一、論議講説等を好み・自余を交ゆ可からざる事。
※注(自余を交ゆ):先師日蓮大聖人の法門をひたすら談じ、説法すべきで、その際自余(我見)を交えてはならないと諌めておられます。
一、未だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て、随力弘通(ずいりきぐつう)を致す可き事。
大聖人は
松野殿御返事(十四誹謗抄)にて「
然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり。それも経文の如くならば、随力演説も有るべきか」と、説かれておられます。
さらに
椎地四郎殿御書にても「
僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は、如来の使ひと見えたり」と説かれ、随力弘通をご指南なされておられます。
一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も、当如敬仏(とうにょ・きょうぶつ)の道理に任せて信敬(しんぎょう)を致す可き事。
※注(身軽法重):法の流布のためには自身の身はたとえ朽ち果てても構わない、という強い求道の姿勢。(当如敬仏):まさに仏の如くに敬う。
大聖人は
新池御書 で「後世を願はん者は名利名聞を捨てて、何に賎(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是れ正しく経文なり」と説き、信徒に対し、身分の高い低いではなく、正しい法門を説く者こそ如来の如く敬うべだと諭しておられます。
一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。 一、下劣の者為(た)りと雖も我より智勝れたる者をば、仰いで師匠とす可き事。
注:上記三条項は、身分の高低ではなく、優れた法門=妙法蓮華経を説く人こそ敬うべだということを示しておられます。
一、時の貫首(かんず)為りと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用う可からざる事。
一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば、貫首(かんず)之を摧(くじ)く可き事。
※上記二条項は、仏法における「依法不依人=法に依って人に依らざれ」の大原則を示しておられます。
たとえ僧侶・信徒の頂点に立つ時の貫首(管主)と言えど、また多数の者による結論であっても、法門に相違しているならばそれは用いてはならない、と強く戒めておられます。
[日興遺誡置文 本文]その五に続く