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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 04日

末法の本仏の立場で法華経一部二十八品を直弟子日興上人に口伝した書【御義口伝 上】三

[御義口伝 上 本文]その三

方便品八箇の大事】
  第一 方便品の事  文句の三に云く「方とは秘なり。便とは妙なり。妙・方に達するに即ち是真の秘なり。内衣裏(ないえり)の無価(むげ)の珠を点ずるに、王の頂上の唯一珠有ると二無く・別無し。客作(かくさ)の人を指すに、是長者の子にして亦二無く別無し。此の如きの言は是秘・是妙なり。経の唯我知是相・十方仏亦然(じゅっぽうぶつやくねん)・止止不須説(ししふしゅせつ)・我法妙難思の如し。故に秘を以て方を釈し、妙を以て便を釈す。正しく是れ今の品の意なり。故に方便品と言うなり」
 記の三に云く「第三に秘妙に約して釈するとは、妙を以ての故に即なり。前四時に通ぜしめんと欲する為に円を以て即と為し、三を不即と為す。故に更に不即に対して以て即を釈す」。

 御義口伝に云く、此の釈の中に一珠とは衣裏珠(えりしゅ)、即ち頂上珠なり。客作の人と長者の子と全く不同之無し。所詮謗法不信の人は体外の権にして法用・能通(ほうゆう・のうつう)の二種の方便なり。爰を以て無二無別に非ざるなり。
 今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉るは是(これ)秘妙方便にして体内なり。故に妙法蓮華経と題して次に方便品と云えり。妙楽の記の三の釈に「本疏(ほんじょ)の即是真秘の即を以円為即(いえんいそく)と消釈せり」即は円なれば法華経の別名なり、即とは凡夫即極・諸法実相の仏なり。円とは一念三千なり。即と円と言(ことば)は替はれども妙の別名なり。一切衆生実相の仏なれば妙なり・不思議なり。謗法の人・今之を知らざる故に之を秘と云う。
 又云く、法界三千を秘妙とは云うなり。秘とはきびしきなり、三千羅列なり。是より外に不思議之無し。大謗法の人たりと云うとも、妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり。今末法に入つて正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るゝを妙法蓮華経方便品とは云うなり。是を即身成仏とも如是本末究竟等とも説く。
 又方便とは十界の事なり、又は無明なり。妙法蓮華経は十界の頂上なり、又は法性なり、煩悩即菩提・生死即涅槃是なり。以円為即とは一念三千なり。妙と即とは同じ物なり。一字の一念三千と云う事は、円と妙とを云うなり。円とは諸法実相なり。円とは釈に云く「円を円融円満に名く」と。円融は迹門、円満は本門なり。又は止観の二法なり。又は我等が色心の二法なり。一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり。口は一念なり・員(かず)は三千なり。一念三千とは不思議と云う事なり。
 此の妙は前三教に未だ之を説かず、故に秘と云うなり。故に知んぬ、南無妙法蓮華経は一心の方便なり。妙法蓮華経は九識なり、十界は八識已下なり。心を留めて之を案ず可し。方とは即十方、十方は即十界なり、便とは不思議と云う事なり云云。

 第二 諸仏智慧 甚深無量 其智慧門の事  文句の三に云く「先ず実を歎じ・次に権を歎ず。実とは諸仏の智慧なり。三種の化他の権実に非ず、故に諸仏と云う。自行の実を顕す故に智慧と言う。此の智慧の体・即ち一心の三智なり。甚深無量とは即ち称歎の辞なり。仏の実智の・竪(たて)に如理の底に徹することを明かす故に甚深と言う、横に法界の辺を窮む、故に無量と言う。無量甚深にして竪に高く横に広し、譬えば根深ければ則ち条茂(えだ・しげ)く、源遠ければ則ち流れ長きが如し。実智既に然り、権智例して爾り云云。其智慧門は即ち是れ権智を歎ずるなり。
 蓋(けだ)し是れ自行の道前(どうぜん)の方便・進趣の力有り、故に名けて門と為す。門より入つて道中に到る。道中を実と称し、道前を権と謂(い)うなり。難解難入とは権を歎ずるの辞なり。不謀(ふもう)にして了し、無方の大用あり。七種の方便・測度(しきたく)すること能わず。十住に始めて解す、十地を入と為す、初と後とを挙ぐ、中間の難示難悟は知る可し。而るに別して声聞縁覚の所不能知を挙ぐることは執重きが故に別して之を破するのみ」
 記の三に云く「竪高横広(じゅうこう・おうこう)とは中に於て法(ほっ)・譬(ぴ)・合あり、此れを以て後を例す。今・実を釈するに既に周く横竪(おうじゅ)を窮めたり、下に権を釈するに理深極なるべし。下に当に権を釈すべし。予(あらかじ)め其の相を述す、故に云云と註す。其智慧門とは、其とは乃ち前の実果の因智を指す。若し智慧即門ならば門は是れ権なり、若し智慧の門ならば智即ち果なり。蓋し是等とは此の中に須(すべから)く十地を以て道前と為し、妙覚を道中と為し、証後を道後と為すべし。故に知んぬ文の意は因の位に在り」と。

  御義口伝に云く、此の本末の意分明(ふんみょう)なり。中に竪に高く・横に広しとは、竪は本門なり・横は迹門なり。根とは草木なり・草木は上へ登る、此れは迹門の意なり。源とは本門なり、源は水なり・水は下へくだる、此れは本門の意なり。条茂(えだしげし)とは迹門十四品なり、流(ながれ)長しとは本門十四品なり。
 智慧とは一心の三智なり。門とは此の智慧に入る処の能入の門なり。三智の体とは南無妙法蓮華経なり。門とは信心の事なり。爰を以て第二の巻に以信得入と云う。入と門とは之れ同じきなり。今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧とは云うなり。
 譬喩品に云く「唯有一門」と。門に於て有門・空門・亦有亦空門(やくう・やくくうもん)・非有非空門あるなり。有門は生なり、空門は死なり、亦有亦空門は生死一念なり、非有非空門は生に非ず・死に非ず。
 有門は題目の文字なり。空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこうらざる義なり。亦有亦空門は五字に具足する本迹なり。非有非空門は一部の意なり。
 此の内証は法華已前の二乗の智慧の及ばざる所なり。文句の三に云く「七種の方便測度すること能わず」と。今日蓮等の類いは此の智慧に得入するなり。仍(よっ)て偈頌(げじゅ)に「除諸菩薩衆・信力堅固者」と云うは我等行者の事を説くなり云云。

 第三 唯以一大事因縁の事  文句の四に云く「一は即ち一実相なり。五に非ず・三に非ず・七に非ず・九に非ず、故に一と言うなり、其の性広博(こうはく)にして五三七九より博し。故に名づけて大と為す。諸仏出世の儀式なり。故に名けて事と為す。衆生に此の機有つて仏を感ず。故に名けて因と為す。仏機を承けて而も応ず。故に名けて縁となす。是を出世の本意と為す」。

 御義口伝に云く、一とは法華経なり。大とは華厳なり。事とは中間の三味なり。法華已前にも三諦あれども、砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云。
 又云く、一とは妙なり。大とは法なり。事とは蓮なり。因とは華なり。縁とは経なり云云。
 又云く、我等が頭は妙なり。喉(のど)は法なり。胸は蓮なり。胎(はら)は華なり。足は経なり。此の五尺の身・妙法蓮華経の五字なり此の大事を釈迦如来・四十余年の間、隠密したもうなり。今経の時、説き出だしたもう。此の大事を説かんが為に仏は出世したもう。我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時、即身成仏するなり。
 開とは信心の異名なり。信心を以て妙法を唱え奉らば軈(やが)て開仏知見するなり。
 然る間・信心を開く時、南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり。
 示す時に霊山浄土の住処と悟り・即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり。
 悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり。然る間・信心の開仏知見を以て正意とせり。
 入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり。本門の意は理即本覚と入るなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云。
 又云く、開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり。知見とは妙法の二字、止観の二字、寂照(じゃくしょう)の二徳、生死の二法なり、色心因果なり。
 所詮知見とは妙法なり。九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり。爰(ここ)を以て之を思うに、仏とは九界の衆生の事なり。此の開覚顕はれて・今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり。
 師弟感応して受け取る時、如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり。
 悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり。此の内証に入るを入仏知見と云うなり。秘す可し云云。
 又云く、四仏知見とは八相なり。開とは生の相なり。入とは死の相なり。中間の示悟は六相なり。下天託胎等は示仏知見なり、出家降魔・成道転法輪等は悟仏知見なり。
 権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり。今経の時・生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳(しんとく)と開覚するを四仏知見と云うなり。四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召(おぼしめ)し、世に出現したもうなり。此の開仏知見の法華経を法然は捨閉閣抛(しゃへいかくほう)と云い、弘法大師は第三の劣・戯論(けろん)の法とののしれり。五仏道同の舌をきる者に非ずや。慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて・我が親の頭(こうべ)をきらする者に非ずや云云。
 又云く、一とは中諦、大とは空諦、事とは仮諦なり。此の円融の三諦は何物ぞ。所謂南無妙法蓮華経是なり。此の五字・日蓮出世の本懐なり、之を名けて事と為す。
 日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は「衆生有此機感仏・故名為因」の人なり。夫れが為に法華経の極理を弘めたるは「承機而応・故名為縁」に非ずや。因は下種なり。縁は三五の宿縁に帰するなり。
 事の一念三千は日蓮が身に当りての大事なり。一とは一念、大とは三千なり、此の三千ときたるは事の因縁なり。事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり。国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり。経に云く「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」是なり云云。

 第四 五濁の事  文句の四に云く「劫濁(こうじょく)は別の体無し。劫は是(これ)長時、刹那(せつな)は是短時なり。但四濁に約して此の仮名(けみょう)を立つ。文に劫濁乱時と云ふは即ち此の義なり。衆生濁も亦別の体無し、見慢果報を攬(と)る上に此の仮名を立つ。文に衆生垢重(くじゅう)と云ふは即ち此の義なり。煩悩濁は五鈍使を指て体と為し、見濁は五利使を指て体と為し、命濁は連持する色心を指して体と為す」。

 御義口伝に云く、日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり。
 我此土安穏なれば劫濁に非ず。
 実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず。
 煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず。
 五百塵点劫より無始本有(むしほんぬ)の身なれば命濁に非ざるなり。
 正直捨方便・但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり。
 所詮・南無妙法蓮華経を境として起こる所の五濁なれば、日本国の一切衆生・五濁の正意なり。
 されば文句四に云く「相とは四濁増劇(しじょく・ぞうぎゃく)にして此の時に聚在(じゅざい)せり。瞋恚(しんに)増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚癡増劇にして疾疫起り、三災起こるが故に煩悩・倍(ますます)隆んに諸見転(うた)た熾(さか)んなり」。経に「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」と云うは是なり。法華経不信の者を以て五濁障重の者とす。
 経に云く「五濁の悪世には但所欲に楽著(ぎょうじゃく)せるを以て・是くの如き等の衆生・終に仏道を求めず」云云。仏道とは法華経の別名なり。天台云く「仏道とは別して今経を指す」と。

 第五 比丘比丘尼 有懐(うえ)増上慢 優婆塞(うばそく)我慢 優婆夷(うばい)不信の事  文句の四に云く「上慢と我慢と不信と四衆通じて有り。但し出家の二衆は多く道を修し、禅を得て、謬(あやまっ)て聖果と謂(おも)い偏に上慢を起こす。在俗は矜高(こうこう)にして多く我慢を起こす。女人は智浅くして多く邪僻(じゃへき)を生ず。自ら其の過(とが)を見ずとは三失・心を覆う。疵(きず)を蔵(か)くし、徳を揚げて自ら省みること能(あた)わざるは是れ無慙(むざん)の人なり。若し自ら過(とが)を見れば是れ有羞(ゆしゅう)の僧なり」。
 記の四に云く「疵を蔵くす等とは三失を釈するなり。疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す。自ら省ること能わざるは我慢を釈す。無慙の人とは不信を釈す。若し自ら過(とが)を見るは此の三失無し。未だ果を証せずと雖も且(しば)らく有羞と名く」。

 御義口伝に云く、此の本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり。委くは本末を見る可きなり。
 比丘比丘尼の二人は出家なり、共に増上慢と名く。疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚ぐるを以て本とせり。優婆塞は男なり、我慢を以て本とせり。優婆夷は女人なり、無慙を以て本とせり。此の四衆は今日本国に盛んなり。経には其数有(ごしゅう)五千と有れども日本国に四十九億九万四千八百廿八人と見えたり。在世には五千人・仏の座を立てり、今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり。比丘比丘尼・増上慢とは道隆・良観等に非ずや又鎌倉中の比丘尼等に非ずや。優婆塞とは最明寺、優婆夷とは上下の女人に非ずや。敢へて我が過(とが)を知る可からざるなり。
 今日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ、豈不自見其過(あに・ふじけんごか)の者に非ずや、大謗法の罪人なり。法華の御座を立つ事・疑ひ無き者なり。
 然りと雖も日蓮に値(あ)う事・是併(しかしなが)ら礼仏而退(らいぶつにたい)の義なり。此の礼仏而退は軽賤の義なり、全く信解の礼退に非ざるなり。此等の衆は於戒有欠漏(おかいう・けつろ)の者なり、文句の四に云く「於戒有欠漏とは律義・失(とが)有るをば欠と名け、定共・道共・失有るをば漏と名く」と。
 此の五千の上慢とは我等所具の五住の煩悩なり。今法華経に値い奉る時、慢即法界と開きて礼仏而退するを仏威徳故去(ぶついとくここ)と云うなり。仏とは我等所具の仏界なり。威徳とは南無妙法蓮華経なり。故去とは而去不去(にこふこ)の意なり。普賢品の作礼而去(さらいにこ)之を思う可きなり。
 又云く五千の退座と云う事、法華の意は不退座なり。其の故は諸法実相・略開三顕一の開悟なり。さて其の時は我慢・増上慢とは慢即法界と開きて本有(ほんぬ)の慢機なり。其数有五千とは我等が五住の煩悩なり。若し又五住の煩悩無しと云うは法華の意を失いたり。五住の煩悩有り乍(なが)ら・本有(ほんぬ)常住ぞと云う時、其数有五千と説くなり。断惑に取り合わず其の儘(まま)本有妙法の五住と見れば不自見其過と云うなり。 
 さて於戒有欠漏とは小乗権教の対治衆病の戒法にては無きなり、是名持戒(ぜみょうじかい)の妙法なり。故に欠漏(けつろ)の当体・其の儘(まま)是名持戒の体なり。然るに欠漏を其の儘(まま)本有と談ずる故に護惜其瑕疵(ごしゃくごけし)とは説くなり。
 元より一乗の妙戒なれば一塵含法界・一念遍十方する故に是小智已出と云うなり。
 糟糠(そうこう)とは塵塵法法・本覚の三身なり。故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり。
 不堪受是法とは略開の諸法実相の法体を聞きて・其の儘(まま)開悟するなり。さて身子尊者・鈍根のために分別解説したまえと請う。広開三の法門をば不堪受是法と説く。
 さて法華の実義に帰りて見れば妙法の法体(ほったい)は更に能受所受を忘るるなり、不思議の妙法なり。本法の重を悟りて見る故に此衆無枝葉と云うなり。
 かかる内証は純一実相・実相外更無別法(じっそうげ・きょうむべっぽう)なれば唯有諸貞実(ゆいうしょ・じょうじつ)なり。所詮貞実とは色心を妙法と開く事なり。
 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を唯有諸貞実と説くなり。諸とは諸法実相の仏なり。諸は十界なり。貞実は十界の色心を妙法と云うなり。今経に限る故に唯と云うなり。五千の上慢の外・全く法華経之れ無し。
 五千の慢人とは我等が五大なり、五大即妙法蓮華経なり。五千の上慢は元品の無明なり。故に礼仏而退(らいぶつにたい)なり。此れは九識八識六識と下る分なり、流転門の談道なり。仏威徳故去とは還滅門(げんめつもん)なり。然らば威徳とは南無妙法蓮華経なり、本迷・本悟の全体なり。能く能く之を案ず可し云云。

 第六 如我等無異(にょがとう・むい) 如我昔所願(にょがしゃく・しょがん)の事  疏に云く「因を挙げて信を勧む」と。

 御義口伝に云く、我とは釈尊・我実成仏・久遠の仏なり。此の本門の釈尊は我等衆生の事なり。如我の我は十如是の末の七如是なり。九界の衆生は始の三如是なり。我等衆生は親なり、仏は子なり。父子一体にして本末究竟等なり。此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり。
 爰を以て之を思うに、釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり。此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を・我が成仏せしめんと云う所の願・併(しかしなが)ら如我昔所願なり。終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり。
 此の今者已満足の已の字・すでに・と読むなり。何れの処を指して已に・とは説けるや。凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり。爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり。
 されば此の如我等無異の文肝要なり。如我昔所願は本因妙、如我等無異は本果妙なり。妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳・骨髄に非ずや。釈には挙因勧信(こいんかんじん)と。挙因は即ち本果なり。
 今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり、豈今者已満足に非ずや。已とは建長五年三月廿八日に初めて唱え出だす処の題目を指して已と意得可きなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり。此れを思い遣る時んば満足なり。満足とは成仏と云う事なり。釈に云く「円は円融円満に名け、頓は頓極頓足に名く」と。之を思う可し云云。

 第七 於諸菩薩中 正直捨方便の事  文句の四に云く「於諸菩薩中の下(しも)の三句は正しく実を顕すなり。五乗は是れ曲にして直に非ず、通別は偏傍(へんぼう)にして正に非ず。今皆彼の偏曲(へんごく)を捨てて但正直の一道を説くなり」と。

 御義口伝に云く、此の菩薩とは九界の第九に居したる菩薩なり、又一切衆生を菩薩と云うなり、今日蓮等の類いなり。又諸天善神等迄も是れ菩薩なり。直とは煩悩即菩提・生死即涅槃なり。さて一道とは南無妙法蓮華経なり。今末法にして正直の一道を弘むる者は日蓮等の類いに非ずや。

  第八 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道の事

 御義口伝に云く、当来世とは末法なり。悪人とは法然・弘法・慈覚・智証等なり。仏とは日蓮等の類いなり。一乗とは妙法蓮華経なり。不信の故に三悪道に堕す可きなり。

  [御義口伝 上 本文]その四に続く




by johsei1129 | 2019-11-04 12:34 | 御義口伝 | Trackback | Comments(0)


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