2019年 10月 21日
【小乗大乗分別抄】 ■出筆時期:文永十年(西暦1273年)五十二歳 御作。下総の強信徒・富木常忍に与えられた書。 ■出筆場所:佐渡ヶ島 一の谷。 ■出筆の経緯:釈尊の一代聖教を小乗と大乗に区分し、その優劣について詳細に説き「寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節・当分の得道共に有名無実なり」と断じ、法華経・寿量品こそ大乗のなかの大乗の教であることを解き明かしている。 ■ご真筆: 小湊 誕生寺、他20ヶ処に分散して所蔵されている。 [小乗大乗分別抄 本文] [小乗大乗分別抄 ご真筆:小湊 誕生寺、他分散所蔵] 夫れ小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云い、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云う。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う。「大法東漸・通指仏教・以為大法等」と釈する是なり。 仏教に入つても鹿苑(ろくおん)十二年の説・四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり。又諸大乗経には大乗の中にとりて劣る教を小乗と云う。華厳の大乗経に「其余楽小法(ごよ・ぎょうしょうほう)」と申す文あり。天台大師はこの小法というは常の小乗経にはあらず、十地の大法に対して十住・十行・十回向(えこう)の大法を下して小法と名くと釈し給へり。又法華経第一の巻・方便品に「若し小乗を以て乃至一人をも化す」と申す文あり。 天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教・方等般若の通別の大乗をも小乗と定め給う。又玄義の第一に「小を会して大に帰す。是れ漸頓泯合(ぜんとん・みんごう)」と申す釈をば、智証大師は初め華厳経より終り般若経にいたるまで四教八教の権教・諸大乗経を漸頓と釈す。泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそ・ことはられて候へ。 又法華経の寿量品に「楽於小法(ぎょうお・しょうぼう)・徳薄垢重者(とくはく・くじゅうしゃ)」と申す文あり。天台大師は此の経文に小法と云うは小乗経にもあらず、又諸大乗経にもあらず、久遠実成(くおんじつじょう)を説かざる華厳経の円・乃至方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身(ほっしん)・報身・毘盧遮那(びるしゃな)・盧舎那(るしゃな)・大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ。 此の心ならば涅槃経・大日経等の一切の大小・権実・顕密の諸経は皆小乗経。八宗の中には倶舎(くしゃ)宗・成実(じょうじつ)宗・律宗を小乗と云うのみならず、華厳宗・法相(ほっそう)宗・三論宗・真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として唯天台の一宗計り実大乗宗なるべし。彼彼の大乗宗の所依(しょえ)の経経には絶えて二乗作仏(にじょうさぶつ)・久遠実成の最大の法をとかせ給はず。譬えば一尺二尺の石を持つ者をば大力といはず、一丈二丈の石を持つを大力と云うが如し。華厳経の法界円融四十一位・般若経の混同無二・十八空乾慧地(けんねんじ)等の十地・瓔珞(ようらく)経の五十二位・仁王経の五十一位・薬師経の十二の大願・雙観経の四十八願・大日経の真言印契等、此等は小乗経に対すれば大法・秘法なり。法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば小乗の法なり。一尺二尺を一丈二丈に対するが如し。 又二乗作仏・久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇たりと云へども・法華経の中にてはいまだ奇妙ならず。一念三千と申す法門こそ奇が中の奇、妙が中の妙にて華厳・大日経等に分絶えたるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師、名をだにもしらず。天竺の大論師・竜樹菩薩・天親菩薩は内には珠(たま)を含み、外には書きあらはし給はざりし法門なり。雨衆(うす)が三徳・米斉(べいさい)が六句の先仏の教を盗みとれる様に、華厳宗の澄観・真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取つて我が所依の経の「心仏及衆生」の文の心とし、心実相と申す文の神(たましい)とせるなり。かくのごとく盗み取つて我が宗の規模となせるが、又還つて天台宗を下し、華厳宗・真言宗には劣れる法なりと申す。此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし。此等をよくよく尋ね明むべし。 又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人人の云く、法華経は但二乗作仏・久遠実成計りなり等云云。 今反詰して云く、汝等が承伏に付いて但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎつて諸経になくば、此れなりとも豈(あに)奇が中の奇にあらずや。二乗作仏・諸経になくば、仏の御弟子・頭陀(ずだ)第一の迦葉・智慧第一の舎利弗・神通第一の目連等の十大弟子・千二百の羅漢・万二千の声聞・無数億の二乗界、過去遠遠劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値いたてまつらずば、永く色心倶に滅して永不成仏(ようふじょうぶつ)の者となるべし。豈大なる失(とが)にあらずや。又二乗界、仏にならずば迦葉等を供養せし梵天・帝釈・四衆・八部・比丘・比丘尼等の二界・八番の衆はいかんがあるべき。又久遠実成が此の経に限らずんば三世の諸仏、無常遷滅の法に堕しなん。譬えば天に諸星ありとも・日月ましまさずんばいかんがせん。地に草木ありとも大地なくばいかんがせん。是は汝が承伏に付いての義なり。 実をもつて勘へ申さば二乗作仏なきならば九界の衆生・仏になるべからず。法華経の心は法爾(ほうに)のことはり(理)として一切衆生に十界を具足せり。譬えば人・一人(ひと・ひとり)は必ず四大を以てつくれり。一大かけなば人にあらじ。一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり。二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず。又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界仏になるべからず。譬えば父母ともに持ちたる者、兄弟九人あらんか。二人は凡下の者と定められば余の七人も必ず凡下の者となるべし。仏と経とは父母の如し。九界の衆生は実子なり。声聞・縁覚の二人・永不成仏の者となるならば、菩薩・六凡の七人あに得道をゆるさるべきや。「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾子なり。乃至・唯我一人のみ能く救護を為す」の文をもつて知るべし。 又菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす。第一・衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず。前四味の諸経にては菩薩・凡夫は仏になるべし、二乗は永く仏になるべからず等云云。而るを・かしこげなる菩薩も・はかなげ(痴)なる六凡も共に思へり、我等仏になるべし、二乗は仏にならざればかしこくして彼の道には入(いら)ざりけると思ふ。二乗はなげきを・いだ(懐)き・此の道には入るまじかりし者をと恐れかなしみしが、今法華経にして二乗を仏になし給へる時、二乗・仏になるのみならず、かの九界の成仏をも・ときあらはし給へり。諸の菩薩・此の法門を聞いて思はく、我等が思ひは・はかなかりけり。爾前の経経にして二乗・仏にならずば我等もなるまじかりける者なり。二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり。我等も同じなげきにて・ありけりと心うるなり。 又寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに、爾前には久遠実成なきのみならず、仏は天下第一の大妄語の人なるべし。爾前の大乗第一たる華厳経・大日経等に始めて正覚を成じ、我昔道場に坐す等云云。真実甚深・正直捨方便の無量義経と法華経の迹門には我先に道場にして、我始め道場に坐すと説れたり。此等の経文は寿量品の「然るに我実に成仏してより已来(このかた)無量無辺なり」の文より思い見れば、あに大妄語にあらずや。仏の一身すでに大妄語の身なり。一身に備えたる六根の諸法、あに実(まこと)なるべきや。大冰の上に造れる諸舎(いえ)は春をむかへては破れざるべしや、水中の満月は実に体ありや。爾前の成仏往生等は水中の星月の如し、爾前の成仏往生等は体に随ふ影の如し。本門寿量品をもつて見れば寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節(かせつ)・当分の得道、共に有名無実なり。天台大師・此の法門を道場にして独り覚知し、玄義十巻・文句十巻・止観十巻等かきつけ給うに、諸経に二乗作仏・久遠実成、絶えてなき由を書きをき給ふ。是は南北の十師が教相に迷つて三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・一音・半満・三教四教等を立てて教の浅深勝劣に迷いし、此等の非義を破らんが為にまず眼前たる二乗作仏・久遠実成をもつて諸経の勝劣を定め給いしなり。然りと云つて余界の得道をゆるすにはあらず。其の後、華厳宗の五教・法相宗の三時・真言宗の顕密・五蔵・十住心・義釈の四句等は、南三北七の十師の義よりも尚誤れる教相なり。 此等は他師の事なれば・さてをきぬ。又自宗の学者が天台・妙楽・伝教大師の御釈に迷うて、爾前の経経には二乗作仏・久遠実成計りこそ無けれども、余界の得道は有りなんど申す人人・一人二人ならず日本国に弘まれり。他宗の人人・是に便(たより)を得て弥(いよいよ)天台宗を失ふ。此等の学者は譬えば野馬(とんぼ)の蜘蛛の網にかかり、渇(かわけ)る鹿の陽炎(かげろう)をおふよりもはかなし。例せば頼朝の右大将家は泰衡(やすひら)を討たんが為に・泰衡を誑(たぼらか)して義経を討たせ、太政入道清盛は源氏を喪(ほろぼ)して世をとらんが為に・我が伯父(おじ)平馬介忠正を切る。義朝はたぼらかされて慈父・為義を切るが如し。此等は墓なき人人のためしなり。天台大師・法華経より外の経経には二乗作仏・久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば、菩薩の作仏・凡夫の往生はあるなんめりとうち思いて、我等は二乗にも・あらざれば爾前の経経にても得道なるべし、此の念(おも)い心中にさしはさめり。其の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば、法華経をばなげすて念仏申して浄土に生れて観音・勢至・阿弥陀仏に値いたてまつて成仏を遂ぐべし云云。当世の天台宗の人人を始めとして諸宗の学者皆此くの如し。 実義をもつて申さば一切衆生の成仏のみならず、六道を出で・十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり。例せば日本国の人、唐土の内裏(だいり)に入らん事は必ず日本の国王の勅定によるべきが如し。穢土を離れて浄土に入る事は、必ず法華経の力なるべし。例せば民の女(むすめ)・乃至関白大臣の女(むすめ)に至るまで大王の種を下せば其の産(うめ)る子・王となりぬ。大王の女なれども臣下の種を懐姙せば其の子・王とならざるが如し。十方の浄土に生るる者は、三乗・人天・畜生等までも皆王の種姓と成つて生るべし。皆仏となるべきが故なり。 阿含経は民の女(むすめ)の民を夫(おとこ)とし、華厳・方等・般若等は臣の女(むすめ)の臣を夫とせるが如し。又華厳経・方等・般若・大日経等の円教の菩薩等は大王の女の臣下を夫とせるが如し。皆浄土に生るべき法にはあらず。又華厳・阿含・方等・般若等の経経の間に六道を出づる人あり。是は彼彼の経経の力には非ず。過去に法華経の種を殖えたりし人、現在に法華経を待たずして機すすむ故に・爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得(ほっとく)して成仏往生をとぐるなり。例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し孝養父母の者の梵天に生るるが如し。飛花落葉・孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねども、かれを縁として過去の修因を引きおこし彼の天に生じ・独覚の菩提を証す。而るに尚過去に小乗の三賢・四善根にも入らず、有漏の禅定をも修せざる者は、月を観じ・花を詠じ・孝養父母の善を修すれども独覚ともならず・色天にも生ぜず。 過去に法華経の種を殖えざる人は華厳経の席に侍(はべ)りしかども初地・初住にものぼらず、鹿苑説教の砌(みぎり)にても見思をも断ぜず、観経等にても九品の往生をもとげず。但大小の賢位のみに入つて・聖位には・のぼらずして・法華経に来つて始めて仏種を心田に下して一生に初地・初住等に登る者もあり。又涅槃の座へさがり乃至・滅後・未来までゆく人もあり。 過去に法華経の種を殖えたる人人は結縁の厚薄に随つて華厳経を縁として初地初住に登る人もあり。阿含経を縁として見思を断じて二乗と成る者もあり。観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり。方等・般若も此れをもつて知んぬべし。此等は彼彼の経経の力にはあらず偏に法華経の力なり。譬えば民の女(むすめ)に王の種を下(くだ)せるを人・しらずして民の子と思ひ、大臣等の女に王の種を下せるを人しらずして臣下の子と思へども、大王より是を尋ぬれば皆王種となるべし。 爾前にして界外へ至る人を法華経より之を尋ぬれば・皆法華経の得道なるべし。又過去に法華経の種を殖えたる人の根・鈍(どん)にして爾前の経経に発得せざる人人は、法華経にいたりて得道なる。是は爾前の経経をば・めのと(乳母)として・きさき腹の太子・王子と云うが如くなるべし。又仏の滅後にも正法一千年が間は在世の如くこそなけれども、過去に法華経の種を殖えて法華・涅槃経にて覚りをとぐる者もありぬ。現在・在世にて種を下せる人人も是多し。 又滅後なれども現に法華経ましませば外道の法より小乗経にうつり、小乗経より権大乗にうつり、権大乗より法華経にうつる人人・数をしらず。竜樹菩薩・無著菩薩・世親論師等是なり。像法一千年には正法のほどこそ無けれども、又過去・現在に法華経の種を殖えたる人人も少少之有り。而るを漸漸(ぜんぜん)に仏法澆薄(ぎょうはく)になる程に・宗宗も偏執(へんしゅう)石の如くかたく我慢・山の如く高し。像法の末に成りぬれば仏法によつて諍論(じょうろん)興盛して仏法の合戦ひまなし。世間の罪よりも仏法の失(とが)に依つて無間地獄に堕つる者数をしらず。 今は又末法に入つて二百余歳。過去現在に法華経の種を殖えたりし人人も・やうやくつきはてぬ。又種をうへたる人人は少少あるらめども、世間の大悪人・出生の謗法の者・数をしらず国に充満せり。譬えば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水(まみず)、大地の中の金(こがね)なんどの如く悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く・現在の善業もしるしなし。或は弥陀の名号をもつて人を狂はし、法華経をすてしむれば背上向下のとがあり。或は禅宗を立てて教外と称し、仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起し、或は法相・三論・華厳宗を立てて法華経を下し、或は真言宗大日宗と称して法華経は釈迦如来の顕教にして真言宗に及ばず等云云。而るに自然に法門に迷う者もあり、或は師師に依つて迷う者もあり。或は元祖・論師・人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来たる者もあり。或は悪鬼・天魔の身に入りかはりて悪法を弘めて正法ぞ・と思ふ者もあり。或は・はづかの小乗一途の小法をしりて・大法を行ずる人はしからずと我慢して、我が小法を行ぜんが為に大法秘法の山寺をおさへとる者もあり。 或は慈悲魔と申す魔、身に入つて三衣一鉢を身に帯し、小乗の一法を行ずるやから、はづ(僅)かの小法を持ちて国中の棟梁たる比叡山・竜象の如くなる智者どもを一分・我が教にたがへるを見て、邪見の者・悪人なんどうち思へり。此の悪見をもつて国主をたぼらかし、誑惑(おうわく)して正法の御帰依をうすうなし、かへつて破国・破仏の因縁となせるなり。彼の妹己(ばっき)・妲己(だっき)・褒姒(ほうじ)と申せし后は心もおだやかに・みめかたちも人にすぐれたりき。愚王これを愛して国をほろぼす因縁となす。当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師どもは鳩鴿(いえばと)が糞土を食するが如く、西施が呉王をたぼらかししに似たり。或は我が小乗の臭糞(しゅうふん)・驢乳(ろにゅう)の戒を持ちて・・・<これ以降は欠損している>・・・・。 [小乗大乗分別抄] 完。
by johsei1129
| 2019-10-21 15:31
| 重要法門(十大部除く)
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