であると。

亦我が宗祖大聖人は御書廿八九(聖人知三世事)に、日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を承継すとあって、全く不軽菩薩の如く折伏弘通し玉ひてあるなり。(よつ)て釈尊の如く重々に方便を設け玉ふこともなく、段々機を調へ玉ふ事もなく、(ただち)に此の本寿量の妙法を日本国中に()いて之れを弘通す。是(すなわち)末法今時は(ほん)()()(ぜん)の機類の故なり。 富要第十巻『寿量品談義』

日蓮は同時に他宗の批判をつづけた。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と。

念仏無間とは、念仏を唱える者は無間地獄に堕ちるということである。念仏は当時、国教となるほどの勢いだった。日蓮は念仏を中心に破折してまわった。念仏者も日蓮が一人なのを(あなど)って攻撃したが、日蓮は釈迦の教義を盾に反撃する。法論で日蓮にかなう者はいなかった。

ちなみに念仏宗(浄土真宗)禅宗(曹洞宗)真言宗は現代にまで伝わっている。これに日蓮宗をくわえた四つの宗派が現代まで生きのこった。つまり鎌倉時代に生まれた宗派がそのまま現代まで生きのびたのである。鎌倉時代から戦国の世があり、明治維新があり、昭和の敗戦があったが、この四つの宗派は変わらず、自覚、無自覚にかかわらず日本人の精神構造の基調となっている。

また天平勝宝六年(754年)に唐僧・(がん)(じん)によりもたらされた律宗は、戒壇を設けて衆生が得度するために授戒させるだけだったので早くすたれた。これにかわって登場したのが十戒を説くキリスト教である。しかし三世を説かず、因果応報も説かない、いわば外道のキリスト教は、仏教国日本ではほとんど普及していない。ちなみに現在、日本でのキリスト教信徒の人口比率はわずか1.5%程度である。また仏教の発祥地インドは英国の植民地になったが、この国も三世の輪廻(りんね)、因果応報を説くヒンドゥー教が民衆に浸透しており、キリスト教はほとんど普及しなかった。インドの宗派別の信徒人口比は、ヒンズー教約80%、イスラム教13%、キリスト教約2%、仏教は1%未満である。

また、かつての仏教国、中国でもキリスト教は広まらなかった。現代中国の宗派別の信徒人口比は、民間信仰80%弱(道教)、イスラム教2%未満、キリスト教2%強、仏教13%弱、 無宗教12%強である。


法然がおこした念仏はこの時代大流行した。日蓮が生まれる十年前に法然は亡くなっているが、法然の教えは鎌倉時代の人々にとって生々しく息づいていた。

日蓮は念仏を邪宗の最たるものとして、根底から破折(はしゃく)している。念仏宗を批判するということは、その源の開祖法然を批判することだった。

念仏宗は現在にまで生きのこっているものの、だれも創始者である法然を評価しない。理由は日蓮が法然の教義がいかに経文からはずれているかを解明したからである。

法然の主張はこうである。

浄土三部経以外は、凡夫にとって悟りがたい教えであるから、すべて破却せよ。したがって法華経、華厳経、金剛頂経など、釈尊が説いた一切経を全て捨てよ、閉じよ、(さしお)き、(なげう)、とした。いわゆる「捨閉(しゃへい)閣抛(かくほう)」である。

法然は「末法に入ると釈迦の説いた白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)せん」という釈迦の金言を自己流に解釈した。

大集経(15月蔵)にこう説かれている。

「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂(いわゆる)我が滅度の後の五百歳の中には解脱(げだつ)堅固(けんご)、次の五百年には禅定(ぜんじょう)堅固已上一千年、次の五百年には読誦(どくじゅ)多聞(たもん)堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に(おい)闘諍(とうじょう)言訟(ごんしょう)して白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)せん」

この経文が末法思想の根拠となった。

日蓮も他宗を批判し、末法の衆生が成仏する法は法華経にしかないことを解明したが、自身の著作では法華経以外の諸経もふんだんに引用して釈尊の一切経の価値を認めている。日蓮は法華経を究極の極説と位置づけ、その上で他の一切経を生かしたのだった。

また法然は浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)以外を聖道門といった。三部経以外は機根のすぐれた人のための教えであって、末法の凡夫にはわからない、したがって成仏できない、という論法で南無阿弥陀仏の名号をとなえれば来世で成仏できるとした。そしてこれを()(ぎょう)門といった。

法然はいう。

阿弥陀如来は現実の世界にはいない。死後に他方の国土にいる阿弥陀にめぐり会うことができる。成仏は来世を待つしかない。しかしこの論理は現世の否定につながる言葉である。

われわれは苦しい日常のくらしの中でも、希望とか可能性といったものを根底に求めている。それは本能と言ってもよい。法然はこういった人間本来の情念に(ふた)をしたこのいきつくところは現実逃避であり、絶望しかのこされていない。それゆえ日蓮は念仏を無間地獄といった。

地獄とは来世の話ではない。希望とか可能性を否定すれば、のこるのは苦しみしかない。

このように日蓮は法然の邪義を暴いたが、日蓮に反目する念仏者も法然の教義を調べていくうちに、あまりにも論理に整合性がないことを知った。念仏は勢いだけでひろまっていたが、日蓮に一切経の文証から攻められると全く反駁(はんぱく)できなかったのである。

したがって現代では法然を評価する者はいない。いても彼の著作である「撰択(せんちゃく)集」の内容を讃える者などいない。

 法然は第四十八世天台座主(ざす)・行玄を戒師として授戒を受けた。当然法華経、天台教学は学んでいる。しかし彼は法華経の神髄を習得できなかったと思われる。

 「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」とは自分でもわからなかった法華経を衆生がわかるはずがないと決めつけた法然の居直りでしかない。法華経はそのまま読むと確かに理解しがたい場面がいくつも出現する。例えば地から()き出る宝塔。その宝塔に空中に浮遊して並ぶ多宝如来と釈迦仏の虚空(こくう)()の儀式。釈迦滅後の弘通(ぐつう)(にな)う何千億人もの地涌(じゆ)の出現。その場に居合わせた弥勒(みろく)菩薩さえその現象に「世尊はいつこれらの菩薩を化導したのか」と動執生(どうしゅうしょう)()を引き起こすなど、常人の理解を越える場面がいくつも出現する。この現象の解明に自らの無力さを感じた法然は居直った末に、衆生というより(おのれ)自身が理解可能な、わずか1878字の仏説阿弥陀経に(すが)りつくしか方途が見いだせなかった。

 阿弥陀経に書かれている論理はきわめて単純である。

 要約すると「西方、十万億もの仏国土を過ぎると極楽いう名の仏国土がある。そこに阿弥陀と号する仏がいる。その国の民衆は、苦しみを受けず、楽しみだけを受ける。故に、その仏国土を極楽と名づける。そこには三悪道は存在しない。もし、善男子・善女人が阿弥陀の名号を聞き一心不乱に念じるなら、臨終の時、弥陀仏が現れ極楽国土に往生できる。だからこの経を聞いた民衆は、この仏国土に生まれようと願うべきなのだ」

 これで分かるように阿弥陀経には釈尊の悟りの内証は一言も説かれていない。またなぜ阿弥陀の名号を念じたら極楽国土に往生できるか、その根拠は希薄である。

この阿弥陀経は智慧第一の舎利(しゃり)(ほつ)を対告衆として説かれているが、舎利弗は法華経方便品の対告衆でもある。その法華経の説法の場では舎利弗が釈尊に三度教えを請いて、はじめて釈尊は自ら娑婆(しゃば)世界に出現した『一大事因縁』を説き始める。つまり衆生をして「仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめらん」と欲する故にこの娑婆世界に出現したと、(じん)(じん)の内証を解き明かしている。

 日蓮は法華経と法華経以前に説かれた()(ぜん)の勝劣について「蒙古使御書」で明に解き明かしている。


所詮(しょせん)、万法は己心に収まりて(いち)(じん)もかけず、九山、八海も我が身に備わりて、日月衆星も己心にあり。(しか)りといへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず、(みどり)()の水火を怖れざるが如し。外典(げてん)外道(げどう)、内典の小乗・権大乗等は、皆己心の法を片端(かたはし)片端説きて候なり。然りといへども法華経の如く説かず。然れば経経に勝劣あり、人人にも聖賢分れて候ぞ。法門多多なれば(とど)め候い(おわ)んぬ」


 つまり、己心の法の一部分、一部分を説く内外の経典に依存する法然は、鏡に浮ぶ自身の影が見えない盲人であり、水火を恐れない嬰児(みどりご)の様なものだと示している。

このため法然なきあと、法然の教義を改変し一切経を捨てることをやめ、諸行往生をとなえる者がでてきた。世の批判をかわすために他の経も認めようという。だが本心は念仏の一行しかない。

法然を師として学んだ親鸞はこの代表者である。

親鸞を理解するには「歎異抄(たんにしょう)」を読むのがわかりやすい「歎異抄」は親鸞の直弟子、唯円が親鸞の言葉を書き留めたものと、親鸞滅後、教団内に生じた種々の異説を嘆いたものである。

「歎異抄」の内容をみてみよう。

まずは可能性の否定である。親鸞は師法然の教えをよく引きついでいる。

()()()()()()()()「この真言の即身成仏というも、法華の六根清浄というも、これはみな難行のみちであって、根機のすぐれた聖者であってはじめて修することもでき、観念を()らしてはじめて成就される覚悟(さとり)である。これに反して、来世に正覚(さとり)をひらくというのが、他力仏門の浄土真宗の宗旨である。もと、信心さえいただけば、かならず往生して、ただちに仏になれるようにしてくだされた大道である。これは、いかにも行じ安い道で、どんなおろかな根機のものにもできるつとめであり、善人も悪人も(えら)ばず、すべてを救いたもう御法(みのり)である。このように真言や法華の教義と浄土真宗の教義はちがっているのであるから、浄土真宗の流をくみながら、現身(このみ)でさとるというようなことは、まったく法門をとりちがえた主張であることを知らねばならぬ。」 梅原真隆訳

 親鸞は現世をあきらめ、来世に賭けよという。親鸞を信じれば現世は無意味である。
こんな考えをいだく現代人はいない。だが今でも自殺者があとを絶たないのは、この世から逃避しようという念仏の教えからきているのではないか。日本の十万人あたりの自殺率は18.5人で世界第17位、G8で1位である。困難な時、苦しい時に無気力となり、自分の命を断ってしまう。親鸞は麻薬よりも危険ではないか。中国念仏宗の祖である善導が柳の木で首をくくったこともうなずける。善導はこの世が苦しみに満ちているとして命を絶った。

 日蓮は善導和尚の自害について次のように記している。

 「三世諸仏の大怨敵(おんてき)と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の(とが)甚重(じんじゅう)し大罪報の至り無間大城の業因(ごういん)なり、之に依つて(たちまち)に物狂いにや成けん。所居の寺の前の柳の木に登りて自ら(くび)をくくりて身を投げ死し(おわ)んぬ。邪法のたたり(きびす)を回さず、冥罰(みょうばつ)(ここ)に見たり。

 最後臨終の言に云く『此の身(いと)う可し諸苦に責められ(しばら)くも休息無し』と。即ち所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて曰く仏の威神以て我を取り、観音(かんのん)勢至(せいし)(きた)つて又我を(たす)けたまえと唱え(おわ)つて青柳の上より身を投げて自絶す云云。三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん、柳の枝や折れけん大旱魃(かんばつ)(かた)(つち)の上に落て腰骨を打折て、二十四日に至るまで七日七夜の(あいだ)悶絶(もんぜつ)(びゃく)()しておめきさけびて死し(おわん)ぬ」念仏無間地獄抄


親鸞の四百年ほど前に生まれた伝教大師最澄はいう。

不正義の一切学人は信受すべからず。所以(ゆえん)(いかん)。其の師の()つる所弟子も亦堕ち、檀那(だんな)も墮つ、金口の明説、何ぞ(つつし)まざるべけんや、慎まざるべけんや。『守護国界章』(「一代五時図」所収)

「師の堕つる所弟子も亦堕つ」の言葉どおりである。法然・親鸞の師弟がこの数百年、いかに日本人を頽廃させたかがわかる。

                              日蓮、鎌倉で弘教を開始 二 につづく
上巻目次



不軽菩薩

法華経常不軽品に説かれる菩薩。常不軽菩薩ともいう。威音(いおん)王仏(のうぶつ)の滅後、像法時代に出現し、一切衆生に仏性があるとして二十四字の法華経を説いて衆生を礼拝し、軽んじなかったので不軽菩薩という。人々は不軽を軽蔑し(じょう)(もく)()(しゃく)で迫害したが、不軽は礼拝行をやめなかった。この時、不軽を軽んじた人は、一度は地獄に堕ちたが、法華経を聞いた縁によって救われた。釈迦はこの不軽菩薩の修行を通じて、滅後の弘教の法軌と逆縁の功徳を説いている。

 日蓮大聖人は、末法で妙法蓮華経を唱える日蓮等の(たぐい)は不軽菩薩であると説いた。

「第十 (もん)()所説(かい)信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)の事

御義(おんぎ)口伝(くでん)に云く、(もん)とは(みょう)()(そく)なり、所詮(しょせん)而強(のごう)毒之(どくし)の題目なり、(かい)とは上慢(じょうまん)の四衆等なり、信とは無疑(むぎ)(わっ)(しん)なり、伏とは法華に帰伏(きぶく)するなり、(ずい)とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」 常不軽品三十箇の大事()()()()()


日寛

寛文五年(一六六五)~享保十一年(一七二六)。字は覚真。上州(群馬県)前橋の城主・酒井雅樂守の家臣伊藤浄円の子として生まれる。
 十八歳の時、下谷の常在寺で日精の説法を聞いて出家を決意。出家後は日永のもとで修業に励み、元禄二年(一六八九)に名を日寛とあらためた。正徳元年(一七一一)第六代の学頭となる。この間、日蓮の正義を宣揚し、宗門の興隆に尽力した。主な著作に御書五大部の文段六巻抄がある。享保三年(一七一八)、第二十五世日宥から血脈の付属をうけ、大石寺貫首(かんず)なる。第九世の日有とともに中興の祖といわれる。


本未有善

 衆生の機根には、「本已(ほんい)()(ぜん)」「(ほん)()()(ぜん)」の二種があり、本已有善(もとよりすでに善有り)とは、すでに善根を有する機根をいい、本未有善(もとより、いまだ善有らず)とは、いまだ善根を有さない機根をいう。「善」とは、仏になるための種を意味し、末法の衆生はこの種がないため、妙法蓮華経という種を下種される必要がある。末法の()(どう)方法である折伏(しゃくぶく)は、妙法蓮華経の種を本未有善の末法衆生に下種する意義をもつ。




by johsei1129 | 2017-03-11 19:31 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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