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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 20日

『妙法蓮華経』の体(実体)は、十界の依正であることをあかした書【当体義抄】 その三

[当体義抄 本文] その三

 問う、如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや。
 答う、四味三教の時は三乗・五乗・七方便・九法界・帯権(たいごん)の円の菩薩並びに教主・乃至法華迹門の教主、総じて本門寿量の教主を除くの外は、本門の当体蓮華の名をも聞かず。何(いか)に況んや証得せんをや。開三顕一の無上菩提の蓮華、尚四十余年には之を顕さず。故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」とて迹門・開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云うなり。何に況んや開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作(ほんぬ・むさ)の当体蓮華をば迹化・弥勒(しゃくけ・みろく)等之を知る可きや。
 問う、何を以て爾前の円の菩薩・迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云う事を知ることを得ん。
 答う、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず、迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり。天台云く「権教の補処(ふしょ)は迹化の衆を知らず、迹化の衆は本化の衆を知らず」文。伝教大師云く「是直道(これ・じきどう)なりと雖も大直道ならず」云云。或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云。此の意なり。爾前迹門の菩薩は一分断惑証理の義分有りと雖も、本門に対するの時は当分の断惑にして跨節(かせつ)の断惑に非ず、未断惑と云わるるなり。然れば「菩薩・処処に入ることを得」と釈すれども二乗を嫌うの時、一往得入の名を与うるなり。故に爾前迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり。真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり。
 天台大師・涌出品の「五十小劫・仏の神力の故に・諸の大衆をして半日の如しと謂(おも)わしむ」の文を釈して云く「解者(げしゃ)は短に即して長・五十小劫と見る。惑者(わくしゃ)は長に即して短・半日の如しと謂(おも)えり」文。妙楽之を受けて釈して云く「菩薩已に無明を破す、之を称して解と為す。大衆仍お賢位(けんい)に居す、之を名けて惑と為す」文。釈の意分明なり。爾前迹門の菩薩は惑者なり、地涌の菩薩のみ独り解者なりと云う事なり。然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時、異なり無しと云つて此の文を料簡するに、解者の中に迹化の衆入りたりと云うは大なる僻見(びゃっけん)なり。経の文・釈の義分明なり、何ぞ横計(おうけい)を為す可けんや。文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間・如来を称揚するを、霊山迹化の衆は半日の如く謂えりと説き給えるを天台は解者・惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思えり、是れ即ち僻見(びゃっけん)なり。地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る、是れ即ち正見なりと釈し給えるなり。妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり、未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給いし事・文に在つて分明(ふんみょう)なり。
 迹化の菩薩なりとも住上(じゅうじょう)の菩薩は已に無明を破する菩薩なりと云わん学者は、無得道の諸経を有得道(うとくどう)と習いし故なり。爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も・本門寿量の真仏に望むる時は惑者仍お賢位に居ると云わるる者なり。権教の三身未だ無常を免れざる故は、夢中の虚仏(こぶつ)なるが故なり。
 爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ、彼に至る時・正しく初住に叶うなり。妙楽の釈に云く「開迹顕本、皆初住に入る」文。「仍(なお)賢位に居す」の釈之を思い合すべし。爾前迹化の衆は惑者未だ無明を破せざる仏菩薩なりと云う事・真実なり・真実なり。
 故に知んぬ、本門寿量の説顕れての後は霊山一会(りょうぜんいちえ)の衆・皆悉く当体蓮華を証得せしなり。二乗・闡提(せんだい)・定性(じょうしょう)・女人・悪人等も本仏の蓮華を証得するなり。伝教大師・一大事の蓮華を釈して云く「法華の肝心・一大事の因縁は蓮華の所顕なり。一とは一実相なり・大とは性広博なり・事とは法性(ほっしょう)の事なり。一究竟の事とは理教の智・行・円のみなるのみ。若し一乗に達すれば三乗・定性(じょうしょう)・不定性・内道・外道・阿闡(あせん)・阿顛(あてん)・皆悉く一切智地(ちじ)に到る。是の一大事、仏の知見を開示し・悟入して一切成仏す」女人・闡提・定性・二乗等の極悪人、霊山に於て当体蓮華を証得するを云うなり。
 問う、末法今時・誰れ人か当体蓮華を証得せるや。
 答う、当世の体を見るに・大阿鼻地獄の当体を証得する人之れ多しと雖も・仏の蓮華を証得せるの人・之れ無し。其の故は無得道の権教方便を信仰して法華の当体真実の蓮華を毀謗(きぼう)する故なり。仏・説いて云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文。天台云く「此の経は遍く六道の仏種を開く。若(もし)此の経を謗せば義・断ずるに当るなり」文。
 日蓮云く、此の経は是れ十界の仏種に通ず。若し此の経を謗せば義・是れ十界の仏種を断ずるに当る。是の人・無間に於て決定(けつじょう)して堕在す。何ぞ出ずる期を得んや。然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり。
 問う、南岳・天台・伝教等の大師、法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給うと雖も、未だ南無妙法蓮華経と唱えたまわざるは如何。若し爾らば此の大師等は未だ当体蓮華を知らず又証得したまわずと云うべきや。
 答う、南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の化身なり等云云。若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は之を証得すと雖も、在生の時は妙法流布の時に非ず。故に妙法の名字を替えて止観と号し、一念三千・一心三観を修し給いしなり。
 但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食(おぼしめ)されしなり。南岳大師の法華懺法(せんぽう)に云く「南無妙法蓮華経」文。天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。又云く「稽首(けいしゅ)妙法蓮華経」云云。又「帰命(きみょう)妙法蓮華経」云云。伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云。
 問う文証・分明(ふんみょう)なり。何ぞ是くの如く弘通したまわざるや。
 答う、此れに於て二意有り。一には時の至らざるが故に、二には付属に非ざるが故なり。凡そ妙法の五字は末法流布の大白法(だいびゃくほう)なり、地涌千界の大士の付属なり。是の故に南岳・天台・伝教等は、内に鑑(かんが)みて末法の導師に之を譲りて・弘通(ぐつう)し給わざりしなり。


【当体義抄送状】

 問う、当体の蓮華・解し難し。故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠有るか。
 答う、経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如し。地より而も涌出す」云云。地涌の菩薩の当体蓮華なり、譬喩は知るべし。以上後日に之を改め書すべし。此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐、地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり。国主信心あらん後、始めて之を申す可き秘蔵の法門なり。日蓮・最蓮房に伝え畢んぬ。   
                                     
  日蓮花押




by johsei1129 | 2019-10-20 21:41 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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