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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 14日

御本尊は我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはすと説いた【日女御前御返事】

【日女御前御返事(本尊相貌抄)】  
英語版
■出筆時期:弘安二年(西暦1279年) 八月二十三日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:池上宗仲の妻で強信徒であった日女御前に宛てられた御書。おそらくこの頃、大聖人は日女御前に本尊をご下付なされたものと思われる。それに対し日女御前がご供養の品々を送られ、大聖人はそのお礼とともに、ご下付された御本尊は「仏(釈尊)滅後二千二百二十余年未曾有の大曼荼羅である」と説くとともに、ご図現された御本尊の相貌(そうみょう)の意味について詳細にしるされている。また「この御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはします」とご自身の法門の深い内証を解き明かされている。
■ご真筆: 現存しない。

[日女御前御返事(本尊相貌抄)] 本文

 御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子・其の数送り給び候い畢んぬ。
 抑(そもそも)此の御本尊は在世五十年の中には八年、八年の間にも(妙法華経)涌出品より属累品まで八品に顕はれ給うなり。さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年にはいまだ本門の本尊と申す名だにもなし。何に況んや顕はれ給はんをや、又顕すべき人なし。天台・妙楽・伝教等は内には鑒(かんが)み給へども・故こそあるらめ、言(ことば)には出だし給はず。彼の顔淵(がんえん)が聞きし事、意(こころ)にはさとるといへども言(ことば)に顕はしていはざるが如し。然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始めの五百年に出現せさせ給ふべき由・経文赫赫(かくかく)たり明明たり。天台・妙楽等の解釈分明(ふんみょう)なり。

 爰(ここ)に日蓮・いかなる不思議にてや候らん、竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比(ころ)・はじめて法華弘通のはた(旌))じるしとして顕はし奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中(たっちゅう)の大牟尼世尊・分身の諸仏・す(摺)りかたぎ(形木)たたる本尊なり。
 されば首題の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅、其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、総じて大小の神祇等・体(たい)の神つらなる。其の余の用(ゆう)の神・豈(あに)もるべきや。宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云。
 此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い・妙法五字の光明にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。是を本尊とは申すなり。経に云く「諸法実相」是なり。妙楽云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。又云く「実相の深理・本有(ほんぬ)の妙法蓮華経」等と云云。伝教大師云く「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)。自受用身とは出尊形(しゅっそんぎょう)の仏」文。
 此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり。仏・滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。

 かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸(さいわい)をまねぎ・後生には此の御本尊・左右前後に立ちそひて闇に燈(ともしび)の如く、険難の処に強力(ごうりき)を得たるが如く、彼(かし)こへまはり・此(ここ)へより、日女御前をかこみ・まほり給うべきなり。相構え相構えて・とわり(遊女)を我が家へよせたくもなき様に、謗法の者をせ(防)かせ給うべし。「悪知識を捨てて善友に親近せよ」とは是なり。

 此の御本尊・全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界・一界もかけず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云うは天竺の名なり。此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり。
 此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもし・たのもし。如何(いか)にも後生をたし(嗜)なみ給ふべし・たしなみ給ふべし。穴賢。

 南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事・尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり、仏法の根本は信を以て源とす。されば止観の四に云く「仏法は海の如し。唯信のみ能く入る」と。弘決の四に云く「仏法は海の如し・唯信のみ能く入るとは孔丘(こうきゅう)の言(ことば)・尚信を首(はじめ)と為す。況んや仏法の深理をや。信無くして寧ろ入らんや。故に華厳に信を道の元・功徳の母と為す」等。又止の一に云く「何(いかん)が円の法を聞き・円の信を起し・円の行を立て・円の位に住せん」弘の一に云く「円信と言うは理に依つて信を起す。信を行の本と為す」云云。外典に云く「漢王・臣の説を信ぜしかば河上の波・忽ちに冰(こお)り、李広・父の讎(あだ)を思いしかば草中の石・羽を飲む」と云えり。
 所詮・天台妙楽の釈分明(ふんみょう)に信を以て本とせり。彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波(たつなみ)こほり行くぞかし。石に矢のたつ・是れ又父のかたきと思いし至信の故なり。何に況んや仏法においてをや。法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる、即ち五種の修行を具足するなり。此の事・伝教大師入唐して道邃和尚(どうずいわじょう)に値い奉りて五種頓修(とんしゅう)の妙行と云う事を相伝し給ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要・是より外(ほか)に求る事なかれ。神力品に云く。委しくは又又申す可く候、穴賢穴賢。

 弘安二年八月二十三日     日蓮 花押

 日女御前御返事




by johsei1129 | 2019-11-14 20:10 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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