人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2019年 10月 26日

末法において報恩とは「妙法蓮華経」を説き仏身に入らしめる事であることをあかした書『報恩抄』 その四

[報恩抄 本文] その四
 外典に云く、聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。黄河は涇渭(けいい)ながれを・わけて五百年には半ば河す(清)み、千年には共に清むと申すは一定(いちじょう)にて候けり。然るに日本国は叡山計りに伝教大師の御時・法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半ばは伝教の御弟子・半ばは弘法の弟子なり。第三の慈覚大師は始めは伝教大師の御弟子に・にたり。御年四十にて漢土に・わたりてより名は伝教の御弟子、其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず。而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり。蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし。鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし。法華経の父を食らい、持者の母をかめるなり。日をい(射)るとゆめに・みしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。智証の門家・園城寺と慈覚の門家・叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊の慈氏菩薩もやけぬ、慈覚大師の本尊・大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかん(感)ぜり。但中堂計りのこれり。
 弘法大師も又跡なし。弘法大師の云く、東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず等・御いましめの状あり。しかれども寛平(かんぴょう)法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして・我が寺には叡山の円頓戒を持(たもた)ざらん者をば住せしむべからずと宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は鑒真(がんじん)が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず。戒は伝教の御弟子なり、又伝教の御弟子にもあらず伝教の法華経を破失す。去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば・公家より遺体をば・ほうぶ(葬)らせ給う。其の後・誑惑(おうわく)の弟子等集りて御入定と云云。或はかみをそりて・まいらするぞと・いゐ、或は三鈷をかんどより・なげたりといゐ、或は日輪・夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となりたりといひ、或は伝教大師に十八道を・をしへまいらせ給うといゐて、師の徳をあげて智慧にかへ、我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。又高野山に本寺・伝法院といいし二(ふたつ)の寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔・大日如来なり、伝法院と申すは正覚房の立てし金剛界の大日なり。此の本末の二寺・昼夜に合戦あり、例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二つの禍(わざわい)の出現せるか。
 糞を集めて栴檀(せんだん)となせども焼く時は但糞の香(か)なり。大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり。尼犍(にけん)が塔は数年が間・利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽(たちま)ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばり(帷)は多年・人をたぼらかせしかども阿湿縛寠沙(あすばくしゃ)菩薩にせめられて・やぶれぬ。拘留(くる)外道は石となつて八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ、道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし・王莽が位をうばいしが・ごとく、法華経の位をと(奪)て大日経の所領とせり。法王すでに国に失せぬ、人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり。一人として謗法ならざる人はなし。

 但し事の心を案ずるに大荘厳仏の末・一切明王仏の末法のごとし。威音王仏の末法には改悔(かいげ)ありしすら猶・千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心(えしん)なし。如是展転・至無数劫・疑ひなきものか。かかる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつればふる(旧)き守護の善神もほこら(禿倉)をやひて寂光の都へかへり給いぬ。但日蓮計り留り居て告げ示せば・国主これをあだみ、数百人の民に或(あるい)は罵詈(めり)・或は悪口(あっく)・或は杖木(じょうもく)・或は刀剣・或は宅宅ごとにせ(塞)き・或は家家ごとにを(追)う。それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり、去ぬる文永八年九月の十二日に頚を切らんとす。
 最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云。
 大集経に云く「若しは復・諸の刹利(せつり)国王有つて諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し・若しは以て毀罵(きめ)し・刀杖をもつて打斫(ちょうちゃく)し及び衣鉢種種の資具を奪い・若しは他の給施せんに留難を作(な)さば、我等彼れをして自然(じねん)に卒(にわ)かに他方の怨敵を起さしめん、及び自らの国土も亦兵起こり・病疫飢饉し・非時の風雨・闘諍言訟せしめん。又其の王をして久しからずして復当に己が国を亡失せしめん」等云云。
 此等の経文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人・阿鼻地獄はいかで脱(のがれ)給うべき。去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向かって云く、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云。此の経文に智人を国主等・若しは悪僧等がざんげんにより、若は諸人の悪口によつて失(とが)にあつるならば、にはか(俄)に・いくさをこり・又大風吹き・他国よりせめらるべし等云云。去ぬる文永九年二月のどし(同志)いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや。いわうや前(さき)よりこれを・かんがへたり、誰の人か疑うべき。
 弘法・慈覚・智証の悞(あやまり)国に年久し。其の上・禅宗と念仏宗とのわざわい(禍)あいをこりて逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。されば・やふや(漸)く国をとろう。太政入道が国をおさへ・承久に王位つきはてて世・東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼は謗法の者はあれども又天台の正法もすこし有り。其の上ささ(支)へ顕わす智人なし。かるがゆへに・なのめ(平)なりき。譬へば師子のねぶ(眠)れるは手をつけざれば・ほへず、迅(はや)き流れは櫓をささへざれば波たかからず、盗人はとめざれば・いからず、火は薪を加えざれば・さかんならず、謗法はあれども・あらわす人なければ王法もしばらくはたえず、国も・をだやかなるに・にたり。
 例せば日本国に仏法わたりはじめて候いしに始めは・なに事もなかりしかども、守屋・仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば天より火の雨ふり・国にはうさう(疱瘡)をこり・兵乱つづきしがごとし。此れはそれには・にるべくもなし。謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にも・をとるべからず。
 金光明経に云く「時に鄰国の怨敵・是くの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊(やぶ)るべし」等云云。又云く「時に王・見已つて即ち四兵を厳(よそお)いて彼の国に発向し・討罰を為さんと欲す。我等爾の時に当に眷属・無量無辺の薬叉(やしゃ)・諸神と各形を隠して為に護助を作(な)し、彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。最勝王経の文又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。
 此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ・邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王(きりたおう)を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失いしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし、漢土にも仏法をほろぼしし王・みな賢王にせめられぬ。これは彼には・にるべくもなし。仏法の・かたうど・なるようにて仏法を失なう法師を扶くと見えて正法の行者を失うゆへに、愚者はすべてしらず、智者なんども常の智人はしりがたし、天も下劣の天人は知らずもやあるらん。されば漢土・月氏のいにしへの・みだれよりも大きなるべし。

 法滅尽経に云く「吾般泥洹(われ・はつないおん)の後、五逆濁世に魔道興盛し魔・沙門と作つて吾が道を壊乱(えらん)せん。乃至悪人転(うたた)多く・海中の沙(いさご)の如く、善者甚だ少なくして若しは一・若しは二」云云。
 涅槃経に云く「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは爪上(そうじょう)の土の如く、乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云。此の経文は時に当りて貴とく予が肝に染みぬ。当世日本国には我も法華経を信じたり・信じたり、諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし。此の経文には末法に謗法の者・十方の地土、正法の者・爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人云く、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には大地より多からんと云云。法滅尽経には善者一・二人、涅槃経には信者爪上土等云云。経文のごとくならば日本国は但日蓮一人こそ・爪上土一・二人にては候へ。されば心あらん人人は経文をか用ゆべき、世間をか用ゆべき。
 問て云く、涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云如何。
 答えて云く、涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云。大経と申すは涅槃経なり。涅槃経には法華経を極と指して候なり。而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ・下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり。譬へば賢人は国主を重んずる者をば我を・さぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下(さげ)て我をほむる人をば・あながちに敵と・にくませ給う。此の例をもつて知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も、法華経を劣(おとる)とよむは彼れ彼れの経経の心にはそむくべし。此れをもつて知るべし、法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども、諸経にても得道な(成)るとおもうは此の経をよまぬ人なり。
 例せば嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云く「毀(そしり)其の中に在り。何んぞ弘讃(ぐさん)と成さん」等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて天台につか(仕)ひて法華経をよまず、我れ経をよむならば悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき。
 慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文・十巻あり。伝教大師せめて云く「法華経を讃むると雖も・還て法華の心を死(ころ)す」等云云。此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり。嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証、あに法華経・蔑如(べつじょ)の人にあらずや。
 嘉祥大師のごとく講を廃し・衆を散じて身を橋となせしも、猶已前の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん。例せば不軽軽毀(きょうき)の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこりて千劫阿鼻に堕ちぬ。されば弘法・慈覚・智証等は設いひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうや・ひるがへる心なし。又法華経を失ない、真言教を昼夜に行ない、朝暮に伝法せしをや。世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもつて大を破せる罪をば舌を切らんとこそせさせ給いしか。世親菩薩は仏説なれども阿含経をば・たわふれにも舌の上に・をかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給き。
 嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅(くれない)の・なんだをながして今よりは弟子を見じ・法華経をかうぜじ、弟子の面(おもて)を・まほ(守)り法華経をよみたてまつれば我が力の此の経を知るにに(似)たりとて・天台よりも高僧老僧にて・おはせしが、わざと人のみるとき・を(負)ひまいらせて河をこへ・かうざ(高座)に・ちかづきて・せなかにのせまいらせて高座にのぼせたてまつり、結句・御臨終の後には隋の皇帝にまいらせて小児が母にをくれたるがごとくに足ずりをしてなき給いしなり。嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏(しょ)にはあらず。但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此れが謗法の根本にて候か。華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一つとこそ・かかれて候へ。嘉祥大師・とが(科)あらば善無畏三蔵も脱(のがれ)がたし。
 されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提(しょうだい)の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば法華経の行者とこそみへしか。しかれども大日経を習いしよりこのかた・法華経を大日経に劣るとや・おもひけん。始めはいたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに・忽(たちまち)に頓死して二人の獄卒に鉄の縄・七すぢつけられて閻魔(えんま)王宮にいたりぬ。命いまだ・つきずと・いゐてかへされしに法華経を謗ずるとや・おもひけん、真言の観念・印・真言等をば・なげすてて法華経の今此三界の文を唱えて縄も切れ・かへされ給いぬ。又雨のいのりを・おほせつけられたりしに、忽ちに雨は下(ふり)たりしかども大風吹きて国をやぶる。結句死し給いてありしには弟子等集りて臨終いみじきやうを・ほめしかども無間大城に堕ちにき。
 問うて云く、何をもつてか・これをしる。
 答えて云く、彼の伝を見るに云く「今畏の遺形を観るに漸(ようや)く加(ますます)縮小し、黒皮隠隠として骨其れ露(あらわ)なり」等云云。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども、かきあらはせる筆は畏が失をかけり。死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく、皮はくろし・骨あらはなり等云云。人死して後・色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。幼少にして位をすてぬ・第一の道心なり。月氏・五十余箇国を修行せり、慈悲の余りに漢土にわたれり。天竺・震旦・日本一閻浮提の内に真言を伝へ、鈴(れい)をふる、此の人の徳にあらずや。いかにして地獄に堕ちけると後生をおもはん人人は御尋ねあるべし。

 又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其の徳・善無畏のごとし。又互いに師となれり。而るに金剛智三蔵・勅宣によて雨の祈りありしかば・七日が中に雨下(ふ)る。天子大いに悦ばせ給うほどに忽ちに大風吹き来たる。王臣等けう(興)さめ給いて・使ひをつけて追はせ給いしかども、とかうの(延)べて留りしなり。結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて御身の代(かわり)に殿上の二女七歳になりしを薪に・つみこめて焼き殺せし事こそ無慚(むざん)にはおぼゆれ。而れども・姫宮も・いきかへり給はず。
 不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり。此等の事を不審とやおもひけん。畏と智と入滅の後・月氏に還りて竜智に値い奉り・真言を習いなをし・天台宗に帰伏してありしが、心計りは帰れども・身はかへる事なし。雨の御いのり・うけ給わりたりしが三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給いて我れと御布施ひかせ給う。須臾ありしかば大風落ち下りて内裏(だいり)をも吹きやぶり、雲閣・月卿(げっけい)の宿所・一所(ひとところ)もあるべしとも・みへざりしかば、天子大いに驚きて宣旨なりて風をとどめよと仰せ下さる。且らくありては又吹き又吹きせしほどに数日が間やむことなし。結句は使ひをつけて追うてこそ風も・やみてありしか。此の三人の悪風は漢土・日本の一切の真言師の大風なり。
 さにてあるやらん、去(い)ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか。心にくし・心にくし。

 弘法大師は去ぬる天長元年の二月・大旱魃のありしに、先には守敏(しゅびん)・祈雨(あまごい)して七日が内に雨を下(ふら)す。但京中にふりて田舎にそそがず。次に弘法・承け取りて一七日に雨気(あまけ)なし。二七日に雲なし。三七日と申せしに・天子より和気(わけ)の真綱(まつな)を使者として・御幣(ぬさ)を神泉苑(しんせんおん)にまいらせたりしかば、天雨下(ふる)事三日、此れをば弘法大師並びに弟子等・此の雨をうばひとり、我が雨として今に四百余年・弘法の雨という。
 慈覚大師の夢に日輪をい(射)しと弘法大師の大妄語に云く、弘仁九年の春・大疫(だいやく)をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云。成劫(じょうこう)より已来(このかた)・住劫の第九の減、已上二十九劫が間に日輪・夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をい(射)るという。内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事・有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる。其の矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。日本の神武天皇の御時、度美長(とみのおさ)と五瀬命(いつせのみこ)と合戦ありしに、命(みこと)の手に矢たつ。命の云く、我はこれ日天(ひのかみ)の子孫(うまご)なり。日に向い奉りて弓をひくゆへに、日天のせめを・かをほ(蒙)れりと云云。阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ぎよしん(御寝)なりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる。諸臣の云く、仏の御入滅か云云。須跋陀羅(しゅばつだら)がゆめ又かくのごとし。我が国は殊にい(忌)むべきゆめなり。神をば天照という、国をば日本という。又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人、日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり。
 例せば漢土の善導が始めは密州の明勝(めいしょう)といゐし者に値うて法華経をよみたりしが、後には道綽(どうしゃく)に値うて法華経をすて、観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一・念仏をば十即十生・百即百生と定めて此の義を成(じょう)ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶うやいなや、毎夜夢の中に常に一りの僧有りて来たって指授すと云云。乃至一(もっぱら)経法の如くせよ・乃至観念法門経等云云。
 法華経には「若し法を聞く者有れば一(ひとり)として成仏せざる無し」と。善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火なり。善導は観経をば十即十生・百即百生、無量義経に云く「観経は未だ真実を顕さず」等云云。
 無量義経と楊柳房(ようりゅうぼう)とは天地なり。此れを阿弥陀仏の僧と成りて来つて汝が疏は真なりと証し給わんは・あに真事ならんや。抑(そもそも)阿弥陀は法華経の座に来たりて舌をば出だし給はざりけるか。観音勢至は法華経の座にはなかりけるか。此れをもつてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。




by johsei1129 | 2019-10-26 19:30 | 報恩抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


<< 末法において報恩とは「妙法蓮華...      末法において報恩とは「妙法蓮華... >>