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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 21日

法華経を捨てて天台の止観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なる、と断じた書【立正観抄】二

【立正観抄 本文] その二

 問う、天台大師・止観一部並びに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、併(しか)しながら法華経に依ると云う証拠如何。
 答う、予反詰して云く、法華経に依らずと見えたる証文如何。人之を出して云く「此の止観は天台智者・己心中所行の法門を説くなりと」。或は又「故に止観に至つて正く観法を明かす。並に三千を以て指南と為す。乃ち是れ終窮究竟(しゅうぐ・くきょう)の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云えり。良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」
 難じて云く、此の文は全く法華経に依らずと云う文に非ず。既に説己心中所行の法門と云うが故なり。天台の所行の法門は法華経なるが故に、此の意は法華経に依ると見えたる証文なり云々。
 但し他宗に対するの時は問答大綱を存す可きなり。所謂・云う可し、若し天台の止観、法華経に依らずといわば速かに捨つ可きなりと。其の故は天台大師兼ねて約束して云く「修多羅と合せば録して之を用いよ。文無く義無きは信受す可からず云云。伝教大師の秀句下に云く「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」云々。竜樹の大論に云く「修多羅に依るは白論なり、修多羅に依らざるは黒論なり」文。教主釈尊云く「法に依って人に依らざれ」文。天台は法華経に依り・竜樹を高祖にしながら経文に違し・我が言を飜じて外道邪見の法に依つて止観一部を釈する事・全く有る可からざるなり。
 問う、正しく止観は法華経に依ると見えたる文之有りや。
 答う、余りに多きが故に少少之を出さん。止観に云く「漸と不定とは置いて論ぜず。今経に依つて更に円頓を明かさん」云々。弘決に云く「法華経の旨を攅(あつめ)て不思議・十乗・十境・待絶滅絶・寂照の行を成ず」文。
 止観大意に云く「今家の教門は竜樹を以て始祖と為す。慧文は但内観を列ぬるのみ。南岳・天台に及んで復・法華三昧に因って陀羅尼を発し、義門を開拓して観法周備す。若し法華を釈するには弥弥(いよいよ)須く権実本迹を暁了して方(まさ)に行を立つ可し。此の経・独り妙と称することを得。方に此に依つて以て観意を立つ可し。五方便及び十乗軌行と言うは、即ち円頓止観・全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」云々。
 文句の記に云く「観と経と合すれば他の宝を数うるに非ず。方に知んぬ、止観一部は是れ法華三昧の筌罤(せんてい)なり。若し斯の意を得れば方(まさ)に経旨に会(かな)う」云云。唐土の人師・行満の釈せる学天台宗・法門大意に云く「摩訶止観一部の大意は法華三昧の異名を出でず。経に依つて観を修す」云云。此等の文証分明(ふんみょう)なり、誰か之を論ぜん。
 問う、天台四種の釈を作るの時、観心の釈に至つて本迹の釈を捨つと見えたり。又法華経は漸機(ぜんき)の為に之を説き、止観は直達(じきたつ)の機の為に之を説くと如何。
 答う、漸機の為に説けば劣り、頓機の為に説くは勝るとならば、今の天台宗の意は華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云う可きや。今の天台宗の浅猨(あさまし)さは真言は事理倶密の教なる故に法華経に勝れたりと謂(おも)えり。故に止観は法華に勝ると云えるも道理なり・道理なり。

【立正観抄 本文] その三に続く




by johsei1129 | 2019-10-21 18:57 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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