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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 26日

法華経は教主釈尊の師で一字一句も捨てる事は父母を殺す罪に過ぎると説いた書【兄弟抄】一

【兄弟抄】
■出筆時期:建治2年4月 55 歳御作
 鎌倉幕府の作事(建築)奉行・池上左衛門康光の子息、池上兄弟に与えられた書
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:
 建治二年、律宗・極楽寺良観の熱心な信者だった父康光が、良観の意向を受け兄・宗仲を勘当、弟に家督を譲ることを条件に、法華経信仰を止めるよう迫る事件が起き、この知らせを受けた大聖人は直ぐに本抄を書き認め、この度の勘当は、法華経信仰を妨げようとする魔の所為であり「一切は親に随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か」と説いて、強盛な信仰を促された。
 この結果、翌々年の弘安元年には、兄の勘当が解かれ、法華経信仰に反対し続けた父康光も、ついに大聖人に帰依することになった。 [英語版]
■ご真筆: 池上本門寺(現東京都大田区池上)所蔵 [重要文化財]
法華経は教主釈尊の師で一字一句も捨てる事は父母を殺す罪に過ぎると説いた書【兄弟抄】一_f0301354_2223261.jpg

[兄弟抄 本文]その一

 夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心・十二部経の骨髄なり。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。今現に経蔵に入つて此れを見るに、後漢の永平より唐の末に至るまで渡れる所の一切経論に二本あり。所謂旧訳(くやく)の経は五千四十八巻なり、新訳の経は七千三百九十九巻なり。彼の一切経は皆各各・分分に随つて我・第一なりとなのれり。然而(しかるに)法華経と彼の経経とを引き合せて之を見るに、勝劣天地なり高下雲泥(うんでい)なり。彼の経経は衆星の如く、法華経は月の如し。彼の経経は燈炬(とうこ)・星月の如く、法華経は大日輪の如し。此れは総なり。

 別して経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり。第一第二の大事は三千塵点劫・五百塵点劫と申す二つの法門なり。其の三千塵点と申すは第三の巻・化城喩品(けじょうゆほん)と申す処に出でて候。此の三千大千世界を抹して塵となし、東方に向つて千の三千大千世界を過ぎて一塵を下(くだ)し、又千の三千大千世界を過ぎて一塵を下し、此くの如く三千大千世界の塵を下(くだし)はてぬ。さてかえつて下せる三千大千世界と下さざる三千大千世界をともにおしふさ(総束)ねて又塵となし、此の諸の塵をも(以)てならべをきて一塵を一劫として経尽(へつく)しては、又始め・又始め、かくのごとく上の諸塵の尽し経たるを三千塵点とは申すなり。
 今三周の声聞と申して舎利弗・迦葉・阿難・羅云(らうん)なんど申す人人は、過去遠遠劫・三千塵点劫のそのかみ、大通智勝仏と申せし仏の第十六の王子にてをはせし菩薩ましましき。かの菩薩より法華経を習いけるが、悪縁にすか(賺)されて法華経を捨つる心つきにけり。かくして或は華厳経へをち、或は般若経へをち、或は大集経へをち、或は涅槃経へをち、或は大日経・或は深密経・或は観経等へをち、或いは阿含・小乗経へをち・なんどしけるほどに・次第に堕ちゆきて後には人天の善根・後に悪にをちぬ。かくのごとく堕ちゆく程に三千塵点劫が間、多分は無間地獄、少分は七大地獄、たまたまには一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅なんどに生まれ、大塵点劫なんどを経て人天には生まれ候けり。

 されば法華経の第二の巻に云く「常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く、余の悪道に在ること己が舎宅の如し」等云云。十悪をつくる人は等活・黒繩(こくじょう)なんど申す地獄に堕ちて五百生・或は一千歳を経(へ)、五逆をつくれる人は無間地獄に堕ちて一中劫を経て・後は又かへりて生ず。いかなる事にや候らん。法華経をすつる人は、すつる時はさしも父母を殺すなんどのやうにをびただしくは・みへ候はねども、無間地獄に堕ちては多劫を経(へ)候。設(たとい)父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人なんど殺して候とも・いかんが三千塵点劫をば経候べき。一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏乃至億万仏を殺したりとも、いかんが五百塵点劫をば経候べき。しかるに法華経をすて候いけるつみによりて三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩の五百塵点劫を経候けること・をびただしく・をぼへ候。
 せんずるところは捧をもつて虚空を打てば・くぶし(拳)いたからず。石を打てば・くぶしいたし。悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。或は他人を殺すは捧をもつて泥を打つがごとし、父母を殺すは捧をもつて石を打つがごとし。鹿をほうる犬は頭(こうべ)われず、師子を吠る犬は腸(はらわた)くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり。

 さればこの法華経は一切の諸仏の眼目・教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば、千万の父母を殺せる罪にもすぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこへて候けるゆへに・三五の塵点をば経(へ)候けるなり。此の法華経はさてをきたてまつりぬ、又此の経を経のごとくに・と(説)く人に値うことは難(かたき)にて候。設い一眼の亀の浮木には値うとも、はちす(蓮)のいと(糸)をもつて須弥山をば虚空(おおぞら)にかくとも、法華経を経のごとく説く人にあひがたし。

               
[兄弟抄 本文]その二に続く




by johsei1129 | 2019-10-26 11:54 | 池上兄弟 | Trackback | Comments(0)


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