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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 05日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 下】十六

[御義口伝 下 本文]その十六

無量義経六箇の大事】
 第一 無量義経 徳行品第一の事

 御義口伝に云く、無量義の三字を本迹・観心(ほんじゃく・かんじん)に配する事、初めの無の字は迹門なり。其の故は理円を面(おもて)とし、不変真如の旨を談ず。迹門は無常の摂属(しょうぞく)なり、常住を談ぜず。但し「是法住法位・世間相常住」と明かせども、是れは理常住にして事常住に非ず、理常住の相を談ずるなり。空は無の義なり。但し此の無は断無の無に非ず、相即の上の空なる処を無と云い、空と云うなり。円の上にて是を沙汰(さた)するなり。本門の事常住・無作(むさ)の三身に対して迹門を無常と云うなり。守護章には「有為(うい)の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前(かくぜん)の実仏」と云云。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作の三身・覚前の実仏なり云云。

 第二 量の字の事

 御義口伝に云く、量の字を本門に配当する事は、量とは権摂(はかりおさむる)の義なり。本門の心は無作三身を談ず。此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず。森羅万法を自受用身(じじゅゆうしん)の自体顕照(じたいけんしょう)と談ずる故に、迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり。是れ即ち桜梅桃李(おうばいとうり)の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり。今日蓮等の類(たぐ)い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云。

 第三 義の字の事

 御義口伝に云く、義とは観心なり。其の故は文は教相、義は観心なり。所説の文字を心地に沙汰するを義と云うなり。就中(なかんずく)無量義は一法より無量の義を出生すと談ず。能生は義、所生は無量なり。是は無量義経の能生・所生なり。法華経と無量義経とを相対する能所に非ざるなり。無相不相・名為実相の理より万法を開出すと云う源が実相なる故に観心と云うなり。此くの如く無量義の三字を迹門・本門・観心に配当する事は、法華の妙法等の題と今の無量義の題と一体不二の序正なりとの相承の心を相伝せむが為なり。

 第四 処の一字の事

 御義口伝に云く、処の一字は法華経なり。三蔵教と通教とは無の字に摂(せっ)し、別教は量の字に摂し、円教は義の字に摂するなり。此の爾前の四教を所生と定め、さて序分の此の経を能生と定めたり。能生を且(しばら)く処と云い、所生を無量義と定めたり。仍つて権教に相対して無量義処を沙汰するなり云云。

 第五 無量義処の事

 御義口伝に云く、法華経八巻は処なり、無量義経は無量義なり。無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり。法華経に於一仏乗・分別説三と説いて法華の為の序分と成るなり。
 爰(ここ)を以て隔別(きゃくべつ)の三諦は無得道、円融の三諦は得道と定むる故に、四十余年未顕真実と破し給えり云云。

 第六 無量義経の事

 御義口伝に云く、無量義処とは一念三千なり。十界各各無量に義処(ことわりい)たり。此の当体・其の儘(まま)実相の一理より外は之れ無きを諸法実相と説かれたり。其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり。処は一念、無量義は三千なり。我等衆生朝夕吐(は)く所の言語も、依正二法共に無量に義処(ことわ)りたり。此れを妙法蓮華経とは云うなり。然る間法華の為の序分開経なり云云。


[御義口伝 下 本文]その十七に続く






by johsei1129 | 2019-11-05 20:58 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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