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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 22日

五十七、日蓮、鎌倉を去る

 真夏の日ざしが照りつけていた。

市場では物売りがならぶ通りに、いつもの喧噪がはじまっていた。

売り手も買い手も汗にまみれる。

「暑いのう」

「まったくだ。こう雨がふらないと」

田畑の作物も干からびてしおれた。

百姓が笠をかぶり、うらめしそうに空を見あげた。

四月十日。日蓮が平頼綱と対面した二日後だった。

真言宗の僧、阿弥陀堂法印が政所の一室でうやうやしく平伏した。

相手は安達泰盛である。泰盛は扇子をふっていた。四月は旧暦で初夏である。

阿弥陀堂法印は加賀法印ともいう。名は定清。真言宗小野流定清方の祖である。鎌倉阿弥陀堂の別当であったためこの名がついた。

彼は当時の鎌倉仏教で真言宗を代表する僧である。出身は京都の名門東寺。東寺は弘法大師空海が嵯峨天皇よりたまわって以来、真言宗の本山として君臨していた。法印はこの寺で真言の奥義をきわめたといわれる。弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳の諸宗をみな胸にうかべていたという。

法印の顔立ちはりりしい。くわえて身なりに気品があふれていた。

 泰盛が笑顔で歓迎した。
「ようこそまいられた。幕府にとってまことによろこばしい。招いたのはほかでもない。蒙古が年内にも襲ってくるとの知らせもあってな。それに備えるための祈祷を世間にも名高い法印殿に願いたいのじゃ」

法印がうなずき、上品な京なまりで答えた。

「祈りには各種ございます。わが真言宗は弘法大師より四百年つづいた祈祷の法がございます。他宗は足元にもおよびませぬ。手はずさえ整えてくだされば、蒙古を防ぐこと請けあいでございます」

なんという自信であろう。泰盛が喜色をあらわにした。

「よくぞ申された。まことにこのところ、ごたごたがあってな。本来ならばもう一人、祈祷を申しつける僧がいたのだが」

法印が品よくほほえむ。

「日蓮でございますな。およしになってよかったと思われます。日蓮という男、所詮は身分の低い一介の法師、狂信下賤の者でございまする。わが真言の僧にくらべれば、天子と猿、公家と蝦夷(えみし)のちがいにございまする」

泰盛が小気味よく笑った。

「日蓮は猿と蝦夷か。これは面白いこきおろしじゃ。ついては手始めである。法印殿、諸国がいま日照りで困っておる。このまま水不足がつづけば飢饉はまちがいない。そこで相談じゃ。貴殿の祈りで雨をふらせてはもらえぬか。真言の秘法で雨雲をあつめてほしいのじゃ」

法印が手をあわせた。

「わらわでよければ」

「おお、引きうけてくださるか」

「日蓮ができたことを、わらわにできぬわけがございませぬ」

「かたじけない。さっそく準備をいたそう」

熱暑の中、鎌倉阿弥陀堂は戸をすべて閉めきった。

法印は暗い室内で祈祷を開始した。

護摩が炎を舞いあげる。

法印は汗にまみれながら(しょ)を振り、鈴を鳴らした。四百年前の弘法大師そのままの姿だった。

法印の形相が闇にうかびあがった。不気味に、かつ力強く真言の呪文を唱えていった。

鎌倉では人々が外へ出なくなった。外にいても木陰で休息した。田畑では水争いもおきていた。みなため息まじりに空を見あげた。

雨がほしい。

乾いた空が暮れていくが、阿弥陀堂法印はなおも祈りをやめない。真夜中になっても真言はつづいた。法印の顔がやがて鬼のようになっていく。

その翌日である。

不思議なことに鎌倉に黒雲があらわれ、みるみるうちに暗くなった。

雲はやがて空全体をおおい、はげしい雷とともに雨をおとした。

 奇跡だった。

人々が歓喜の顔で雨をあびた。子どもたちも外に出てはしゃぎまわった。

恵みの雨が鎌倉をはじめ国中にふりそそいだ。

北条時宗は縁側で満足そうに雨音を聞いた。

泰盛が得意気にやってきた。つづいて平頼綱が不機嫌な面もちできた。頼綱は泰盛の成功がおもしろくない。

「阿弥陀堂法印がやりました」

興奮するのも無理はない。わずか一日で雨がふった。しかも静かに一日一夜ふりつづけたのだ。

時宗はいつになく上機嫌だった。

「泰盛、よくやった。でかしたぞ。法印殿には長く鎌倉にいてもらおう。そうだ、引き出物をあたえよ。黄金三十両と馬をあたえよ。蒙古対冶の祈りも正式に要請しよう」

時宗が満足そうに空を見あげた。

鎌倉の市場にも静かな雨がそそいだ。

ここに町民が(ひさし)の下で笑いあった。手をたたくほどだった。

「よかった。よかった。雨のおかげで百姓もひとまず安心じゃ。これでわれらも暮らせるというもの。やれやれじゃ」

「それにしても日蓮め、おかしなことを申しおって。首を斬られるところを、すったもんだで許されて、おとなしくなるかと思ったらさにあらず。念仏や禅を(そし)るだけでない。真言も誹るとはな」

「そこにこの雨だ。よせばよかったのに。まことに真言の教えはめでたいのう」

彼らはまた笑い、手をたたいた。

 

日蓮の館では弟子たちが動揺した顔で空を見あげていた。

引っ越しの荷造りの最中だった。これからどこへゆくのか、ただでさえ不安にさいなまれていた。さらにいままで邪宗と非難した真言僧が雨をふらせたことで、疑心がひろがった。

当の日蓮は目を閉じたままでいる。

三位房と大進房がにじりよった。

「上人、真言でも雨をふらせることができましたな」

日蓮は目を閉じたままいう。

「真言はかならず国をほろぼす。真言をもって蒙古調伏を祈れば日本は早くほろぶ」

 三位房が責めるようにいう。

「ではなぜ雨がふったのですか。阿弥陀堂法印の祈祷が法にかなったからではございませぬか」

日蓮が目をひらいた。

「しばしまて。弘法大師の悪義がまこととなって国の祈りとなるならば承久の時、上皇は勝ち幕府は敗れていた。弘法が法華経を華厳経に劣るとしたのは十住心論の文にある。釈尊を凡夫(ぼんぷ)であるとしるしたのは秘蔵(ひぞう)(ほう)(やく)にある。天台大師を盗人と書いたのは二教論にある。かかる僻事(ひがごと)を申す人の弟子、阿弥陀堂法印が日蓮に勝つならば、雨ふらす竜王は法華経のかたきである。梵天、帝釈、四天王に責められるであろう。なにか子細があるはずだ」

三位房と大進房はあきらかに日蓮をさげすんだ。ほかの弟子たちも笑ったという。


弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、( )こづき(嘲笑)し 『種々御振舞御書


弟子たちはあらかさまに嘲笑した。彼らは日蓮を師としていなかったのか。直属の門下でさえこの有様だった。

だが日蓮はつづける。

「中国真言宗の善無畏も金剛智も不空も雨を祈った。雨はふったが暴風となって被害は増した。弘法は三十七日すぎて雨をふらした。これは雨をふらさぬのとおなじである。ひと月以上ふらない雨があろうか。たといふってもなんの不思議があろう。天台大師のように一座でふらすのが尊いのだ。これはなにかあるにちがいない」

といったとたん、どこからか轟音が鳴りだした。それは地響きとともに聞こえてきた。

三位房の笑いがとまった。

家屋の柱と梁がゆれだした。

伯耆房が日蓮をかばった。

みなが絶叫した。嵐だった。鎌倉を突風が襲った。

市場で笑っていた群衆が悲鳴をあげた。竜巻をともなう猛烈な風だった。彼らは売物小屋もろとも吹きとばされた。

大風は鎌倉の大小の神社、堂塔、民家を空に巻きあげ、地におとした。空に巨大な光り物が飛んだという。人々は牛馬とともに浮きあがり、地面にたたきつけられた。

北条時宗邸でも木戸や畳がゆれ、暴風がまきおこった。

時宗は荒れる風にむかって懸命に立っていた。

頼綱がかけよる。

「殿、早く避難を」

時宗が聞かずにいった。

「泰盛を呼べ」

泰盛がほうほうの体でやってきた。時宗はすぐさま命じた。

「祈祷をやめさせよ」

泰盛はなんのことかわからない。

時宗は必死だった。

「わからぬか。この風は法印のせいだ。祈祷をやめさせるのだ」

「さりながら、いましばらく猶予を」

時宗が鬼の形相になった。

「たわけ者。鎌倉中が吹き飛ばされるぞ」

泰盛があわてて出ていく。平頼綱が風をうけながら笑いをこらえた。

真言宗の開祖である善無畏、金剛智、不空の三人は、いずれも雨を祈って失敗している。祈禱のはじめは雨がふって天子を狂喜させたが、すぐさま暴風がおこり、かえって被害は甚大となってしまった。この暴風は祈祷のせいであるとして三人は所を追われている。

真言で祈ると悪風がおこる。日蓮は阿弥陀堂法印の事件を、三人の先達をあげ、きわめてユーモラスに記録している。

この三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。()ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法を、すこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心にくし。  『報恩抄

翌朝、鎌倉は破壊された家屋でうまった。被害は鎌倉市街に集中した。

日蓮の真新しい屋形も無惨にかたむいていた。

弟子たちが散らばった木材をかたづける。

三位房と大進房が互いの肩をだいた。

「大丈夫か。よく助かったな」

「まったく。ひどい嵐だった」

大進房がまわりを見まわした。

「上人はどこだ」

旅姿の日蓮と弟子たちが鎌倉の街道を歩いていた。彼らは甲斐国へむかった。

通りすがりの人がふりむいた。

「あれは日蓮上人ではないか」

日蓮の一行が切り通しをすぎた。そして街を見おろす山の上に立った。

師弟が感慨深げに鎌倉を見おろす。

日蓮は北条時宗に見切りをつけた。この六年前、すでに記している。

主君を三度(いさ)むるに用ゐずば山林に交はれとこそ教へたれ  『聖愚問答抄下

国が危うい時、主君をいさめるのは臣下として当然である。いさめなければ不忠不孝となる。しかし三たび諫言しても用いられなければ、もはや諫言した者の罪ではない。喧騒を避けて静かな地で余生を送れとの意味であろう。この時代の賢人の常識だった。日蓮は六年前からこの信条を披露していた。

この処世術は孔子の言葉をあつめた「礼記」からきている。

人臣(にんしん)たるの礼、(あら)はには(いさ)めず、三たび諫めて聴かざれば、則ちこれを()る。   『曲礼下第二』

人の臣たる者の礼として、君のあやまちをあらわにはいさめない。(婉曲にいさめて)三度いさめても聞き入れられないときは地位をしりぞけという。

同じく孔子の「孝経」にも同じ意味の言葉がある。

三たび(いさ)めて()れずんば、身を(ほう)じて以て退(しりぞ)け。

 日蓮は鎌倉の地を離れる理由について、故事に習ったと弟子信徒に説いたが、心の奥底では自身滅後の遥か末法万年の未来を見据えていた。

 高層建築に着手する場合、最初に地下の岩盤、いわゆる支持層まで、建築物を支えるための杭を何本も打ち込んでいく。

 日蓮は未来の広宣流布のためにはその大事業を担う弟子・信徒の教化が必須であると考えていた。

 そのために草庵では弟子を直接指導し、日本各地に点在する信徒へは、連日のように信徒の問いに答える法門を記した消息を送り続けた。

 いわば妙法蓮華経の広宣流布の強固な基盤を作るため、末法の本仏の内証を弟子信徒の心中に打ち込んでいったのだ。

 ちなみに後世、御書と称されることになる日蓮の著作は、立宗宣言から佐渡流罪までは約百十編、佐渡流罪から身延入山までは約五十編、そして身延入山以降入滅するまで約三百三十編もの御書を残している。


鎌倉を離れて以後、日蓮は折伏の矢面に立つことはなくなった。かわりに弟子信徒に懸命の指導をおこなった。これからは弟子たちが表舞台にたつ番だと。

日蓮はこれまで東奔西走し、身の危険をいくどもさらした。はずかしめられ、おとされ、大難もうけたが悔いはない。経文どおりである。かえって胸中に深い充実をおぼえた。

国土世間でふるまうことはすべてやりとげたのだ。これを思えば満足だった。国主を三たびいさめた。用いられずに終ったが、自分の不明が理由なのではない。いつの世にも賢王と愚王の二種類がいる。時宗が賢王ではなかったということだ。

ならばこれ以上世間にいる必要はない。これが節度というものだ。王の都を去るべきだ。

日蓮はさせる(とが)あるべしとはをも()はねども、此の国のならひ、念仏者と禅宗と律宗と真言宗にすか()されぬるゆえ()に、法華経をば上には()うとむよしをふるまひ、心には入らざるゆへに、日蓮が法華経のいみじきよし申せば、威音(いおん)(のう)(ぶつ)の末の末法に、不軽菩薩をにく()みしごとく、上一人より下万民にいたるまで、名をも()かじ、まして形をみる事はをも()ひよらず。さればたとひ(とが)なくとも、かくなさるゝ上はゆるしがたし。ましていわ()うや日本国の人の父母よりも()もく、日月よりもたかく()のみたまへる念仏を無間(むけん)の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法、念仏者・禅宗・律僧等が寺を()はら()ひ、念仏者どもが(くび)()ねらるべしと申す上、故最明寺(さいみょうじ)・極楽寺の両入()殿(注)を阿鼻(あび)地獄(じごく)()ち給ひたりと申すほどの大禍(だいか)ある身なり。此等程の大事を上下万人に申しつけられぬる上は、(たと)そら()()となりとも此の世にはうかびがたし。いかにいわ()うやこれはみな朝夕に申し、昼夜に談ぜしうへ()(へいの)()衛門(えもんの)(じょう等の数百人の奉行人に申しきかせ、いかに()がに行なはるとも申しやむまじきよし、したゝかに()()かせぬ。されば大海のそこ()ちび(千引)きの石はうかぶとも、天よりふる雨は地に()ちずとも、日蓮はかま( 鎌)くら( 倉)へは(かえ)るべからず。『光日房御書

 こうして日蓮は日本の権力の中枢、鎌倉をはなれた。そして二度と帰ることはなかった。

北条時宗がいらだっていた。

頼綱、泰盛ら幕府のおもだった面々が顔をあげられない。

「嵐の被害は」

「さいわい相模では鎌倉のみが損害をこうむりました。鎌倉の中でも被害が大きかったのは御所、若宮、極楽寺、建長寺。ごくかぎられております」

時宗がいきどおる。

「なんということだ。鎌倉を代表する伽藍ではないか。なぜこんなことになった。だれの責任だ」

頼綱が泰盛をにらむ。

「これはあきらかに阿弥陀堂法印に祈祷を命じたことによりますな」

泰盛は反論した。

「法印は蒙古退治の祈祷にもっともふさわしい法師でござる。わしは最善の選択をしたまでのこと」

沈黙がながれた。失敗につぐ失敗である。これで本番の蒙古にあたれるのか。

宿屋入道が発言した。

「殿、蒙古退治の祈祷のことでございますが、こうなった以上、再度日蓮殿に依頼されるのはいかがでございましょう。日本国にはもう、これといった高僧はございませぬ。不面目ではございますが、恥をしのんで、ふたたび日蓮殿をお迎えしてはいかがでございましょう」

頼綱が止める。

「それはどうかな。あれだけの条件をつけても蹴った男だ。そう簡単にはいくまい」

宿屋は思いきった。

「いかがでござろう。日蓮殿のいうとおり、幕府が法華経を信奉し、他宗を捨てるというのは」

場内がどよめくが、宿屋は冷静だった。

「蒙古に必勝しようとするならば、ここは日蓮殿に従わないわけにはいきますまい。あの法師にさからえば、かならず国に乱れが生じます。国の運不運をわける人物でござる。わが幕府がこぞって他宗をくじき、法華経の大義につけば、日蓮殿は帰ってこられましょう。いかが」

みな時宗に注目した。時宗は苦しそうだった。

「宿屋、残念だがそれはできぬ。日本国始まっていらい、仏法は麻のごとく宗派がわかれている。このわしとて禅宗の僧侶を養っている身だ。日蓮殿一人を立てれば混乱がおき、幕府に非難が集中しよう。宿屋入道、おぬしのいうことは正しいかもしれぬ。だがわしは執権なのだ。わかってくれ」

宿屋が憤然として頭をさげた。

これが時宗の限界だった。

彼は日蓮を用いて他宗を切ることはできなかった。理由はどうあれ、勇気がなかったのである。

現代の日本人は、北条時宗を蒙古に立ちむかった人物として評価している。しかしそれだけである。

ここでもし時宗が日蓮の諫言を聞きいれたなら、どうだったであろう。今とはちがう日本ができたかもしれない。

ちなみに時宗はこの十年後に死去する。わずか三十四歳であった。そして北条幕府は日蓮が鎌倉を去ったあと、わずか六十年たらずで滅亡した。一族の五百名が鎌倉の東勝寺で自決するという悲惨なものだった。

人間の運命というものはわからない。

時宗が一族と日本の未来を見とおせたならば、日蓮を師とする選択肢はあったはずである。

その昔、印度の阿闍世王は釈迦に帰依し、中国の陳隋の皇帝は天台を信奉した。そして日本の桓武天皇は伝教を支持された。いずれも名君として名をのこしている。

時宗が日蓮を用いたならば、彼の名は蒙古退治の勇者だけで終わることはなかったはずである。

消沈とする雰囲気の中、時宗が毅然として立った。

「みなの者、聞け。われらは武士だ。たとえ神仏の助けがなくとも、刀と弓矢で艱難をのりきってきたのだ。頼朝様が武家の世をひらいたのとおなじく、これからもわれら自身が新しい道をひらいてゆこうぞ」

場内に鬨の声があがったが、やぶれかぶれの感がある。

この時、注進がきて時宗に耳うちした。

時宗は一瞬青ざめた。やがて静かにきりだした。

「蒙古軍が動きだした」

場内がどよめく。

「蒙古の大軍が高麗に下っている。このままでいけば、年内にはまちがいなく攻めてくる」

場内に「ついにきたか」の声があがる。日蓮の予言はまたしても的中した。

時宗が立った。

「おのおの持ち場をかためよ。九州出兵を命じられた者は準備ととのい次第、すぐに出陣せよ。忘れるな。日本国を敵から守るのだ。この国土を(えびす)に踏ませるな。ここからが鎌倉武士の見せどころだ」

全員がいっせいに立ちあがった。騒然とした中、みな意気軒昂にでていく。

やがて静けさがおとずれた。

時宗は一人外にでて空をみた。


             五十八、日蓮、身延山中へ入る につづく


中巻目次



 最明寺・極楽寺の両入道

最明寺とは北条時頼、極楽寺は北条重時のこと。ともに日蓮が立正安国論を上呈した時、伊豆流罪を命じて迫害した。



by johsei1129 | 2017-07-22 18:13 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)


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