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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 20日

地獄より仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたと明かした書【諸法実相抄】

【諸法実相抄(しょほうじっそうしょう】
■出筆時期:文永十年(1273年)五月十七日 五十二歳 御作。
■出筆場所:佐渡ヶ島・一の谷(いちのさわ)の豪族・入道清久の屋敷にて述作
■出筆の経緯:本抄は大聖人が佐渡ヶ島流罪中、同じく流浪中の天台学僧で、前年文永九年の二月に大聖人の弟子となった最蓮房日浄に与へた書となります。

最蓮房は法華経方便品第二に説かれている十如是を解き明かした偈の意味を大聖人に問い、それに対し『下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり』と答え、さらに『法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦多宝の二仏と云うも・妙法等の五字より用(ゆう)の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ。かくの如き等の法門、日蓮を除きては申し出す人・一人もあるべからず』と明言、末法の本仏としての内証を説き示しておられます。
■ご真筆: 現存しておりません。

[諸法実相抄 本文]

 日蓮 之を記す

 問うて云く、法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」云云。此の経文の意如何。答えて云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云。又云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」又云く「阿鼻(あび)の依正は全く極聖(ごくしょう)の自心に処し、毘盧(びる)の身土は凡下の一念を逾(こ)えず」云云。此等の釈義分明なり、誰か疑網を生ぜんや、

 されば法界のすがた・妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用(ゆう)の利益を施(ほどこ)し給ふ時、事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ。
 かくの如き等の法門、日蓮を除きては申し出す人・一人もあるべからず。天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言(ことば)に出し給ふまではなし。胸の中にしてくらし給へり。其れも道理なり、付嘱なきが故に、時のいまだ・いたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に。地涌の菩薩の中の上首唱導、上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して法体(ほったい)の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座(びょうざ)の儀式を作り顕はすべき人なし。是れ即ち本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。
 されば釈迦・多宝の二仏と云うも用(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ。経に云く「如来秘密・神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。

 然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず。返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云うは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体(くたい)・倶用(くゆう)の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。
 実相と云うは妙法蓮華経の異名なり、諸法は妙法蓮華経と云う事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり。天台云く「実相の深理・本有の妙法蓮華経」と云云。此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ、本有(ほんぬ)の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり。此の釈・能く能く心中に案じさせ給へ候へ。

 日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立(さきだち)て粗(ほぼ)ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏、涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先(まず)作り顕はし奉る事、予(よ)が分斉(ぶんざい)にはいみじき事なり。日蓮をこそ・にくむとも、内証には・いかが及ばん。
 さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪、無量劫にも・きへぬべしとも覚へず。譬喩品に云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり。又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず。経に云く「仏の智慧を以て籌量(ちゅうりょう)するも多少其の辺を得ず」と云へり。
 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば・豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類(るるい)に非ずや。経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし、是の人は則ち如来の使ひ・如来の所遣(しょけん)として如来の事を行ずるなり」と。豈(あ)に別人の事を説き給うならんや。
 されば余りに人の我をほむる時は、如何様(いかよう)にもなりたき意の出来し候なり。是ほむる処の言より・をこり候ぞかし。末法に生れて法華経を弘めん行者は三類の敵人有つて流罪・死罪に及ばん。然れども・た(堪)えて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かた(肩)にかけ・せなか(背中)にを(負)ふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり。

 いかにも今度(このたび)信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事・あに疑はんや。経に云く「我久遠より来(この)かた、是等の衆を教化す」とは是なり。
 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女(なんにょ)はきらふべからず。皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし。
 ともかくも法華経に名をたて・身をまかせ給うべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別(べち)の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住の故なり。既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛(はた)をさし顕し、釈迦多宝の二仏・大将としてさだめ給いし事・あに・いつはりなるべきや。併(しかしなが)ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。

 日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし。又其の座にもや・ありけん、凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり、又未来は決定(けつじょう)として当詣道場(とうけいどうじょう)なるべし。過去をも是を以て推するに・虚空会(こくうえ)にもやありつらん。三世各別あるべからず。此くの如く思ひつづけて候へば、流人(るにん)なれども喜悦はかりなし。うれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり、涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答え給う。余の九百九十九人はなくなみだを硯(すずり)の水として又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。
 今日蓮もかくの如し。かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏・多宝仏、未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと・かくの如く我も聞きし故ぞかし。現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだ・せきあへず。鳥と虫とはな(鳴)けども・なみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし。此のなみだ世間の事には非ず、但偏(ひとえ)に法華経の故なり。若し・しからば甘露のなみだとも云ひつべし。涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属に・はか(別)れて流すところの涙は・四大海の水よりも・ををしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり。
 法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏(ごんぶつ)となるは又宿業なるべし。

 此の文(ふみ)には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ。よくよく見ほど(解)かせ給へ・意得させ給うべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候ひて三仏の守護をかうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし・人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経 恐恐謹言。

 五月十七日          日蓮 花押

 追申(ついしん)候。日蓮が相承の法門等・前前(さきざき)かき進(まい)らせ候き。ことに此の文(ふみ)には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化(へんげ)か、さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙(ごうしゃ)の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり。経に云く「一を上行と名づく・乃至唱導の師」とは説かれ候はぬか。まことに宿縁のをふところ・予が弟子となり給う。此の文あひかまへて秘し給へ。日蓮が己証(こしょう)の法門等かきつけて候ぞ。とどめ畢(おわ)んぬ。

最蓮房御返事


 【妙法蓮華経 方便品第二】
 唯佛與佛。乃能究盡。諸法實相。所謂諸法。如是相・如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

 [和訳]
 唯一、仏と仏のみが、すなわち諸法[人(正報)及び人を取り巻く森羅万象(依報)を貫く法]の実相を、能く究め盡くしているからである。いわゆる諸法の実相は、かくの如き相、性、体、力、作、因、縁、果、報が究竟(くきょう)して等しいのである。




by johsei1129 | 2019-10-20 10:37 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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