2014年 10月 06日

小説「日蓮の生涯」下49  地頭の謗法

日興の困難はさらにつづく。

最大の事件はなんといっても日興が身延を去ったことだった。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、あえなく離山したのである。

波木井の邪義とは四つあった。日興は冷静にしるしている。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)有り是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知事』

  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地にいながら日蓮の精神を理解できなかった。仏法の理解は距離とは関係ないことがわかる。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したという。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候

日蓮滅後六年目の十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。


此の国をば念仏真言禅律の大謗法故大小守護の善神捨て去る間、其の跡のほ()らには大鬼神入り(かわ)りて国土に飢饉・疫病・蒙古国の三災連々として国土衰亡の由、故日蓮聖人の勘文関東三代に仰せ含められ候ひ(おわん)ぬ、此の旨こそ日蓮阿闍(あじゃ)()の所存の法門にて候へ、是を国のため世のため一切衆生のための故、日蓮阿闍梨仏の使いとして大慈悲を以って身命(しんみょう)を惜しまず申され候きと談して候

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。

この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

孫三郎の迷いはさめない。

師の日蓮は世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだといいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。


師がいない以上、われわれは師の書、いわゆる御書によって道を決めるべきなのだ。日興は熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後七年後のことである。

早くも七年にして日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。

入道殿聞こし()され候て民部阿闍梨に問はせ給ひ候ける程に、御返事申され候ひける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可しと申され候ひけるに依って入道殿深く此の旨を御信仰の間、日興参入して問答申すの処に案の如く少しも違わず民部阿闍梨の(おしえ)なりと仰せの候しを、日興此の事ははや天魔の所為なりと存じ候て少しも恐れ(まい)らせず、いかに謗法の国を捨てゝ還らずとあそばして候守護神を、御弟子の民部阿闍梨参詣する(ごと)に来会す可しと候は師敵対七逆罪に候はずや、加様にだに候はゞ彼の阿闍利を日興が帰依し奉り候はゞ、其の(とが)日興(のが)れ難く覚え候、自今(いまより)以後かゝる不法の学頭をば(ひん)(ずい)す可く候と申す。

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜びのあまり、彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)にて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書』


余談になるが、この神社不参拝に決着をつけることができなかったことが、のちの日本に禍根をもたらす。

この六百年後、江戸幕府にかわった明治政府は天皇を中心とした国家体制を余儀なくされた。列強に対抗するために一刻も早く日本国を一つにまとめなければならない。根底に国民の意識を天皇にむけさせる必要がある。この方法としてとられたのが天皇を神とする神道の強化だった。

権力はもちろん、人々の意識のすみずみにまで天皇を中心にすえる。このためほかの宗教を排撃する画策をとりはじめた。

仏教はいちはやく除外の対象となった。廃仏毀釈の運動である。

まず神仏混淆を廃止した。それまでの神社は寺院と同居していた。いまの日本人はほとんど知らない。鎌倉の八幡宮には八幡宮寺という寺が同居していた。宇佐の八幡宮にも神宮寺という名の寺が同居していた。さらに神社を管理するのは神主ではなく僧侶だった。専門職の神主などいなかった。神主を兼ねた僧侶が神前で経を読み供養していたのである。

明治政府はこれを否定し、仏と神を完全に分離した。八幡大菩薩は八幡大神と改称された。これがいまの姿である。くわえて分離された仏教を徹底的に排除する扇動を開始した。

日本は聖徳太子以前の時代にもどってしまった。普遍を旨とする仏法の精神は失われ、せまい歴史観の神道にとってかわった。

一般に廃仏毀釈といえば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる政府主導の愚行となった。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために国中が混乱した。この騒乱は明治四年(一八七一年)ごろ終熄したが、影響は大きかった。

さらに一八七一年(明治四年)正月五日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き、寺や神社の領地が国に取り上げられた。それまでに暴力的な破壊をこうむっていた寺院がこれにより経済的な基盤を失い、一層困窮し、荒廃することになった。

廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

こうして西暦五三八年の欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教伝来以降、日本の精神基盤であった仏教を排斥し、国家神道という偏狭なナショナリズムに傾倒した昭和の軍事政権により、日本は太平洋戦争に突入。ついには原爆の投下、敗戦をへて米軍の占領下に置かれることなり、実質的に国家主権を一時に失うことになった。

仏と神の関係を明確にしないまま開国となり、廃仏となり、国家神道の誕生となった。日本国はついに戦争に突入、有史以来はじめて外国による占領時代を迎えたのであ。

さて日蓮没後、(さね)(なが)は自由の身になったかのようにつぎつぎと謗法をおかす。実長は日蓮の法義を軽く見ていたとしか思えない。


やがて其の次に富士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。

富士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。

謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興からすれば信心が惰弱になったとしかうつらない。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候てさりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満左右大臣文武百官各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き

日興は日向にしばしば訓戒を垂れたが、きく耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教にはげんだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は師の本懐である三大秘法の本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると破折したが叶わなかった。


此れのみならず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠(くおん)実成(じつじょう)釈迦如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰も造り奉らず候に入道殿御微力を以って(かた)の如く造立(ぞうりゅう)し奉らんと(おぼ)()し立ち候に御用途も候はず、大国(だいこく)阿闍梨の奪ひ取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を作らせ給へと教訓し(まい)らせ給ひて固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は責めて故聖人安置の仏にて候はば、さも候なん、それも其の仏は上行等の脇士(きょうじ)も無く()(じょう)の仏にて候き、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転()(じょう)無常の仏のほしく渡らせ給ひ候べき、御力(かな)ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁出来し給ふまでは聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候しを軽しめたりとや(おぼ)()しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に進んで帰依し候甲斐に重んじ(まい)せたる高名(こうみょう)と存じ候は、聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん、いやしくも諂曲(てんごく)せず且つ経文の如くに聖人の(おおせ)の様に(いさ)め進らせぬる者かなと自讃してこそ存じ候へ。

実長は大黒阿闍梨に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。

日興は地頭の謗法に動じていない。師の法義をたもち、世に立てようとしたことに悔いはなく、むしろ誇りであるといいきっている。

大国阿闍梨とは日朗のことである。

彼は竜の口の法難のおり、入獄して日蓮から賛辞をうけたほどの高弟だったが、日蓮滅後は甲斐を去り日興に敵対した。

日朗が日蓮所持の仏像をなんのために盗みとったかは不明である。だが身延山の惨状を見れば、日朗にはほかになすべきことがあったのではないか。師の山の謗法を、なぜ漫然と見すごしたのか。

  下50 正法、危機に瀕す につづく

    

by johsei1129 | 2014-10-06 14:30 | Comments(0)


<< 小説「日蓮の生涯」下50 正法...      小説「日蓮の生涯」下45  日... >>