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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 03月 14日

十三、立正安国論そして日興との運命の出会い

英語版
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                   (立正安国論 巻頭部分 中山法華経寺蔵)

 日蓮はひとり鎌倉の町を背に西へむかった。旅姿で笠をかぶり、荷を背負っていた。その歩みは何かに突き動かされているかのように早い。そして崩壊の惨状を自分の眼に焼き付けるかのように周囲を見渡した。

馬上の武士がつぎつぎと行きかう。

馬車が復興のための材木を積んで通り過ぎていく。

日蓮は大地震を目の当たりして、かつて延暦寺で学んだ大集経の一文を思いだした。

仏法実に隠没せば(しゅ)(ほつ)(そう)皆長く、諸法も(また)忘失(もうしつ)せん。時に当たって虚空の中に大いなる声ありて地を震ひ、一切皆(あまね)く動ぜんこと(なお)水上(すいじょう)(りん)の如くならん。

仏法が威光を失う時、人々のひげは長く、髪も爪も長い。これによって世の善論は忘れ去られる。このとき空に大音響あって地震がおきる。それは水の波紋のように大地をゆり動かす。大集経では仏法と災害の関係をこうのべている。
 

日蓮が相模をでて駿河にはいった。

岩本山実相寺をたずねるためだった。この寺は今も静岡県富士市に現存する。

歴史は古い。

実相寺は久安元年(1145年)天台宗の智印によって開基された。きわだって特徴的なのは、ここに一切経が収められていたことである。膨大な経典は天台座主だった円珍(えんちん)()(しょう)(注)()が唐から招来したものだった。

日蓮はあらためて一切経を読み返す必要性を感じていた。

この寺には多くの住僧がいた。みな若い。そのなかに伯耆房という少年僧がいた。

まだ十二歳である。今でいえば小学六年だが教育制度がなかったこの時代、武士も僧も誰しもが少年の頃から世に出た彼は天台の法門を学んでいた。のちに日蓮のあとを引きつぐ伯耆房日興はこの実相寺の住僧だった。

その伯耆房少年が三十七歳の日蓮とすれちがった。

少年は物思いに沈む日蓮をひと目見て、今まで会った僧とちがうものを感じた。

伯耆房がふり返ったが日蓮はかまわず通りすぎていく。

伯耆房は実相寺の門番に聞いた。

「あのお方は」

「日蓮とかいうお人でございますな」

横にいた友人がおどろいた。

「なに日蓮、鎌倉で悪名高い僧侶だぞ。それがここでなにをしに。まさか折伏ではあるまいな」

伯耆房が聞いた。

「しゃくぶく」

若僧がうなずく。

「念仏や禅をさかんに攻撃しているそうだ。鎌倉ではもっぱらのうわさだぞ」

門番がつぶやいた。

「それがあの坊様、この寺の一切経をみたいと申しましてな」

「経典を見ていまさらどうするのだ。あの年なら既に一切経の修学は終えているのではないか」

「わけは不明だが、ここに来てからは経蔵に篭もりっきりで何やら読んでいなさる」

実相寺の経蔵には経巻が棚の上にぎっしりとならべられている。

日蓮が小机の前に正座し経巻をひらいた。そしてじっくりと座ったまま動かなくなった。

夜、雪がふってきた。皿におかれた灯火をたよりに、経巻を読んだ。

いっぽう伯耆房少年は好奇心旺盛である。彼は戸をわずかにあけて様子をうかがった。

伯耆房は甲斐国(山梨県)巨摩(こま)郡大井荘(かじか)沢で生まれた。父は遠州の()氏で大井の(きつ)(ろく)といい、母は富士由井(ゆい)氏の娘で妙福といった。幼い時に父を失い、母は網島家に再嫁したため、伯耆房は祖父の由井氏に養育された。

七歳の時から天台宗四十九院に登って漢文学、歌道、国書、書道等をまなび、天台の教学を積んでいた。日蓮は十二の歳に出家しているから仏法習熟の度合いはかなり早い。

伯耆房は鎌倉からやってきた僧に興味をもった。

聞けば日蓮は比叡山延暦寺で修行したというではないか。延暦寺は日本天台宗の発祥の地である。伯耆房にとってあこがれの聖地だ。それだけに興味がわいた。仲間たちは日蓮を悪僧といったが好奇心のほうが勝った。どんな人物かは話を聞けばわかるではないか。

その日蓮は飽かずに経典を読みふけっていた。

月日がすぎ、年が明けた。雪解けの小川が流れている。

日蓮は髪やひげがのび放題になっていたが、思いつめたように筆を走らせていた。窓からの光が文字をてらす。

この時、戸の外から声がした。

「ごめんください・・」

 日蓮は一瞬、経文から目を離し答えた。

「どうぞ」

戸が開かれると伯耆房が正座し頭をさげていた。彼は日蓮上人と話がしたかったが、経蔵にこもりきりでまったく機会がなかった。そこで思いきって戸をたたくことにした。

日蓮が伯耆房少年にほほえんだ。
「遠慮なく中へお入りください」
 日蓮は修行中の所化にたいしても偉ぶることはない。
 伯耆房が緊張気味に入室し、日蓮の前であらためて正座した。
 日蓮が伯耆房にほほえむ。

「なにか御用かな」

「失礼ですが、鎌倉の日蓮上人でございますか」

「いかにも」

「この寺で修業しております伯耆房と申します。さっそくお聞きしたいのですが」

日蓮がにこやかにうなずいた。伯耆房は、晩年になってもこの時の笑顔を忘れることはなかった。

「あのう。なにを調べておられるのでしょうか」

日蓮が僅かに首をかしげた。
 伯耆房が話を続ける。

「ここに来られてから半年のあいだ、本寺院の誰とも口もきかずに経文ばかりを読まれておられます。なにか大事なことでも調べられておられるのかと気になっておりました…」

日蓮が笑った。伯耆房はこんな明るい笑顔を見たことがなかった。

「それは心配をかけました。じつは去年の大地震でふと思うことがあり、一切経を拝見して確かめたかったのです」

「確かめたかったとは・・」
 伯耆房の眼が輝き始めた。少年の
真剣な眼差しに触れ、日蓮の口元が引きしまった。

「災いの根元です。いま日本では天災、飢饉、疫病が蔓延している。なげかない者は一人もいない。なぜおきるのか、これをふせぐにはどうしたらよいか。それを釈尊の一切経をひも解き、確かめたかったのです」

伯耆房が身をのりだした。

 日蓮がかたわらにおいてあった数枚の書付を見せた。

「いま書いているところです。題号は立正安国論としました。今の世の乱れは念仏宗の祖、法然が根元です。これを退治しなければ国がほろびる」

伯耆房は驚愕した。

「法然上人。まさかあの法然上人ですか。十三歳で比叡山に登り、知恵は日月にひとしく、徳は師の源光上人を超えたともいわれております。その法然上人は流罪になりながらも生涯をかけて念仏を弘めました。その上人のどこがいけないのですか」

伯耆房は思った。
(やはりこの日蓮上人は噂どおりの悪僧なのか)
 伯耆房の目が一瞬疑念を生じたかに見えた。こ
の反応をあらかじめ予想していたかのように、日蓮はわずかに笑みを浮かべ、話を続けた。

「からきことを(たで)の葉に習い、臭きことを(かわや)に忘れるという。慣れてしまうと、人はあやまりに気づかない。

法然の選択(せんちゃく)によって教主を忘れて西土の仏を貴び、付嘱をなげうちて東方の如来をさしおき、ただ四巻三部の経典をもっぱらにしてむなしく一代五時の妙典をなげうつ。これをもって弥陀の堂にあらざればみな供仏(くぶつ)の志をとどめ、念仏の者にあらざれば早く施僧の思いを忘る。結句、住持の聖僧は()いて帰らず、守護の善神去つて(きた)ることなし。これを以て魔来たり、鬼来たり、災おこり、難おきる。

悲しいかな数十年のあいだ、百千万の人、魔縁にとろかされて多く仏教に迷う。()しかず、彼の万祈(ばんき)を修せんよりはこの一凶、つまり法然の念仏を禁ぜん」

 伯耆房は日蓮の迫力に圧倒され、一瞬躊躇したが、かろうじて言葉をはいた。

「禁ずるとは、念仏宗を罰するということですか」

日蓮が首をふる。

「いやそうではない。念仏宗への布施を止めるのです。今すぐ止めなければ、より大きな災いがおきます」
 伯耆房にとって「念仏を信じることが悪鬼を呼び,守護の善神が去っていく」などとは今まで耳にしたことがない。にわかには信じがたい。

「布施を止めることが、なぜ災いをふせぐことになるのですか」

「災いといっても、しょせん人からおこることです。善人にほどこし、悪人の施をとどめれば災難を消し、天下泰平となる。ならば邪宗の布施を止めることです()

「念仏の布施を止めなければどうなるのですか。いま以上の災難があるというのですか」

日蓮が経典を手にした。

「経文には仏法を誹謗することがつづき、この邪法を止めなければ、国に七つの大難がおこると説く。

五つの難は目の前にある。(にん)衆疾(しゅしつ)(えき)の難、星宿(せいしゅく)変化(へんげ)難、日月薄蝕(にちがつはくしょく)の難、非時風雨の難、過時不雨の難である。

もしまず国土を安んじて現当を祈らんと欲すれば、すみやかに情慮をめぐらし、急いで退治を加えねばならぬ。ゆえんはいかん。五難たちまちに起こり、二難なおのこる。自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)(なん)他国(たこく)侵逼(しんぴつ)の難なり。いわゆる『兵革の災』『他方の怨賊国内を侵涼す』『四方の賊来りて国を侵す』これである。

もしのこるところの難、悪法の(とが)によってならび起こり競い来らば、その時いかがせん。帝王は国家を(もとい)として天下を治め、人民は田園を領して世上を保つ。しかるに他方の賊きたりてその国を侵逼し、自界叛逆してその地を略奪せば、どうして驚かないではいられよう、どうして騒がないではいられようか。国を失い家を滅せば、いずれのところにか世を逃れん。すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の(せい)(ひつ)を祈るべきものか」
 日蓮の説法が終わるや否や、伯耆房が床に手をつけて声をあげた。

「日蓮上人様、いまだ拙い所化の身ですがわたしを弟子にしてください」

伯耆房はこの人に近づいていけば、正しい仏への道を歩むことができると直感した。そう思った瞬間に言葉がでてしまった。

日蓮の返答は我が親にもまして慈愛にあふれていた。

「わたしにはすでに弟子がいますが、みな毎日の食にも四苦八苦しております。それでも良いのであれば、私を父と思って、生涯ともに修行してまいりましょう」

 伯耆房が誓う。

「わたしはこの寺で生活しております。ご不便はおかけしません。なにとぞわたしを弟子のひとりに加えてください」

日蓮は笑みを浮かべながら力強く二度、三度とうなずいた。

「これで今日から伯耆房殿は私の弟子です。私の弟子は法名に日文字をつけるのが習わしですので、伯耆房殿にも良い名を考えておきます」
 伯耆房は呆気なく日蓮が入門を許したことに驚くとともに、日文字のついた法名を受けることでさらに驚いた。
「ありがたく存じます」
 伯耆房は深々と床に手をついて日蓮の部屋を後にした。

 日蓮が伯耆房と出会ったのは正嘉二年の二月だったが、奇しくもこの月の十四日、日蓮の父妙日が亡くなった。鎌倉幕府を国家諌暁するための述作を急いでいた日蓮は故郷に戻ることはなかった。だが、この時期に書かれた「一代聖教大意」の末尾に正嘉二年二月十四日と認めている。父の死を弔う故と強く推察される。

 父の死の悲しみを胸に秘めて日蓮はさらに筆を進める。

今は国宝となっている「旅客来たりて嘆いて曰く」で始まる「立正安国論」はこの岩本実相寺で草案が練られた。

日蓮はこれを幕府の実質の支配者である北条時頼に献上しようとしていた。当時、時頼は俗の身のまま出家して最明寺入道と名乗り、執権職を義兄弟の北条長時に譲っていたが、鎌倉幕府の実権は依然として時頼が持っていた。

急がねばならない。大災害はつづいていた。
 日蓮はこの当時の鎌倉の災害の状況を『安国論御勘由来』で次のように記している。

正嘉(しょうか)元年太歳丁巳八月二十三日戌亥(いぬい)の時、前代に超えたる大地振(じしん)。同二年八月一日大風。同三年大飢饉。(しょう)(げん)元年(だい)(やく)(びょう)。同二年庚申四季に亘りて大疫(だいえき)()まず。万民既に大半に超えて死を招き(おわ)んぬ。(しか)る間国主之に驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈祷(きとう)有り。(しか)りと雖も一分の(しるし)も無く、還りて飢疫等を増長す。日蓮世間の(てい)を見て(ほぼ)一切経を(かんが)ふるに、御起請(きしょう)験無く還りて凶悪を増長するの(よし)、道理文証之を()(おわ)んぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す。
 

                     
      十四、国家諌暁と松葉ヶ谷の法難 につづく


上巻目次



円珍智証

弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)。平安初期、天台宗寺門派の祖。延暦寺第五代座主。智証大師と号す。讃岐の人。俗姓は和気氏。空海の甥または姪子という。延暦寺の義真に学び、顕密両経を学んだ。日蓮は智証が法華経第一の教義を曲げたとしてきびしく批判した。



by johsei1129 | 2017-03-14 22:16 | 小説 日蓮の生涯 上 | Trackback | Comments(1)
Commented by 稔です。 at 2017-03-16 21:46 x
ボクも毎日御書を拝読しています。


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