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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 05日

日蓮大聖人自らが末法の本仏であることを明かした書【開目抄】 (上) その二

[開目抄(上) 本文] その二
 かくのごとく巧(たくみ)に立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。玄とは黒なり・幽なり。かるがゆへに玄という。但現在計り・しれるににたり。現在にをひて仁義を制して身をまほり・国を安んず。此(これ)に相違すれば族(やから)をほろぼし・家を亡ぼす等いう。此等の賢聖の人人は聖人なりといえども、過去を・しらざること凡夫の背を見ず、未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし。
 但現在に家を治め・孝をいたし、堅く五常を行ずれば傍輩(ほうばい)も・うやまい名も国にきこえ、賢王もこれを召して或は臣となし・或は師とたのみ・或は位をゆづり天も来て守りつかう。所謂周の武王には五老きたりつかえ、後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此(これ)なり。
 而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世(ごせ)をもたすけず、不知恩の者なり、まことの賢聖にあらず。孔子が此の土に賢聖なし・西方に仏図(ふと)という者あり・此(これ)聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教へて内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教て尊卑(そんぴ)をさだめ、父母を教へて孝の高きをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。妙楽大師云く「仏教の流化・実に茲(ここ)に頼る。礼楽前(さ)きに馳せて真道後に啓(ひ)らく」等云云。天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識(し)れば即ち是れ仏法なり」等云云。止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹(しんたん)を化す」等云云。弘決(ぐけつ)に云く「清浄法行経に云く、月光菩薩・彼(かしこ)に顔回と称し、光浄菩薩・彼に仲尼(ちゅうじ)と称し、迦葉菩薩・彼に老子と称す。天竺より此の震旦(しんたん)を指して彼と為す」等云云。

 二には月氏の外道。三目八臂(はっぴ)の摩醯首羅(まけいしゅら)天、毘紐(びちゅう)天、此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す。迦毘羅(かぴら)・漚楼僧佉(うるそうぎゃ)・勒娑婆(ろくしゃば)、此の三人をば三仙となづく。此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり。此の三仙の所説を四韋陀(いだ)と号す、六万蔵あり。乃至・仏・出世に当つて六師外道、此の外経を習伝して五天竺の王の師となる。支流・九十五六等にもなれり。一一に流流(るる)多くして我慢の幢(はたほこ)高きこと非想天(ひそうてん)にもすぎ、執心の心の堅きこと金石にも超えたり。其の見の深きこと・巧みなるさま儒家には・にるべくもなし。或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる。
 其の所説の法門の極理、或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果(やくうか)・亦無果(やくむか)等云云。此れ外道の極理なり。所謂(いわゆる)善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏(うろ)の禅定を修し、上・色・無色をきわめ、上界を涅槃と立て屈歩虫(くっぷちゅう)のごとく・せめのぼれども、非想天より返つて三悪道に堕つ。一人として天に留(とどま)るものなし。而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり。各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日に三度・恒河(ごうが)に浴し・或は髪をぬき・或は巌(いわお)に身をなげ・或は身を火にあぶり・或は五処をやく、或は裸形(あかはだか)・或は馬を多く殺せば福をう・或は草木をやき・或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。しかれども外道の法・九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。外道の所詮は内道に入る即ち最要なり。或外道云く「千年已後・仏出世す」等云云。或外道云く「百年已後・仏出世す」等云云。大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云。法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず。我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。

 三には大覚世尊は此(これ)一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり。外典・外道の四聖・三仙、其の名は聖なりといえども実には三惑未断(さんなくみだん)の凡夫、其の名は賢なりといえども実に因果を弁(わきまえ)ざる事・嬰児(えいじ)のごとし。彼を船として生死の大海をわたるべしや、彼を橋として六道の巷(ちまた)こゑがたし。我が大師は変易猶(へんにゃく・なお)・わたり給へり、況んや分段の生死をや。元品の無明の根本、猶かたぶけ給へり、況んや見思枝葉の麤惑(そわく)をや。此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間、一代の聖教を説き給へり。一字一句・皆真言なり、一文一偈・妄語にあらず。外典・外道の中の聖賢の言(ことば)すらいうこと・あやまりなし。事と心と相符(あいあ)へり。況んや仏陀は無量曠劫(こうごう)よりの不妄語の人、されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり・大人の実語なるべし。初成道の始めより泥洹(ないおん)の夕べにいたるまで、説くところの所説・皆真実なり。
 但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘(かんがえ)たるに小乗あり・大乗あり・権経あり・実経あり・顕教・密教・輭語(なんご)・麤語(そご)・実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の正言なり、三世・十方の諸仏の真言なり。大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河(ごうが)の諸経を未顕真実(みけんしんじつ)、八年の法華は要当説真実と定め給しかば、多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す。分身の諸仏・来集して長舌を梵天(ぼんてん)に付く。此の言・赫赫(かくかく)たり・明明たり。晴天の日よりも・あきらかに、夜中の満月のごとし。仰いで信ぜよ・伏して懐(おも)うべし。

 但(ただ)し此の経に二箇の大事あり。倶舎(くしゃ)宗・成実(じょうじつ)宗・律宗・法相(ほっそう)宗・三論宗等は名をもしらず。華厳宗と真言宗との二宗は偸(ひそか)に盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり。竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず。但我が天台智者のみこれをいだけり。

 一念三千は十界互具よりことはじまれり。法相と三論とは八界を立てて十界をしらず。況(いわん)や互具をしるべしや。倶舎・成実・律宗等は阿含(あごん)経によれり。六界を明めて四界をしらず。十方唯有(ゆいう)一仏と云つて一方有仏だにもあかさず。一切有情(いっさいうじょう)・悉有仏性(しつうぶっしょう)とこそ・とかざらめ・一人の仏性猶ゆるさず。而るを律宗・成実宗等の十方有仏・有仏性なんど申すは仏滅後の人師等の大乗の義を自宗に盗み入れたるなるべし。例せば外典・外道等は仏前の外道は執見あさし。仏後の外道は仏教をききみて自宗の非をしり、巧(たくみ)の心・出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もつとも・ふかし。附仏教(ふぶっきょう)・学仏法成(がくぶっぽうじょう)等これなり。
 外典も又又かくのごとし。漢土に仏法いまだ・わたらざりし時の儒家・道家は・いういうとして嬰児(えいじ)のごとく・はかなかりしが、後漢・已後に釈教わたりて対論の後、釈教やうやく流布する程に、釈教の僧侶・破戒のゆへに或は還俗(げんぞく)して家にかへり、或は俗に心をあはせ・儒道の内に釈教を盗み入れたり。止観の第五に云く「今世多く悪魔の比丘有つて戒を退き・家に還(かえ)り、駈策(くさく)を懼畏(くい)して更に道士に越済(おっさい)す。復た名利を邀(もとめ)て荘老を誇談(かだん)し、仏法の義を以て偸(ぬす)んで邪典に安(お)き、高を押して下(ひくき)に就け・尊を摧(くだ)いて卑に入れ、概して平等ならしむ」云云。弘に云く「比丘の身と作つて仏法を破滅す。若しは戒を退き・家に還(かえ)るは衛(えい)の元嵩(げんすう)等が如し。即ち在家の身を以て仏法を破壊(はえ)す。此の人・正教を偸竊(ちゅうせつ)して邪典に助添(じょてん)す。押高(おうこう)等とは道士の心を以て二教の概(とかき)と為し、邪正をして等しからしむ。義・是の理無し。曾(か)つて仏法に入つて正を偸(ぬす)んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下(ひく)きに就け、用(も)つて彼の典の邪鄙(じゃひ)の教を釈するを摧尊入卑(さいそんにゅうひ)と名く」等云云。此の釈を見るべし、次上の心なり。

 仏教又かくのごとし。後漢の永平に漢土に仏法わたりて邪典やぶれて内典立つ。内典に南三・北七の異執(いしゅう)をこりて蘭菊(らんぎく)なりしかども、陳隋(ちんずい)の智者大師にうちやぶられて仏法・二(ふたた)び群類をすくう。其の後・法相宗・真言宗、天竺よりわたり・華厳宗又出来せり。此等の宗宗の中に法相宗は一向・天台宗に敵を成す宗・法門水火なり、しかれども玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)・慈恩大師・委細に天台の御釈を見ける程に、自宗の邪見ひるがへるかのゆへに自宗をば・すてねども、其の心天台に帰伏すと見へたり。華厳宗と真言宗とは、本は権経・権宗なり。善無畏三蔵・金剛智三蔵・天台の一念三千の義を盗みとつて自宗の肝心とし、其の上に印と真言とを加へて超過の心ををこす。其の子細をしらぬ学者等は天竺より大日経に一念三千の法門ありけりと・うちをもう。華厳宗は澄観が時、華厳経の心如工画師(しんにょくえし)の文に天台の一念三千の法門を偸(ぬす)み入れたり。人これをしらず。

[開目抄(上) 本文] その三につづく




by johsei1129 | 2019-10-05 20:34 | 開目抄(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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