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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 27日

法華経に予知された末法の本仏としての御振舞いを明らかにした書【種種御振舞御書】一

【種種御振舞御書(しゅじゅ・おふるまいごしょ】
■出筆時期:建治2年3月(1276)55歳御作 大聖人生誕の地である安房の国(千葉県南部)に住み、夫と子供をうしなった身でありながらも強信徒であった光日房にあてられた御書。
■出筆場所:身延山中 草庵
■出筆の経緯:本抄で大聖人は最初に『仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始めに此の法華経の肝心・題目の五字計りを弘めんもの出来すべし・・・・」』と述べ、さらに釈尊が末法の本仏は「数数見擯出(さくさく・けん・ひんずい・数々の難に遭う)」と予知したことに附合するのは日蓮だけであることを明言。自身に降りかかった数々の難、特に生涯最大の難で断首の危機に陥った『竜の口の難』について詳細に記し、弟子たちに難に打ちかって布教に励むよう激励している。 [英語版]
■ご真筆: 身延山久遠寺 曽存(明治八年の大火で焼失)。

[種種御振舞御書 本文] その一

 去(い)ぬる文永五年・後(のち)の正月十八日、西戎・大蒙古国より日本国を・をそ(襲)うべきよし牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年 太歳庚申 に勘えたりし立正安国論・今すこしもたがわず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府(がふ)にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王・聖主の御世(みよ)ならば日本第一の権状(けんじょう)にもをこなわれ・現身に大師号もあるべし。定めて御たづねありていくさ(軍事)の僉義をも・いゐあわせ、調伏(じょうぶく)なんども申しつけられぬらんと・をもひしに、其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す。国に賢人なんども・あるならば不思議なる事かな。これはひとへにただ事にはあらず。天照太神・正八幡宮の・此の僧につ(託)いて日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかと・をもわるべきに、さはなくて或は使ひを悪口し・或はあざむき・或はとりも入れず・或は返事もなし・或は返事をなせども上(かみ)へも申さず。
 これひとへに・ただ事にはあらず。設い日蓮が身の事なりとも国主となり・まつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわうや・この事は上(かみ)の御大事いできらむ・のみならず、各各の身にあたりて・をほいなる・なげき出来すべき事ぞかし。而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり。
 此れひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵(ごうてき)となりて・としひさしくなりぬれば、大禍のつもり・大鬼神の各各の身に入る上へ、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり。例せば殷の紂王、比干といゐし者いさめをなせしかば用いずして胸をほり、周の文・武王にほろぼされぬ。呉王は伍子胥(ごししょ)がいさめを用いず自害をせさせしかば越王勾践の手にかかる。これもかれ(彼)がごとくなるべきかと・いよいよ・ふびんにをぼへて名をもをしまず・命をもすてて強盛に申しはりしかば、風大なれば波大なり・竜大なれば雨たけきやうに・いよいよ・あだをなし・ますますにくみて御評定に僉議あり。頚をはぬべきか・鎌倉ををわるべきか、弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頚を切れ・或はろう(籠)にてせめ・あるいは遠流すべし等云云。

 日蓮悦んで云く、本より存知の旨なり。雪山童子は半偈のために身をなげ、常啼(じょうたい)菩薩は身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士は皮をはぐ、薬王菩薩は臂(ひじ)をやく、不軽菩薩は杖木(じょうもく)をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆菩薩は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘うれば、天台大師は「時に適うのみ」とかかれ、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ・時によりて其の行・万差なるべし。仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始めに此の法華経の肝心・題目の五字計りを弘めんもの出来すべし。其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗・或は小乗等をもつて・きそ(競)はんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて或はのり・或はうち・或はろうに入れ・或は所領を召し・或は流罪・或は頚(くび)をはぬべし、などいふとも退転なく・ひろむるほどならば、あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ、餓鬼のごとく身をくらひ、後には他国よりせめらるべし。これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」ととかれて候ぞ。
 各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず。をや(親)を・をもひ、めこ(妻子)ををもひ、所領をかへりみること・なかれ。無量劫より・このかた、をやこのため・所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず。法華経をば・そこばく(若干)行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき。譬えばゆ(湯)をわかして水に入れ、火を切るに・と(遂)げざるがごとし。各各思い切り給へ。此の身を法華経にかうるは、石に金(こがね)をかへ、糞に米をかうるなり。


by johsei1129 | 2019-10-27 15:53 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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