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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 12日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】(下) その三

[開目抄(下) 本文] その三

 第一の有諸無智人と云うは、経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣(のうえ)の比丘の大檀那と見へたり。随つて妙楽大師は「俗衆」等云云。東春に云く「公処に向う」等云云。
 第二の法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い・我慢の心充満せん」等云云。涅槃経に云く「是の時に当に諸の悪比丘有るべし。乃至(ないし)是の諸の悪人・復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん」等云云。止観に云く「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす。若し智無きは増上慢を起し・己れ仏に均(ひと)しと謂う」等云云。
 道綽禅師(どうしゃくぜんし)が云く「二に理深解微(りじん・げみ)なるに由る」等云云。法然云く「諸行は機に非ず。時を失う」等云云。
 記の十に云く「恐くは人謬(あやま)り解せん者、初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推(ゆず)り、此の初心を蔑(ないがしろ)にせん。故に今彼の行浅く・功深きことを示して以て経力を顕す」等云云。伝教大師云く「正像稍(やや)過ぎ已(おわっ)て末法太(はな)はだ近きに有り。法華一乗の機・今正しく是其の時なり。何を以て知ることを得る。安楽行品に云く、末世法滅の時なり」等云云。慧心の云く「日本一州・円機純一なり」等云云。
 道綽(どうしゃく)と伝教と法然と慧心と・いづれ此を信ずべしや。彼は一切経に証文なし、此れは正しく法華経によれり。其の上、日本国・一同に叡山(えいざん)の大師は受戒の師なり。何ぞ天魔のつける法然に心をよせ・我が剃頭(ていず)の師をなげすつるや。法然智者ならば・何ぞ此の釈を選択(せんちゃく)に載せて和会(わえ)せざる。人の理をかくせる者なり。
 第二の悪世中比丘と指さるるは法然等の無戒・邪見の者なり。
 涅槃経に云く「我れ等悉く邪見の人と名く」等云云。妙楽云く「自ら三教を指して皆邪見と名く」等云云。止観に云く「大経に云く、此よりの前は我等皆邪見の人と名くるなり。邪・豈(あに)悪に非ずや」等云云。弘決に云く「邪は即ち是れ悪なり。是の故に当(まさ)に知るべし、唯円を善と為す。復二意有り。一には順を以つて善と為し、背を以つて悪と為す。相待(そうたい)の意なり。著を以つて悪と為し、達を以つて善と為す。相待・絶待倶に須(すべから)く悪を離るべし。円に著する尚悪なり、況(いわん)や復(また)余をや」等云云。
 外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道。小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪。但法華のみ正善なり。爾前の円は相待妙なり、絶待妙に対すれば猶悪なり、前三教に摂(せっ)すれば猶悪道なり。爾前のごとく彼の経の極理を行ずる・猶悪道なり。況んや観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として・法華経を観経に取り入れて還つて念仏に対して閣抛閉捨(かくほうへいしゃ)せるは、法然並びに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや。釈迦・多宝・十方の諸仏は法をして久しく住せしめんが故に此(ここ)に来至し給えり。法然並びに日本国の念仏者等は、法華経は末法に念仏より前に滅尽(めつじん)すべしと。豈三聖の怨敵にあらずや。

 第三は、法華経に云く「或は阿練若(あれんにゃ)に有り。納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在つて乃至白衣(ないし・びゃくえ)の与(ため)に法を説いて世に恭敬(くぎょう)せらるることを為(う)ること・六通の羅漢の如くならん」等云云。
 六巻の般泥洹(はつないおん)経に云く「羅漢に似たる一闡提(いっせんだい)有つて悪業を行じ、一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん。羅漢に似たる一闡提有りとは是諸の衆生の方等を誹謗するなり。一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰(きし)して広く方等を説き衆生に語つて言く、我・汝等と倶に是れ菩薩なり。所以は何ん。一切皆如来の性有るが故に。然かも彼の衆生は一闡提と謂わん」等云云。
 涅槃経に云く「我れ涅槃の後、像法の中に当に比丘有るべし。持律に似像して少(わず)かに経典を読誦し、飲食を貪嗜(とんし)して其の身を長養せん。袈裟を服(き)ると雖も・猶猟師の細視徐行(さいし・じょこう)するが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現し、内には貪嫉(とんしつ)を懐く。唖(あ)法を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如く、実には沙門に非ずして沙門の像(かたち)を現じ、邪見熾盛(しじょう)にして正法を誹謗せん」等云云。
 妙楽云く「第三最も甚し。後後の者は転識(うたた・し)り難きを以つての故に」等云云。東春云く「第三に或有阿練若より下の三偈は即ち是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云。
 東春に「即ち是出家の処に一切の悪人を摂する」等とは当世・日本国には何れの処ぞや。叡山か園城(おんじょう)か東寺か南都か、建仁寺か寿福寺か建長寺か、よくよく・たづぬべし。延暦寺(えんりゃくじ)の出家の頭(かしら)に甲冑(かっちゅう)をよろうを・さすべきか、園城寺の五分法身の膚(はだえ)に鎧杖(がいじょう)を帯せるか。彼等は経文に納衣在空閑(のうえ・ざいくうかん)と指すにはにず「為世所恭敬(いせしょ・くぎょう)・如六通羅漢」と人をもはず、又転難識故(てんなんしきこ)というべしや。華洛(からく)には聖一等、鎌倉には良観等ににたり。人をあだ(怨)むことなかれ、眼あらば経文に我が身をあわせよ。

 止観の第一に云く「止観の明静なることは前代・未だ聞かず」等云云。弘の一に云く「漢の明帝夜夢みし自(よ)り陳朝に洎(およ)ぶまで、禅門に予(あずか)り厠(まじわり)て衣鉢(えはつ)伝授する者」等云云。補注に云く「衣鉢伝授とは達磨(だるま)を指す」等云云。止の五に云く「又一種の禅人乃至盲跛(もうは)の師徒、二(ふたり)倶(とも)に堕落す」等云云。止の七に云く「九の意・世間の文字の法師と共ならず、事相の禅師と共ならず。一種の禅師は唯(ただ)観心の一意のみ有り。或は浅く・或は偽る。余の九は全く此(これ)無し。虚言に非ず、後賢・眼有らん者は当に証知すべきなり」
 弘の七に云く「文字法師とは内に観解(かんげ)無くして唯法相を構(かま)う。事相の禅師とは境智を閑(なら)わず、鼻膈(びかく)に心を止む。乃至根本有漏定(うろじょう)等なり。一師唯観心一意のみ有る等とは、此は且(しばら)く与えて論を為す、奪えば則ち観解(かんげ)倶に闕(か)く。世間の禅人・偏えに理観を尚(とうと)ぶ。既に教を諳(そら)んぜず、観を以つて経を消し、八邪八風を数えて丈六の仏と為し、五陰三毒を合して名けて八邪と為し、六入を用いて六通と為し、四大を以つて四諦と為(な)す。此くの如く経を解するは偽(ぎ)の中の偽なり。何ぞ浅くして論ず可けんや」等云云。
 止観の七に云く「昔・鄴洛(ぎょうらく)の禅師、名・河海に播(し)き、住するときは四方雲の如くに仰ぎ、去るときは阡陌(せんびゃく)群を成し、隠隠轟轟(いんいん・ごうごう)亦何の利益か有る。臨終に皆悔ゆ」等云云。
 弘の七に云く「鄴洛の禅師とは鄴(ぎょう)は相州に在り、即ち斉魏(せいぎ)の都する所なり。大に仏法を興す。禅祖の一(はじめ)なり。其の地を王化す。時人の意を護りて其の名を出さず。洛は即ち洛陽(らくよう)なり」等云云。
 六巻の般泥洹(はつないおん)経に云く「究竟(くきょう)の処を見ずとは彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見ざるなり」等云云。妙楽云く「第三最も甚だし、転(うたた)識り難きが故に」等。無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始めの三類を見るべからず。一分の仏眼を得るもの・此れをしるべし。「向国王大臣・婆羅門居士(ばらもん・こじ)」等云云。東春に云く「公処に向い・法を毀(そし)り・人を謗ず」等云云。夫れ昔・像法の末には護命・修円等、奏状(そうじょう)をささげて伝教大師を讒奏(ざんそう)す。今末法の始めには良観・念阿等偽書を注して将軍家にささぐ。あに三類の怨敵にあらずや。

 当世の念仏者等、天台法華宗の檀那の国王・大臣・婆羅門・居士等に向つて云く「法華経は理深、我等は解微(げみ)。法は至つて深く・機は至つて浅し」等と申しうとむるは高推聖境(こうすい・しょうきょう)・非己智分(ひこちぶん)の者にあらずや。禅宗の云く「法華経は月をさす指、禅宗は月なり、月をえて指なにかせん。禅は仏の心、法華経は仏の言(ことば)なり。仏・法華経等の一切経をとかせ給いて後、最後に一ふさの華をもつて迦葉一人にさづく。其のしるしに仏の御袈裟を迦葉に付属し乃至付法蔵の二十八・六祖までに伝う」等云云。此等の大妄語・国中を誑酔(おうすい)せしめて・としひさし。又天台・真言の高僧等、名は其の家にえたれども我が宗にくらし。貪欲(どんよく)は深く・公家武家を・をそれて此の義を証伏(しょうふく)し讃歎す。昔の多宝・分身の諸仏は法華経の令法久住を証明す、今天台宗の碩徳(せきとく)は理深解微を証伏せり。かるがゆへに日本国に但法華経の名のみあつて得道の人一人もなし。誰をか法華経の行者とせん。寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶はかずをしらず、公家・武家に諛(へつら)うて・にくまるる高僧これ多し。此等を法華経の行者というべきか。

 仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり。金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし。いかがせん・いかがせん。抑(そもそも)たれやの人か衆俗に悪口罵詈(あっく・めり)せらるる、誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する、誰の僧か数数見擯出(さくさく・けんひんずい)と度度ながさるる。日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これを・すて給うゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん。
 仏と提婆とは身と影とのごとし、生生にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓(けか)・同時なるがごとし。法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし、一眼の亀の浮木に値うなるべし。

 有る人云く、当世の三類はほぼ有るに・にたり。但し法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば・大いなる相違あり。此の経に云く「天の諸の童子、以て給使(きゅうじ)を為さん。刀杖(とうじょう)も加えず、毒も害すること能(あた)わざらん」又云く「若し人・悪罵(あくめ)すれば、口則ち閉塞(へいそく)す」等。又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云。又「頭破(こうべ・わ)れて七分と作ること・阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出だせば、若しは実にもあれ・若しは不実にもあれ、此の人・現世に白癩(びゃくらい)の病を得ん」等云云。
 答えて云く、汝が疑い大いに吉(よ)し、ついでに不審(ふしん)を晴さん。
 不軽品に云く「悪口罵詈(あっくめり)」等。又云く「或は杖木瓦石(がしゃく)を以て之を打擲(ちょうちゃく)す」等云云。
 涅槃経に云く「若しは殺・若しは害」等云云。
 法華経に云く「而かも此の経は如来の現在すら猶怨嫉(おんしつ)多し」等云云。
 仏は小指を提婆にやぶられ・九横の大難に値い給う、此は法華経の行者にあらずや。不軽菩薩は一乗の行者といはれまじきか。目連(もくれん)は竹杖(ちくじょう)に殺さる、法華経記莂(きべつ)の後なり。付法蔵の第十四の提婆菩薩、第二十五の師子尊者(ししそんじゃ)の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか。竺(じく)の道生(どうしょう)は蘇山(そざん)に流されぬ、法道は火印(かなやき)を面(かお)にやいて江南にうつさる、此等は一乗の持者にあらざるか。外典の者なりしかども白居易(はくきょい)・北野の天神は遠流(おんる)せらる、賢人にあらざるか。
 事の心を案ずるに、前生に法華経・誹謗の罪なきもの、今生に法華経を行ず。これを世間の失(とが)によせ・或は罪なきをあだすれば忽(たちまち)に現罰あるか。修羅が帝釈をい(射)る、金翅鳥(こんじちょう)の阿耨池(あのくち)に入る等、必ず返つて一時に損ずるがごとし。天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る。今生の修福(しゅうふく)は報(むくい)将来に在り」等云云。心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云。不軽品に云く「其の罪畢已(おわって)」等云云。不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石(がしゃく)をかほるとみへたり。又順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし、一闡提人(いっせんだいにん)これなり。

 涅槃経に云く「迦葉(かしょう)菩薩・仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊・仏の所説の如く大涅槃の光・一切衆生の毛孔に入る」等云云。又云く「迦葉菩薩、仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊云何(いか)んぞ未だ菩提の心を発さざる者・菩提の因を得ん」等云云。
 仏・此の問を答えて云く「仏・迦葉に告わく、若し是の大涅槃経を聞くこと有つて我・菩提心を発すことを用いずと言つて正法を誹謗せん。是の人即時に夜・夢の中に羅刹(らせつ)の像(かたち)を見て心中怖畏(ふい)す。羅刹語つて言く、咄(つたな)し善男子、汝今若し菩提心を発(おこ)さずんば・当に汝が命を断つべし。是の人惶怖(きょうふ)し寤(さ)め已つて即ち菩提の心を発す。当に是の人是れ大菩薩なりと知るべし」等云云。
 いたう(甚)の大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず。又云く「枯木(こぼく)・石山(しゃくせん)」等。又云く「燋種甘雨(しょうしゅ・かんう)に遇(あ)うと雖も」等、又「明珠淤泥(みょうじゅ・おでい)」等。又云く「人の手に創(きず)あるに毒薬を捉(と)るが如し」等。又云く「大雨空に住せず」等云云。此等多くの譬へあり。
 詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。例せば夏の桀(けつ)・殷(いん)の紂(ちゅう)の世には天変なし、重科(じゅうか)有って必ず世ほろぶべきゆへか。又守護神・此国をすつるゆへに現罰なきか。謗法の世をば守護神すて去り・諸天まほるべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還つて大難に値うべし。金光明経に云く「善業(ぜんごう)を修する者は日日に衰減(すいげん)す」等云云。悪国・悪時これなり。具(つぶ)さには立正安国論にかんがへたるがごとし。

 詮(せん)ずるところは天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)の責めを堪えざるゆへ。久遠大通(くおん・だいつう)の者の三五の塵をふる、悪知識に値うゆへなり。善に付け・悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん、日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚(くび)を刎(はね)ん、念仏申さずば・なんどの種種の大難・出来すとも、智者に我義やぶられずば用(もち)いじとなり。其の外の大難・風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。

 疑つて云く、いかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ。
 答えて云く、銅鏡(どうきょう)は色形を顕わす、秦王(しんのう)験偽(けんぎ)の鏡は現在の罪を顕わす、仏法の鏡は過去の業因を現ず。
 般泥洹(はつないおん)経に云く「善男子・過去に曾て無量の諸罪・種種の悪業を作るに、是の諸の罪報は・或は軽易(きょうい)せられ・或は形状醜陋(ぎょうじょう・しゅうる)・衣服足らず・飲食麤疎(おんじき・そそ)・財を求むるに利あらず・貧賤の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん。現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由(よ)るが故なり」云云。
 此の経文・日蓮が身に宛(あたか)も符契(ふけい)のごとし。狐疑(こぎ)の氷とけぬ。千万の難も由なし。一一の句を我が身にあわせん。
 「或被軽易(わくひ・きょうい)」等云云。法華経に云く「軽賤憎嫉(きょうせん・ぞうしつ)」等云云、二十余年が間の軽慢(きょうまん)せらる。或は形状醜陋(しゅうる)。又云く「衣服不足」は予が身なり「飲食麤疎」は予が身なり「求財不利(ぐざいふり)」は予が身なり「生貧賤家」は予が身なり「或遭王難(わくぞう・おうなん)」等、此の経文疑うべしや。法華経に云く「数数擯出(しばしば・ひんずい)せられん」此の経文に云く「種種」等云云。「斯由(しゆい)護法・功徳力故」等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず。今止観を修して健病虧(ごんびょう・かけ)ざれば生死の輪を動ず」等云云。又云く「三障四魔・紛然(ふんぜん)として競い起る」等云云。

 我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず。当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたう(倒)すがごとし。又法華経の行者の頚(くび)を刎(はねる)こと其の数をしらず。此等の重罪はたせるもあり、いまだ・はたさざるも・あるらん。果たすも余残いまだ・つきず。生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし。功徳は浅軽(せんきょう)なり、此等の罪は深重なり。権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず。鉄(くろがね)を熱(やく)にいた(甚)う・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる。麻子(あさのみ)を・しぼるに・つよくせめざれば油少なきがごとし。

 今・日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来たるは、過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値わざれば黒し、火と合いぬれば赤し。木をもつて急流(はやきながれ)をかけば波・山のごとし。睡(ねむ)れる師子に手をつくれば大いに吼(ほ)ゆ。

 涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し。居家救護(こけ・くご)の者有ること無く、加うるに復病苦・飢渇(けかち)に逼(せ)められて遊行乞丐(ゆぎょう・こつがい)す。他の客舎に止まり一子を寄生す。是の客舎の主・駈逐(くちく)して去らしむ。其の産して未だ久しからず。是の児を擕抱(けいほう)して他国に至らんと欲し其の中・路に於て悪風雨に遇って寒苦並び至り、多く蚊虻(もんもう)・蜂螫(ほうしゃ)・毒虫の唼(す)い・食う所となる。恒河(ごうが)に逕由(けいゆ)し・児を抱いて渡る。其の水・漂疾(ひょうしつ)なれども而も放ち捨てず。是に於て母子・遂に共倶(とも)に没しぬ。是くの如き女人・慈念の功徳、命終の後・梵天に生ず。
 文殊師利、若し善男子有つて正法を護らんと欲せば、彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に・身命を捨つるが如くせよ。善男子・護法の菩薩も亦是くの如くなるべし。寧(むし)ろ身命を捨てよ。是くの如きの人・解脱を求めずと雖も、解脱自(おのずか)ら至ること・彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云。
 此の経文は章安大師・三障をもつて釈し給へり、それをみるべし。貧人とは法財のなきなり。女人とは一分の慈ある者なり。客舎とは穢土(えど)なり、一子とは法華経の信心・了因の子なり。舎主駈逐(しゃしゅ・くちく)とは流罪せらる、其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず。悪風とは流罪の勅宣(ちょくせん)なり、蚊虻(もんもう)等とは諸の無智の人有り・悪口罵詈(めり)等なり。母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎(はね)らるるなり。梵天とは仏界に生るるをいうなり。
 引業(いんごう)と申すは仏界までかはらず。日本・漢土の万国の諸人を殺すとも五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふ(経)べし。色天に生るること万戒を持てども・万善を修すれども・散善にては生れず。又梵天王となる事・有漏(うろ)の引業の上に慈悲を加えて生ずべし。
 今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る、常の性相には相違せり。章安の二はあれども、詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし。念を一境にする・定に似たり・専(もっぱら)子を思う・又慈悲にも・にたり。かるがゆへに他事なけれども天に生るるか。又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但(ただ)天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ。

 此の一念三千も我等一分の慧解(えげ)もなし。而(しかれ)ども一代経経の中には此の経計り・一念三千の玉をいだけり。余経の理は玉に・にたる黄石(こうせき)なり。沙(いさご)をしぼるに油なし、石女(うまずめ)に子のなきがごとし。諸経は智者・猶仏にならず、此の経は愚人も仏因を種(うゆ)べし。「不求解脱・解脱自至」等と云云。

 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕(ちょうせき)教えしかども、疑いを・をこして皆すてけん。つた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし。
 妻子を不便(ふびん)と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん。多生曠劫(たしょう・こうごう)に・したしみし妻子には心と・はなれしか、仏道のために・はなれしか。いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。

 疑つて云く、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍(あらそ)う心あり、修羅道にや堕つべかるらむ。又法華経の安楽行品に云く「楽(ねが)つて人及び経典の過(とが)を説かざれ、亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝・此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか。
 答て云く、止観に云く「夫れ仏に両説あり一には摂(しょう)。二には折(しゃく)。安楽行に長短を称せずといふが如きは是れ摂の義なり。大経に刀杖を執持(しゅうじ)し乃至首を斬れという、是れ折の義なり。与奪(よだつ)・途(みち)を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云。
 弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く、正法を護る者は五戒を受けず。威儀を修せず・乃至下の文仙予国王等の文。又新医・乳を禁じて云く、若し更に為すこと有れば・当に其の首を断つべし。是くの如き等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり。一切の経論・此の二を出でず」等云云。




by johsei1129 | 2019-10-12 14:56 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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