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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 10日

妙法蓮華経と唱えることで己心中の仏性が呼ばれて必ず顕れる事を明らかにした書【法華初心成仏抄】五

[法華初心成仏抄 本文] その五 英語版

 問うて云く、凡そ仏法を能く心得て仏意に叶へる人をば世間に是を重んじ・一切是を貴む。然るに当世法華経を持つ人人をば世こぞつて悪(にく)み・嫉み・軽しめ・賤しみ・或は所を追ひ出し・或は流罪し・供養をなすまでは思いもよらず、怨敵の様に・にくまるるは・いかさまにも心わろくして仏意にもかなはず・ひが(僻)さまに法を心得たるなるべし。経文には如何が説きたるや。
 答えて云く、経文の如くならば末法の法華経の行者は人に悪(にく)まるる程に持つを実の大乗の僧とす。又経を弘めて人を利益する法師なり。人に吉(よし)と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき・世間の悪知識なりと思うべし。此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして・在家の俗男・俗女の檀那をへつ(諛)らい・いつわ(偽)り・たぼ(誑)らかすべしと説き給へり。
 其の上・勧持品には法華経の敵人・三類を挙げられたるに、一には在家の俗男・俗女なり。此の俗男・俗女は法華経の行者を憎み・罵り・打ちはり・きり殺し・所を追ひ出だし・或は上(かみ)へ讒奏して遠流(おんる)し・なさけなくあだむ者なり。
 二には出家の人なり。此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて・法華経の行者を見ては怨(あだ)み・嫉(ねた)み・軽しめ・賤しみ、犬野干よりも・わろきようを人に云いうとめ、法華経をば我一人心得たりと思う者なり。
 三には阿練若(あれんにゃ)の僧なり。此の僧は極めて貴き相を形(かたち)に顕はし、三衣(さんね)・一鉢を帯して山林の閑(しず)かなる所に篭(こも)り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ・仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如くに読み持(たも)ち奉らん僧を見ては憎み・嫉んで云く、大愚癡の者・大邪見の者なり、総て慈悲なき者・外道の法を説くなんど云わん。上一人より仰いで信を取らせ給はば・其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし。法華経を説の如くよみ持たん人は、必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。
 問うて云く、仏の名号を持つ様に法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや・如何。
 答えて云く、経に云く「仏・諸の羅刹女に告げたまわく、善き哉・善き哉、汝等但能く法華の名を受持する者を擁護(おうご)せん福(さいわい)量る可からず」と云云。此の文の意は十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを・大覚世尊讃めて言(のたまわ)く、善き哉・善き哉、汝等・南無妙法蓮華経と受け持(たも)たん人を守らん功徳・いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり・神妙なりと仰せられたる文なり。是れ我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云う文なり。
 凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり。
 故に一度(ひとたび)妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚(よ)び顕し奉る功徳・無量無辺なり。
 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて・我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよび・よばれて顕はれ給う処を仏とは云うなり。譬えば篭(かご)の中の鳥なけば・空(そら)とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば・篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若し暫(しばら)くも持つ者は我れ則ち歓喜す。諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり。
 されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執(へんしゅう)の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。

                  日蓮 在御判




by johsei1129 | 2019-11-10 18:53 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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