日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2014年 11月 30日

67 四条金吾の蘇生

翌日、四条金吾は大(よろい)に身を包み馬にまたがり、鎌倉大路をすすんだ。

鎧は古びれていた。金具も錆びている。今は晴れ姿ができるほどの余裕がない。

不満顔の爺が馬の口をとる。二人ともに険しい目だった。

沿道の人々が金吾の背中を見ながらささやきあった。

「あれは四条金吾様ではないか」

「なんとみすぼらしい馬に」

「主の不興を買ってあのありさまじゃ」

武者姿の家来が北条光時邸に集合していた。鎧を従者に直させる者がいる。談笑する武士もいる。主人の回復を祝うにぎやかさだった。

そこに金吾があらわれた。場内が一瞬、波が引いたように静まる。

武士の一人がなつかしい顔で近よった。

「これは金吾殿、ひさしぶりだのう。よくこられた」

だが大半の武士はあざけりの眼である。

島田入道が聞こえるように言った。

「ほう、どの(つら)さげてまいったかのう。主に見捨てられた侍ほど、みじめなものはないというが」

名越の主、北条光時が登場した。

武士が整然とならび、右手を床につけた。金吾は最後尾にいた。

主人光時は床几に腰をおろした。活力にあふれている。金吾はその姿を見ただけで満足だった。かつての主人である。元気な姿を見るのはうれしかった。自分はわずかながら主の恩をかえした。金吾は感傷的になったが満足だった。これで安心して決別ができる。

主人光時がまわりを見わたして告げる。

「みなの者。心配をかけたな。だが安心せい。病は回復いたした。わしは名越一門の柱として、ふたたび采配をふるうこととなった」

一同がよろこびの表情で声をあわせた。

「おめでとうございまする」

光時はうなずいたが一転、声を荒げた。

「ところで、ここに四条金吾はおるか」

場内がざわついた。

金吾がはるか遠くから返事をした。

「ここに」

光時が金吾をにらむ。

「まいれ」

金吾が姿勢を低くし、最前列にでて平伏した。ほかの武士は頭をさげたまま、笑いをうかべた。

光時がまなじりを怒らした。

「そのほう、このたびのいさかいにおいては、よくもこのわしを悩ましおったな。主の所存に従わんことこそ神仏の加護もあり、世間の礼にも手本となるもの。病がなくば手討ちにするところであったぞ」

ほとんどの武士が失笑した。金吾は叱責を受けに、わざわざ田舎からきたようなものだ。島田入道も山城も愉快で腹が痛くなるほどだ。

光時はさらに金吾をなじった。

「そしてなおかつ、わしが病に伏せていながら雲隠れするとはどういう了見だ。わしを見捨てたのか、この不忠義者めが」

だれもが金吾の破滅とみてとった。

だがここで光時の声がかわった。

「さりながら主君に不義ありとして所領を惜しむことなく、このわしを諫めたのは勇士のふるまいである。心にとめおくぞ」

意外な言葉である。
 全員が驚いて顔をあげた。

「主の横暴を諫めざるは忠臣でなく、死を恐れて言わざるは武士ではない。このたびの病が去ったのはそなたのおかげだ。頼基の信ずる法華経の力とわかったぞ」

主人の力強い叫びだった。

金吾が仰天した。顔をあげたが、あまりのことに返事ができない。

島田と山城が逆にうなだれてしまった。

金吾がやっとのことで叫んだ。

「殿、その武者ぶり、お見事でございますぞ」

光時がうなずく。

「取りあげた所領はいずれもとにもどすであろう。頼基、前にも増してこのわしに忠義をつくすか」

「よろこんで」

光時が金吾の姿をまじまじと見た。

「そのほうの鎧はなんだ。くすんでおるぞ。この晴れの日にふさわしからず。わしのを使え」

「かたじけのうございます」

金吾が人目をはばからず感涙にむせんだ。

光時は満足げだった。

「長き夜が明け、遠き道を帰りたるがごとし。さて本日は鎌倉殿と御対面である。われらが剛毅をお見せしようぞ。よいか」

武士団が豪快にこたえた。

鎌倉の人々が若宮大路の沿道をうめつくした。彼らは名越一族の行進を見るために集まっていた。

この中に土木常忍や日妙親子、太田乗明もいた。みな金吾を自分のことのように心配し、唱題を重ねていた。

名越光時の騎馬を先頭に華麗な武士団が行進する。まばゆい光景だった。

光時の供の侍は約二十五騎。その中にいちだんと輝くのは四条金吾だった。全身に生気をみなぎらせて悠然と進む。供の爺までが颯爽としている。

沿道の少年が金吾をさして歓声をあげた。

「金吾様だ。みろ、あれが四条金吾じゃ」

「男じゃ、男じゃ」

金吾の全身が光り輝いた。

この様子はすぐさま甲斐の日蓮に伝えられた。速報したのは円教房という弟子である。

日蓮はこの喜びを金吾への手紙にしたためている。

なによりも(うけたまわ)りてすゞ()しく()候事は、いくばくの御にく()まれの人の御出仕に、人かずに()()せられさせ給ひて、一日二日ならず、御ひまもなきよし、うれしさ申すばかりなし。(中略)殿のすね()()が間のにくまれ、去年(こぞ)の冬はかうと()ゝしに、かへりて日々の御出仕の御()も、いかなる事ぞ。ひとへに天の御(はか)らひ、法華経の御力にあらずや。其の上円教房のきたりて候ひしが申し候は、えま(江間)の四郎殿の御出仕に、御とものさぶらひ二十四五、其の中にしう()はさておきたてまつりぬ。ぬし()()()といひ、かを()・たま()ひ・()ま・下人までも中務のさえ(左衛)もん()じゃう()第一なり。()はれ()をと()こやと、かまくら(鎌倉)()べは()じちにて申しあいて候ひしとかたり候。  『四条金吾殿御書

日蓮の喜びが手にとるように浮かんでくる。

しかし喜ばない者もいた。

島田入道と山城入道が列のはるか後で金吾の背を見ていた。かつての敵の信じられない復活に、またも妬みの目が光った。

いっぽう日蓮は金吾の劇的な復活をよろこんだが、同時に金吾の身をいっそう案じた。いまや金吾の命をねらうのは島田や山城だけではなくなった。主の寵愛をうけた今となっては、同輩すべてが敵になったとおなじだった。

日蓮の心配の種はつきない。それだけに手紙はこと細かく、細心の注意をならべたてた。

出仕の心がまえ。放火の用心。酒盛りの注意。兄弟たちへの気くばり。女人へのあつかい。こんなことまでか、というくらい細部におよぶ。

()()()()()()されば今度はことに身をつゝしませ給ふべし。よる()はいかなる事ありとも、一人そと()へ出でさせ給ふべからず。たとひ上の御めし有りとも、まづ下人をごそ(御所)へつかわして、なひ()なひ()一定(いちじょう)をきゝさだめて、はら()まき()をきて、はちまき(鉢巻)し、先後左右に人をたゝて出仕し、御所のかたわらに心よせのやか()たか、又我がやかたかに、ぬぎおきてまいらせ給ふべし。家へかへらんには、さき()に人を入れて、()のわき・はし()のした・む()やのしり・たかどの一切くらきところをみせて入るべし。

 せうまう(焼亡)には、我が家よりも人の家よりもあれ、た()らををしみて、あわてゝ火をけすところへ、つっとよるべからず。まして走り出づる事なかれ。出仕より主の御ともして御かへりの時は、みかど(御門)より馬よりをりて、いとまのさしあうよし、()うぐわん()に申していそぎかへるべし。(かみ)のをゝせなりとも、()に入りて御ともして御所にひさしかるべからず。かへらむには、第一心にふかき()じん()あるべし。こゝをばかならずかたきのうかゞうところなり。人のさけ()()ばんと申すとも、あやしみて、あるひは言をいだし、あるひは用ひることなかれ。また御をとど(舎弟)どもには常はふびん(不便)のよしあるべし。つねにゆぜ(湯 銭)にざうり(草履)のあ( 価)いなんど心あるべし。もしやの事のあらむには、かたきはゆるさじ。我がためにい()ちをうしなはんずる者ぞかしとをぼして、()がありとも、せうせうの(とが)をばしらぬやうにてあるべし。又女るひはいかなる失ありとも、一向()うくん()までもあるべからず。ましていさ()かうことなかれ。『四条金吾殿御書(九思一言事):建治4年1月25日』

主人の館から帰宅するときが一番あぶないという。かならず襲ってくるという。また弟たちはいざというときに味方となってくれる。そのことを思って「ゆぜに」を与えよという。ゆぜにとは湯の代金のことであろう。当時、鎌倉には入浴料を支払う民衆のための銭湯(注)があったという。

日蓮は兄弟の草履の費用のことまで指図している。

気配りとはここまでするのかと思わずにはいられない。

日蓮は当時の僧侶の戒律どおり妻は設けていない。当然子供はいない。その意味で日蓮にとって弟子、信徒は布教という面では厳しい師であったが、一面ではいわば自身の子供のようなものだったろう。この手紙に記された金吾の安否を心配する日蓮の姿は、子供の安全を心配する普通の親の気持ちと全く変わりがない。この御書は、末法の本仏といえど人間を超えた存在ではないことを示している。

これは仏教の始祖釈尊にも言える。仏伝によると、不眠不休の修行をして盲目となり、その後天眼を得た十大弟子の一人阿那律が、衣を繕おうしたが針に糸が通らず困って「誰が手助けして功徳を積み幸せになりたい人はいないだろうか」と思っていたところ「私が功徳を積ましてもらいましょう」と、釈尊が声をかけたという。阿那律が恐縮すると釈尊は「私だって功徳を積んて幸福になりたいんだよ」と答えたという。日蓮と釈尊のこれらのエピソードは、仏とは人間を超えた超人ではなく、人間の本来あるべき姿、謂わば最も人間らしい人間であることを示していると言えよう。


     68 金吾への愛 につづく


下巻目次

 銭湯
: 日本に仏教伝来した時、僧侶が身を清めるため寺院に「浴堂」が設置されたという。仏教では病を退けて福を招来するとして僧侶の他、貧しい人や病人、囚人らに開放して入浴を施す「施湯」「湯施行」が行われ、やがて一般に解放され、次第に入浴料を取る「銭湯」と発展していった。



by johsei1129 | 2014-11-30 11:43 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)


<< 69 池上兄弟と三障四魔      68 金吾への愛 >>