日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 18日

16 時頼、日蓮を赦免

鎌倉の北条重時邸では極楽寺良観を招いて盛大な宴会がひらかれていた。

重時の妻冶部卿、子の長時、そして親族が酒肴を前に楽しんでいた。

豪華な膳に盃がおかれる。

重時がしたたかに酔った。

「いやはや、この日本国にわしほど幸せな武士はいないであろうな。北条の一門として生まれ、息子も執権となった。まわりからは羨望の目でみられている。そして今、老いて念仏にすがり、来世の極楽往生をまつだけじゃ。さいわいに良観上人にめぐりあい、自分の土地に寺を建てることができた」

良観が賛嘆する。

「殿の極楽往生はまちがいございませぬ。阿弥陀如来にかわってお約束いたしましょう」

「いやこれはありがたい。早く死にたいものだわ」

みなが大いに笑った。

良観もほほえんで感謝する。

「ところで先日のご配慮、殿にはお手数をおかけしました」

「なんであったかな」

「日蓮の件です」

「ああそれか、忘れておったわい。あの坊主、生きておるかのう」

「あの御坊には、ほとほと手を焼きました。わたくしは戒律を重点としておりますが、念仏や禅宗を否定はしませぬ。どんな宗派であれ、仏の教えをひろめて国を繁栄させるのが僧侶のつとめかと」

「いかにも」

「あの男の(とが)法華経を絶対として、われらを非難したことにあります。日蓮はすぐれた素質をもつ僧侶だけに惜しいことです」

「わしの目の黒いうち、日蓮は浮かばれまい。幕府もあの男を許しはせん。ご安心くだされ良観殿」

「たのもしいかぎりでございます。殿がご健在でおられるかぎり、極楽寺も安泰でございましょう」

「おやおや。わしはまだ死ねないらしいぞ」

一同が腹を抱えて爆笑する。夜が更けてもにぎやかな宴はいつ果てるともなく続いていた。

重時が機嫌よく席をたった。

「飲みすぎたようだ。(かわや)へいく」

重時がふらふらと廊下へでた。

良観が息子の長時に酒をついだ。

「さあ、おひとつ」

赤ら顔の長時がうける。

「かたじけのうござる」

良観はさっそく後継ぎに媚びた。

「殿は幕府の棟梁。殿の時代が長く続けば、極楽寺もいずれ関東一の名刹になります」

「存じておりまするとも」

長時は機嫌がよい。親の七光りで執権となった。苦労を知らない口ぶりである。

だが二人の目があった時、廊下でするどい悲鳴があがった。その響きは二人の酔いをさますほどだった。

一同がなにごとかと廊下にでた。

重時が痙攣(けいれん)して倒れている。
「父上」

長時があわててかけより、重時を抱きかかえた。

 重時が口から泡をふきだし、うめいている。突然のことだった。みなどうしてよいかわからない。長時の顔が青ざめている。喜びが絶頂だっただけに、その落ち込みぶりは目をおおうばかりだった。

翌朝、北条重時邸に見舞いの御家人がぞくぞくと入っていった。

彼らは控えの間でひそひそと話し込んでいる。

「急に倒れたとか。わからんものだのう。で、病名は」

(ぎゃく)病という噂だ。急に熱がでて突然うなされるとか。なにしろ(かわや)で化け物を見たそうな・・」

「良観殿に莫大な寄進をした結果がこれか」

「ところで先月、重時殿はあの日蓮御坊を伊豆に島流しにしたばかりだ。たたりではないのか」

御家人が指を立てた。

「しっ、声が大きい」

「ところで内密だが、時頼様もご病気とのことだ。鎌倉の主がかわるやもしれんぞ」

時おり、奥の部屋から重時のうめき声がひびいた。

重時は床でもだえ、苦しんでいた。

妻の冶部卿と子の長時が涙目で見守る。重時は初代執権・北条時政の孫で極楽寺殿と称された。一族は極楽寺流と称され、北条氏内部では得宗家に継ぐ家格を持っていた。その一族郎党が意気消沈した。

重時の病状が重態であることはまちがいなかった。

極楽寺良観も強力な後ろ盾ての悲運に、不安げな顔を隠せないでいた。

突然の悲劇だった。つい昨日までよろこびに満ちていた空気が一瞬にして去り、苦衷が舞いこんだ。

極楽寺良観は苦しむ重時のそばで手をあわせた。立場上、祈りで病魔をのぞかねばならない。

その時だった。

重時が布団から手をだし、良観の手をにぎった。その手が真っ黒に変色している。

女たちが悲鳴をあげた。

重時がうめく。

「助けてくだされ良観殿。いくら祈祷してもよくならぬ。なぜじゃ。わしほど念仏を大事にした者はおらぬはず」

「重時様、もう少しの辛抱ですぞ。極楽寺の大檀那、重時様には必ず阿弥陀如来のご加護があります

重時が良観の手をきつく握る。

良観が思わず顔をしかめ、力ずくでほどいた。

ここで重時がはじめて疑いの目をむけた。

重時はうめきながら良観を見すえた。


重時邸では途切れることなく念仏の声がひびいていた。その声に重時のうめき声がまじった。

臨終が近づいた。

重時は床で真っ黒になった腕を高くあげ、もがいた。

まわりで家族が泣き叫ぶ。

良観がその横で幾十人の弟子とともに念仏を唱えた。

高くあげた重時の黒い手がゆっくりと床にさがった

子の長時が叫んだ。

「父上」

家族が重時にとりすがった。

良観と弟子たちも集まり、死相をまじまじと見た。

顔が黒くなっていく。重時は首をねじまげ、良観を凝視したまま絶命した。

六十三年の生涯だった。

良観の弟子たちがおびえた。その中の一人が死相の異様さに思わずつぶやく。

「死してのち黒きは地獄の相。黒色は地獄の(かげ)にたとえると・・」

良観がうろたえる弟子の腕をつかんでにらむ。

「重時様は成仏した。念仏を唱えきって極楽浄土にいかれた。静かな最後であったと伝えるのだ。忘れるな、よいか」
重時は床で真っ黒になった腕を高くあげ、もがいた。

まわりで家族が泣き叫ぶ。

良観がその横で幾十人の弟子とともに念仏を唱えた。

高くあげた重時の黒い手がおりていく。

子の長時が叫んだ。

「父上」

家族が重時にとりすがった。

良観と弟子たちも集まり、死相をまじまじと見た。

顔が黒くなっていく。重時は首をねじまげ、良観を凝視したまま絶命した。六十三年の生涯だった。

良観の弟子たちがおびえた。その中の一人が死相の異様さに思わずつぶやく。

「死してのち黒きは地獄の相。黒色は地獄の(かげ)にたとえると・・」

良観がうろたえる弟子の腕をつかんでにらむ。

「重時様は成仏した。念仏を唱えきって極楽浄土にいかれた。静かな最後であったと伝えるのだ。忘れるな、よいか」
 弘長元年(一二六一年)十一月三日、極楽寺良観の意を汲み日蓮を伊豆流罪に処した重時は、病に倒れて以降五カ月間、熱と悪寒に苦しみぬいてこの世を去った。


いっぽう北条時頼邸では兵隊が建物のまわりを厳重に固めていた。異変は明らかだった。

寝室で時頼が床に伏せている。目はつぶったままだった。まだ三十七歳である。

そばには時宗・時輔の兄弟と安達泰盛が見守った。

安達泰盛は外様御家人の筆頭である。この時三十歳。安達一族は和田、三浦氏二人の有力な御家人を滅ぼし、北条の独裁を確立した功績があった。御家人で泰盛の右に出るものはいなくなった。

時頼の正室葛西(かさい)殿、さらに側室の讃岐局もいた。葛西がのちの八代執権時宗を産み、讃岐が時宗の異母兄となる時輔を産んだ。

時頼が目をあけた。時宗、時輔の兄弟が一瞬顔を見合わせ同時につぶやいた。

「父上」

時頼が咳をしながら半身をおこした。

「これも宿命というものだ。わしは長くはない。だが成すことは成しとげた。北条を守るため、いくたの敵を討ちたおした。もはやなにも後悔はない」

時頼がまわりを見わたす。

「あとはわが幕府をいかにつづけるかだ。泰盛」

安達泰盛がすすみでる。

「のちのちは、この時宗を執権につけよ」

「かしこまりましてござる」

長子の時輔が口をはさんだ。

「父上、わたしは・・」

時頼は兄をなだめた。

「はじめから北条の跡取りは時宗と決めていた。時輔、おぬしは弟を補佐せよ」

時輔が憤然とでていった。

無理もない。

長兄として育てられた。自分が跡をつぐのは当然だと思っていた。

時頼は時輔を実の子かどうか疑っていたという。であるならば、胆力にもすぐれた嫡子時宗しか後継者はいない。

時頼が時宗を見つめ、まわりに聞こえるようにいった。

「おまえの兄は必ず敵にまわるだろう。だが安心せい」

時頼が配下に指図した。

(へい)左衛門尉(さえもんのじょう)を呼べ」

瞬間、安達泰盛が手をついて時頼にささやいた。

「殿、左衛門尉は性凶悪にして危険でございます。あやつを北条に組み入れることは大いに問題あるかと」

時頼は沈黙したままだった。

平頼綱が門をくぐった。警備の武士がおののいた。

若い頼綱が傲岸な表情ですすむ。人相は、眼光鋭い細い目と強い意志力を象徴するかのような鷲鼻(わしばな)をもっていた。背は低かったという。

 平頼綱、人は彼を平の左衛門尉と呼んだ。執権北条氏に仕える御内人である。家令ともいう。この時、若干二十歳。

彼の祖父盛時は源頼朝の側近だった。秘書といってよい。多忙な頼朝の祐筆として鎌倉幕府の意志を全国に伝える下知を代筆した。吾妻鏡にも盛時が活躍する記録がのこされている。その子守綱は北条泰時、経時、時頼の三代に仕えた。この父の跡を継いだ頼綱は時宗の側近となる。頼綱は若年ながら、すでに鎌倉幕府を補佐する身内人の筆頭格だった。

先祖はもともと幕府の平の事務官である。なんの力もなかったが、頼朝のあとをうけて権力争いに血眼になった北条一族が和田、三浦などの有力御家人を滅ぼしたために、側用人として重用され強大となった。

北条が独裁者になっていくのと同時に側近が力をつけるのは自然の成りゆきである。独裁者の指示がつねに側近からでるためだ。外様御家人の没落とともに、頼綱のような御内人(みうちびと)が進出してきたのである。今や御家人で平頼綱に対抗できるのは安達泰盛しかいなかった。

その頼綱があたりを見回しながらすすむ。

彼の一族は百人とも二百人ともいわれる。その代表として威風は完全にまわりを見くだしていた。

彼は主人時頼の前にすすみでた。
 泰盛が憎々しげに頼綱を見る。安達泰盛は御家人の代表、頼綱は御内人の代表である。よって立つ場所がちがう。両者の反目は宿命である。

「お呼びでございましたか」

「左衛門の(じょう)、おぬしの家は代々北条を守ってきた。わしのあとも、この時宗を柱として、あらゆる敵から守るのだ」

左衛門の尉が慇懃(いんぎん)答える。

「かしこまってござる。北条の執事として」
 と言ったところで、彼は泰盛ら御家人を見まわした。

「時宗様に刃むかう者は、必ず亡きものにいたしましょう」

その場にいた御家人衆は左衛門の尉のこの一言で震えあがった

時頼はほっとして床につき、意外なことをいった。

「わしの最後の遺命だ、日蓮を赦免せよ」

「日蓮を赦免と」

泰盛が驚き、思わず声を出す。

「殿、日蓮は幕府を騒がしたかどで伊豆に流しております。なにゆえお許しに」

時頼は天井を見ていう。

「早まったことをした。ためしに罰を与えたが、あの僧はわれらに害はないはず。まわりの者がいうのに従ったが、明らかな目で見れば罪はない。わしも最後が近くなった。心のこりになることは死ぬ前にすべて片づけたい」 

泰盛が反論する。

「日蓮は殿のまつりごとを批判した男でございますぞ。なにとぞご再考を」

時頼がにやりとした。

「わしの部下は大勢いる。みな仕えているようにみえる。だがわしに意見する者は一人もおらぬ。あの剛直な日蓮は許しておけ。いずれはわれらの味方になるやもしれぬ」

時頼が目をつぶった。

時宗は、父の命はもはやこれまでかと覚悟し叫んだ。

「父上」

しかし弘長三年(一二六三年)二月、日蓮の赦免を下した後、時頼は奇跡的に回復した。

彼は時宗の成長を見ながら九か月後の十一月二十二日に亡くなる。三十七歳の若さだった。

 日蓮は時頼の伊豆流罪赦免について後に次のように記している。


 きり()もの()ども・よりあひて()うど()等をかたらひて数万人の者をもつて夜中にをしよせ(うしな)わんとせしほどに・十羅刹の御計(おんはか)らいにてやありけん、日蓮其の難を脱れしかば・両国の()・心をあわ()せたる事なれば殺されぬを・()がにして伊豆の国へながされぬ、最明寺殿(ばか)りこそ子細(しさい)あるかとをもわれて、いそ()ゆる()されぬ。『破良観等御書』 

    

訳「権力を持つ者どもが集まり、町人等を唆し、数万人の者が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を亡き者にしようとしたが、十羅刹のご加護であろうか、日蓮はその難をのがれた。そこで、相模と伊豆の両国の役人等が示し合わせ、殺されなかったことを咎にして伊豆の国に流罪されたのである。最明寺殿(時頼)だけは冤罪(えんざい)ではないかと思われ、早々に赦免されたのです。


日蓮は弘長三年二月二十三日、鎌倉に帰還する。

赦免された日蓮が伊豆をたち、相模の道をゆく。

遠くに鎌倉の山々がみえた。

日蓮と日興の師弟は胸をはって街道を歩く。

晴れて法華経布教の原点そして日本の権力の中心である鎌倉にかえるのだ。胸をはらずにはいられなかった。

伊豆法難は日蓮にとって一大転機となった。安房の領主、工藤吉隆にあてた手紙がのこる。

此の身に学文つかまつりし事、やうやく二十四五年にまかりなるなり。法華経を(こと)に信じまいらせ候ひし事は、わづかにこの六七年よりこのかたなり。又信じて候ひしかども()(たい)の身たる上、(あるい)は学文と云ひ、或は世間の事に(障 )えられて、一日わづかに一巻・一品(いっぽん)・題目計りなり。去年(こぞ)の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて(これ)(ほど)の悦びは何事か候べき。凡夫の習い、我とはげみて菩提(ぼだい)(しん)()こして後世を願ふといへども、自ら思ひ出だし、十二時の間に一時二時こそはげみ候へ。是は思ひ出ださぬにも御経をよみ、読まざるにも法華経を行ずるにて候か。無量劫(むりょうこう)の間、六道四生輪回(りんね)し候ひけるには、或は謀反(むほん)をおこし、強盗夜打(ごうとうようち)等の罪にてこそ国主より(いましめ)をも(こうむ)り流罪死罪にも行なはれ候らめ。是は法華経を弘むるかと思ふ心の強盛なりしに依って、悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられて、かゝる身になりて候へば、定めて後生(ごしょう)の勤めにはなりなんと覚え候。是程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の()経者(きょうしゃ)は、末代には有りがたくこそ候らめ。 『四恩抄

粗訳

これまでは一日わずかに一巻・一品(いっぽん)・題目ばかり読誦しておりましたが、流罪となったことで昼夜十二時(注)、法華経を修行するようになりました。悪業の衆生に讒言(ざんげん)せられてこのような身になりましたが、必ず来世への善行となることでしょう。このような志を昼夜十二時、(たゆ)まず保つ法華経の行者は、末法には存在し難いことです


一行が若宮大路をゆく。松葉ケ谷の館に近づくと、日蓮を知る通行人が驚いて声をあげる。「皆の衆、日蓮上人が元気に戻ってきた」


 日蓮と日興は感慨深げに館の前にたたずむ。

熊王少年が一行を見つけ、一目散で日蓮に抱きついた。

商店の女が声をかける。

「お帰りなさい。上人様」

皮肉なものだ。

鎌倉を出る時、人々は罵倒したが、赦免されると手のひらをかえしたように祝った。

館には百名になんなんとする信徒が日蓮の帰りをまっていた。

師匠日蓮はもう罪人ではない。喜びにあふれた顔がみちていた。

四条金吾や土木常忍らが笑顔でむかえた。金吾の妻日眼女は赤子を抱いていた。

日蓮が一人一人に挨拶をかわし、やがて赤子をみつけた。

「おっ、これは・・」

四条金吾が深々と頭をさげた。

「おかげさまで元気になりました。一時はどうなるかと思いましたが。妙法のお力です」

信頼する金吾の赤子の病状が回復したことを聞き、日蓮の悦びはひとかたでない。

「法華経の力はもちろんですが、ご夫妻の信心の強さがあったればこそですぞ。けなげな信心だからこそ病は消え去ったのです。どれ」

日蓮が赤子をそっとうけとり、まるで自分の子のように、あやしてはしゃいだ。流罪の苦労など、まるでなかったかのように。

金吾は、わが子が上人に抱かれる福運をしみじみ噛みしめるかのように、じっと見つめていた。

松葉ケ谷の地に夕日がさしはじめる。

日蓮が二年ぶりに説法するとあって信徒があつまってきた。黒衣の念仏僧も来ている。窓にも人がのぞいた。

「このたびは赦免となり、鎌倉に帰ることができました。というのも鎌倉殿がこのたびの流罪を家臣の讒言(ざんげん)と知ったからです。天台、伝教の弘通の如く仏法の正邪は公場における法論で決すべきです。法論ではかなわないと逃げまわり、相手の僧を罪に陥れるとはなにごとでありましょう。正法を阻むことこそ、国を危うくするもの。これ御政道の誤りではなく念仏・禅宗の害毒による。法華経に云わく『如来(にょらい)の現在にすら猶怨(なおおん)(しつ)(注)多し(いわん)(めつ)()の後をや』と。教主釈尊の時でさえ留難はあった。まして今、この悪世末法の世ではなおのことです。私はこのたびの流罪で身にあたって思い知りました。みなさんも南無妙法蓮華経と唱えれば必ず難が降りかかります。またそれでなければ妙法ではない。成仏は難しいことではない、法華経をたもつことが難しいのです」


      17 小松原の法難 日蓮、額に傷を負うにつづく
上巻目次



昼夜十二時

旧暦では「()の刻」のように、十二支で一日を表していたので一日は十二時となる。


怨嫉

()うらみ・ねたむこと。正しい法を教え通り実践する者をあだむこと。おもに仏法を信ずる者に対する非難・中傷をいう。「(さわ)り未だ除かざるを怨といい、聞くことを喜ばざるを嫉という」(妙楽)  





by johsei1129 | 2017-03-18 23:19 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)


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