2017年 04月 26日

88 女性信徒への手紙 一

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                        (日蓮大聖人御一代記より)

甲斐の山中はさびしい。
人里はなれ、おとずれる者はなく、館には日目らの小僧がいるだけである。
外に聞こえるのは、山猿や鹿のかすかな声だけ。

静寂があたりを支配していた。

人間が幾年もこの中にいるとき、どうしても内省的にならざるをえない。また自然に外からの知らせをまちわびる気持ちがわき、無性に人恋しくなる。

こんな時、なによりもありがたいのは手紙だった。いにしえの人が手紙を大切に保存していたことがうなずける。この時代、手紙とは墨によって人の息づかいや心までも包含する伝達手段だった。つまり手紙自体が生きていた。音信ともいうがまさにそのとおりであったろう。平家物語にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。現代人にはわからない感覚である。そのような手紙をうけとった人のよろこびは尋常ではなかった。

 日蓮も同じである。

とりわけ、うちとけた故郷の人からの手紙には、なんども心をなぐさめている。

光日房は日蓮の故郷安房の天津の人である。彼は山中の日蓮を思って手紙をおくった。内容は安房の人々の近況をつづったものであろう。

冬の甲斐山中は雪深く、おとずれる者はいない。手紙をうけとった日蓮の感激はひとかたでない。日蓮は故郷の海を思い、自身の来し方をふりかえりながら、長文の返書をしたためた。

この手紙はのちに「種々御振舞御書」とよばれた。海音寺潮五郎は日本で最初の自伝といっている。この消息がなければ、おそらくこの小説は書けなかった。われわれは光日房に感謝しなければならない。

日蓮は消息の末尾に山中における心情をありのままにしるす。


されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ(ねた)む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。(たから)有る者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をば(あなが)ちに(ねた)み候なり。()の魔王、疫病(やくびょう)の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも(たが)はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を(こうむ)り、最後には此の山にこもる。此の山の(てい)たらく、西は七面の山、東は天子のたけ()、北は身延山、南は鷹取(たかとり)の山。四つの山高きこと天に付き()さが()しきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり(はざま)の候に庵室(あじち)を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人(まれ)なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を()として法華経(ばか)りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

日蓮は山中から信徒に手紙をおくった。手紙は真筆や古写本として今にのこるだけでも五百通になんなんとする。

その中でもとりわけ在家・出家の女性にあてた手紙は驚くほど多い。日蓮は「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらうべからず」といったが、そのとおり女性にたいしても男同様、強い信心をうながした。

 この仏法は信徒一人一人の信力によってかがやく。信徒は日蓮がのこした本尊に祈ることによって法華経へ導かれ「福はかさなり候べし」つまり仏性を開き福運を積み重ねることができるという()()()()

 だが信徒によっては、法華経信仰のとらえ方が異なっていたのもまた事実であった。
 願いごとは日蓮が叶えてくれると思った信徒が多数いた。人頼りなのである。祈りが叶わないのは日蓮のせいであると。

 日厳尼もそうだった。

彼女は念仏宗のように、だれかが助けてくれると誤解していた。これでは自身の仏界はひらけない。

 日蓮は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」と、日厳尼に強い信心をうながす。五十九歳の手紙である。

  弘安三年十一月八日、尼(にち)(ごん)の立て申す(りゅう)(がん)の願書、並びに御布施の銭一貫文、又()()かたびら(帷子 )一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ(おわ)んぬ。其の(うえ)は私に(ばか)り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮が()がにあらず。水()めば月うつ()る。風ふけば()()るぐごとく、みなの御心は水のごとし。信の()はきはにご()るがごとし。信心のい()ぎよきは()めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐々。

  十一月二十九日          日蓮花押

 日厳尼御前御返事


         89 女性信徒への手紙 二 へ続く
下巻目次


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# by johsei1129 | 2017-04-26 06:47 | 小説 日蓮の生涯 下 | Comments(0)
2017年 04月 24日

46 二月騒動の顛末

時宗の兄、北条時輔は京都南六波羅で酒を飲んでいた。

静かな夜だった。

美女がひとり、時輔によりそうばかりに酌をした。

時輔が赤ら顔になっている。

「はかどるな」

美女がほほえむ。

「よいことでございますわ。ご丈夫だからこそ、お酒もおいしくおめしになれます」

時輔はいまの境遇で満足そうだった。

「うまい酒に美しいおなごがそばにおる。なにもいうことはないわ。わしは幸せ者じゃ」

美女が目をほそめる。

「それはご本心でしょうか」

「なんだ。なにを申す」

「男たるもの、まだ欲しいものがおありのはず」

「思わせぶりだな。はっきりと申せ」

 女の目がさらにほそくなった。

「殿は執権時宗さまのお兄様。腹ちがいとはいえ、幕府のまつりごとには権利のあるお方。なのにご家来はわずかしかおりませぬ。時宗様のように指一つでたくさんの殿方を動かしたいのでは」

時輔が笑う。

「わしのまわりには、そなたのようにさぐりをいれる者ばかりじゃ。わしは権力なるものに執着はない。そう伝えよ。安心しろとな」

美女が少しはなれた。

「おぬし、時宗の間者であろう。うろたえるな。わかっておる。ではこちらから聞こう。わしの命はいつまでじゃ。時宗はいつ攻めてくる」

美女がさらにはなれる。

「その様子をみると、近いようじゃのう」

外でさわがしい声がする。剣を交える音、武士の絶叫、女の悲鳴が聞こえてきた。

部屋の戸がひらき、所従がかけこんできた。

「殿、討ち入りでござる」

時輔はおちつきはらった。

「どこから」

所従が苦渋にみちている。

「北六波羅にございます」

北の六波羅探題には、時宗の命をおびた北条義宗の軍団がいた。義宗は日蓮の伊豆流罪を画策した北条重時の孫である。

時輔がにたりとしたが酒をやめない。女はいつのまにかいなくなっていた。

「時宗め、きおったか」

彼は盃をかかげてつぶやいた。

「末法じゃのう。一族が殺しあい、弟が兄を討つ。乱れきっておるわ。だが時宗、この報いはかならず、おぬしにかえるであろう」

座敷の戸がやぶられて、獰猛(どうもう)な武士団が突入してきた。

鎧兜の武士が時輔の前にすすみでて膝をついた。

「時輔様。突然の無礼、お詫びいたしまする。ただ今より、われらとご同行いただきたく参上いたしました」

「いずこへ」

「相州鎌倉」

「あいわかった」

時輔が背後の刀に手をかけたとたん、ふりむきざまに武者を斬った。

武士団がいっせいに身がまえる。

「おぬしらの魂胆はわかっておるわ。道中でわしを葬るつもりであろう。ならばここでいさぎよく戦うまで。だれあろうわれこそは、先の執権、最明寺入道時頼の嫡男、北条時輔なるぞ。われと思う者はかかってきよ」

武士が勇んで時輔と組んだが、時輔のあざやかな太刀さばきに斬られて退場した。

つづいて新たな武士が登場したが、これも時輔に討たれた。

強い。一騎打ちでかなう相手ではない。

時輔が満面の笑みをうかべた。

「どうじゃ、かかってこぬか」

新たな武士が登場して組みあった。

時輔は優勢であったが、新手が卑怯にも時輔の背後をおそった。

背を斬られ、片膝をついた。

ここで時輔が笑った。最後の哄笑だった。

武士団が倒れた時輔をかこんでめった刺しにした。血潮が吹きだし、かえり血が全身にかかった。

武士たちは憑き物がとれたように立ちつくした。

鎌倉の侍所では時宗が一人、座禅を組み目をとじていた。

顔色は落胆と苦渋にみちている。二十一歳というのに、老人のように頬がこけていた。

武士ははかない。

鎌倉幕府の創始者である源頼朝は弟の義経を殺害している。

頼朝の父は義朝である。義朝は父為義を斬った。のちに義朝は戦いに敗れ、配下に裏切られて命を落とした。

その子頼朝は征夷大将軍となって頼家、実朝を生む。だが頼家は北条の手下に殺され、実朝は頼家の子()(ぎょう)に殺された。殺した公暁も直後に討たれた。

こう書いていくだけでも暗然としてくる。

時宗もまた兄を斬った。

彼もまたこの暗い因果に入りこんでしまった。彼は逃れられない宿命を背負った思いにとらわれた。独裁者の悲哀だった。

 鎌倉はいまだに喧噪が聞こえていた。侍所の入口はひときわ甲高い声がひびいた。
 ここに名越光時以下、八人の家来がとらわれの身となっていた。光時と金吾、この主従の命は風前の灯となっていた。

名越光時および家臣の女房子供、供侍までが邸内にはいろうと門番に懇願していた。一目無事を確認したいためだ。この中に金吾の妻日眼女と娘の月満御前がいた。

警備の兵が彼女たちをおしとどめた。

 侍所の中庭では頼綱の配下が藁束(わらたば)ってい。斬首の準備である。

いっぽう北条光時の館では、女房たちが障子や武具が散乱した床につどった。

赤子や幼子の泣き叫ぶ声が邸内にひびく。彼女たちは光時と運命をともにした家来の妻だった。

日眼女が月満御前をだいて侍所から帰ってきた。

女たちがうめく。

「なんの報いでありましょう。謀反の疑いをかけられるとは。わたしたちには神も仏も助けてはくれぬのか」

女たちが日眼女をみつけた。

「おお、これは金吾様の奥方。いまだに法華宗の日蓮上人を信じておられるとか。後生でございます。法華経のお力で夫の命を助けてくだされ」

 彼女たちは神仏に祈るほかはない。夫を助けてくれるのであればだれでもよい。夫の死を目前にした今となっては、流罪の身であろうと、竜の口の首の座から奇跡的に生還した日蓮にすがるしかなかった。

 日眼女は心に固く誓った。

竜の口の時、一度は夫の命をあきらめた。助かるすべはただひとつ法華経しかない。願いは叶うと信じて祈るしかなかった。

 

 遠く安房でも悲嘆に暮れている女性がいた。

大尼御前である。

彼女はかつて名越家に嫁いでいた。

名越がほろぶならば大尼も安泰ではない。日蓮が大難をうけたとき、大尼は日蓮を見たことも聞いたこともないといって法華経の信仰から退転した。

大尼はかけつけた道善房や浄顕房、義浄房にすがりついた。

「おしえてたもれ。わらわが法華経を捨てた報いであろうか」

日蓮の幼いころの師だった道善房は、清澄寺の大檀家でもある大尼が取り乱すのを見ておろおろするばかりだった。

かわりに若い浄顕房がはげました。

「大尼様、お気をつよく。いまですぞ。これまでのことをわびて法華経に懺悔なされませ。いやしくも武士の妻です、なにがおきようと覚悟せねばなりませぬ」

しかし大尼は半狂乱だった。

「なにかがおきるなどと、いわないでおくれ」

侍所の座敷には光時と八人の郎従がいた。

光時が八人を前にしていう。

「おそらくわれらは死罪となろう。身におぼえのないことながら、これも侍の宿命である」

光時は四条金吾に言葉をかけた。

「頼基、おぬしには幼子がいたのう。つらくはないか」

金吾は気丈にいう。

「殿、某は二代にわたり名越様に仕えてまいりました。これも運命と考え、いささかも憂いはございませぬ」

主君のまなざしはやさしかった。

「後悔はないのか」

金吾は懐の数珠をとりだし、手をあわせた。

「わたくしめは、いまだに日蓮上人の教えを信じておりまする。もし首斬られるならば、法華経にすがり、殿とならんで仏にまみえたてまつる覚悟にございます」

光時はじっと金吾を見つめた。

北条時宗がおなじ侍所で平頼綱、安達泰盛と膝をつきあわせていた。

頼綱が目を細めた。

「即刻首をはねるべきでござる」

泰盛が反対した。

「確たる証拠がないうえで処刑することは、のちのち幕府の信用をおとすことになる」

 泰盛にとって名越の滅亡は避けたい。名越の滅亡は執権の絶対化を意味した。泰盛は時宗の義兄だが、しょせん外様である。時宗が絶対君主になれば、側近の頼綱がさらに強大となる。自分が危うくなるのは目に見えていた。

その頼綱が泰盛をにらみつけた。

「鎌倉幕府はいま危機にある。われら北条はしょせん伊豆の田舎の出、武士の世界では新参者にすぎませぬ。執権の批判もいまだに根強い。また蒙古がいつ攻めてくるかもわからぬ現在、侍どもの不満を静めるのは恩賞加増にほかならぬ」

泰盛がおどろいた。

「では名越の所領を・・」

頼綱がうなずく。

「名越は北条一門でも有力な分家でござる。日頃なにかとわれらを批判するあの者どもをつぶせば、幕府体制をかため、財政の建て直しもはかれる」

頼綱の目が不気味に光る。

だが泰盛はあくまで抵抗する。

「いやそれではかえって幕府を弱めることになる。今回のことで京都の公家どもが騒ぐのは必死だ。名越を取りつぶせば、承久の二の舞になることは必定であろう」

頼綱は聞かない。

「騒がせればよいのよ。権力とは人を操ること。操られるのがいやな者は抹殺するまでのことだ」

泰盛が時宗に平伏した。

「どうか武家の頭領として、寛大なご措置を」

頼綱が強くせまる。

「このたびの騒動は光時殿の処分で仕上げでござる。ご決断を」

時宗が正面を見つめた。


光時と四条金吾ら八人が謁見の間に座った。みな覚悟した様子だった。

ここに時宗が登場した。頼綱と泰盛がつづいて座した。

金吾は覚悟をきめた。

しかし時宗の決断は意外だった。

泰盛が高らかに告げる。

「名越殿は無罪放免といたす」

室内がざわめいた。

安堵する家来がいる。だが名越光時は表情をかえない。

予期しないことだった。

これを伝え聞いた使者がすぐさま光時邸へかけこんだ。

「助かりましたぞ。光時様は無罪放免。おつきの面々も無事でござる」

名越の館に女子供の歓喜の声があふれた。

日眼女は赤ん坊をだき、数珠をにぎりながら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えだす。目には涙があふれんばかりに浮かび、頬を伝って握った数珠に一滴二滴と落ちるが、かまわずいつ果てるともなく題目を唱え続けた。

時宗が光時に語る。
 その声は執権らしからぬ弱々しさだった。

「叔父上、余を許してくださるか。内憂外患、蒙古がいつ攻めてくるかわからぬ最中に、余は誤りをおかした。親子、兄弟、一族の平和を無惨に乱してしまった。さりながら今、目がさめた。北条一門が団結してこそ国難は防げようというもの。これが亡き兄の弔いとなればよいが・・」

老齢の光時が言上した。

「それを聞いて安堵いたした。それでこそ北条の頭領、われらの執権でござります。恨みは申さぬ。二人の弟は亡くしたが、これで幕府が盤石となれば彼らも浮かばれまする。ご安心くだされ、蒙古との戦いのおりは、われらが必ず先陣をきって敵の首を討ちとりましょうぞ」

事実、彼はこののち蒙古の戦いで獅子奮迅の戦いをすることになる。

光時が立ちあがった。

「ここ数日の混乱で配下の者どもは疲れきっております。われらはこれで」

光時主従が退出した。

頼綱がそれを見て鞭を折り、うらみがましく時宗を見た。

「千載一遇の機会をのがしましたな」

ふだん温厚な時宗も、この物言いは、さすがに聞き流すわけにはいかない。

「だまれ、左衛門尉。北条の血を引かぬおぬしになにがわかる」

 この二月騒動は幕府内でも批判が大きかった。時宗は越権行為の頼綱を処罰できなかったが、かわりに討伐に加わった五名の関係者を処刑している。騒動に加わった者にもいっさい恩賞はあたえなかった。

鎌倉の人々はこれを「ただ働き」と笑ったという。

首都の騒動を聞き、全国の御家人がぞくぞくと馳せ参じた。

到着した武士団は侍所へ直行した。彼らは引きもきらず主君の前にでて、型どおりの挨拶をしてさがった。

従者がつぎつぎに呼び出しの声をあげる。

「つぎに本間六郎(ほんまろくろう)左衛門尉(さえもんのじょう)重連(しげつら)殿、ご到着されました」

本間が時宗の前にすすみでた。彼は異例の速さで鎌倉に到着することができた。

安達泰盛がよろこぶ。

「これは本間殿。佐渡から遠路はるばる、祝着であるぞ」

本間が上目づかいで慎重に言上した。

「鎌倉殿におかれましては、このたびの難儀のおり、よくご無事であらせられました。われら御家人にとって、なによりでございまする」

「よく申された。いくさはおわった。長旅でお疲れでござろう。酒の用意を」

しかし本間はとめた。

「おまちくだされ。取り入って申しあげたき儀がございます。じつは先月、このたびの騒動を予言した者がおりまする」

時宗がおどろいた。

本間は一部始終を語った。

「なに、日蓮が・・」

厳粛な空気がただよった。

日蓮が竜の口の法難の最中、内乱がおきることを予言したのは記憶にあたらしい。今また、一月もしないあいだにこの大騒動を予告していたとは。

時宗がはじめて口をひらいた。

「本間殿、日蓮殿はいかがしておられる」

本間の返答は苦渋にみちていた。

(それがし)の宅の裏にある破れかけた三昧堂におわしまする。堂のまわりは死人を捨てる墓場でござる。拙者が見ても気の毒にて・・なにぶん流人のため、これといった施しもむずかしく・・」

 時宗はすぐさまいった。

「執権の命令である。待遇をあげよ。誰か武家の屋敷に場所をかえるのだ。ただしよいか、このわしが指図したことを、だれにも漏らしてはならぬ」

本間が顔をあげ、自分のことのようによろこんだ。

「さっそく手配いたしまする」

日蓮はみごとに自界叛逆難を的中させたが喜んではいない。邪法によってますます国がみだれることを憂いていた。

さらに嘆くべきは二月騒動のおり、命を落とした信徒がいたことだった。彼らの名は伝わっていない。日蓮は信徒の死に不安をつのらせて、急ぎ鎌倉に手紙をつづった。

 

佐渡国は紙候はぬ上、面々に申せば(わずら)いあり。一人も()るれば(うら)みありぬべし。此の(ふみ)を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、(りょう)(けん)候ひて心なぐさませ給へ。世間にまさる歎きだにも出来すれば、劣る歎きは物ならず。当時の(いくさ)に死する人々、実不実は置く、(いくばく)か悲しかるらん。いざはの入道、さかべの入道、いかになりぬらん。かは()()()山城(やましろ)(とく)行寺(ぎょうじ)殿(どの)等のこと、いかにと書き付けて給ふべし。外典書の(じょう)(がん)(せい)(よう)、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし。

此の(ふみ)は富木殿のかた、三郎左衛門殿・大蔵たうのつじ(塔辻)十郎入道殿等・さじき(桟敷)の尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。京・鎌倉に(いくさ)に死せる人々を書き付けてたび候へ。外典抄・文句二・玄四本末・(かん)(もん)宣旨(せんじ)等、これへの人々もちてわたらせ給へ。『佐渡御書

いざわ(井沢)の入道、さかべの入道、河野辺の入道と得行寺。この四人はかつて竜の口の法難の時、日朗とともに土牢にはいった信徒といわれている。彼らは法難につづいてこの騒動にまきこまれたのか。遠く離れているだけに、日蓮の焦燥はつのった。

冨木殿とは土木常忍、三郎左衛門尉は四条金吾、大蔵塔の辻とは鎌倉の地名で、ここに十郎入道と名乗る信徒が住んでいたという。十郎入道は本間重連の家人という説があるが確かでない。桟敷の尼は自分の下人を佐渡までつかわしたほどの強信者である。彼らはいずれも日蓮の帰還をまちこがれる信徒だった。

また日蓮はいくさのことを案じるとともに、数々の書物を送るよう依頼している。貞観政要は名君といわれた唐の太宗の言行録であり、ほかに「外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれぬ」と切望している。

仏教書も手元にないものがある。文句とは法華文句、玄とは法華玄義である。いずれも法華経の肝要を天台(智顗)大師が解説した書である。

当時の佐渡は文化的には不毛に近い僻地であった。そもそも法門を記すための紙がない。

「かまへてかまへて」といっている。五十一歳の日蓮はそれほど佐渡の地で末法の本仏としての自身の法門を書き上げ、後世に残すことを渇望していた。

鎌倉の北条光時邸は傾きかけた門や破れた木戸が散らばり、大騒動があったことを物語っていた。

四条金吾を先頭に郎党八人が帰ってきた。

一族が歓喜したのはいうまでもない。女子供や所従たちが涙にむせんだ。

四条金吾は月満御前をだきかかえた。その夫の姿を見つめる日眼女の目に、もはや涙はなかった。

彼女はこの数日間、寝ずに祈っていた。夫の無事を目の当たりに見て、法華経の功力(くりき)を思わないではいられなかった。

主君光時が登場し床几にすわった。
 彼の前に八人が正座した。

「このたびのそのほうらの働き、感じいったぞ。退散する者もいた、お前たちのようにわしと命をともにする者もいた。ここぞという時、家来かどうかわかるのだな。礼をいうぞ。ここで一人一人、望みをのべよ。遠慮なく申せ。かなえてしんぜよう」

家来の一人がすかさずいった。

「某はいただいている所領がいささかせまくなっておりまする。所従を養うにもひもじくなっている始末。加増していただければ幸いとぞんじまする」

「あいわかった」

つぎの家来がいう。

「某は領地はいりませぬ。ただ銅銭を拝領し、今後の蓄えといたしたく思いまする」

光時がうなずいた。

彼らは図々しいのではない。忠を尽くした者は恩賞にあずかって当然の時代だった。また主人は忠臣に積極的にこたえる義務があった。この考えは現代の政治力学がうごめく複雑な労使関係より、はるかに単純で平明である。

「わたくしは爵位をたまわりとうござます。武士は位があって面目が立つもの。左衛門尉をいただければ、一族の誉れともなります。どうか周旋ねがいとうございまする」

「もっともなことだ。すぐにも手配しよう」

四条金吾の番になった。

金吾はだまっている。

光時がにこやかに催促した。

「どうした頼基、願いごとはないのか。今回のそなたの働きぶりからすれば、ありすぎるほどであろう」

金吾が重い口をひらいた。

「殿、わたくしはお(いとま)をいただきとうございます」

 一同がざわめく。同僚が猜疑の目で金吾を見た。

「暇をとる。どうした。わしからはなれてどうする」

「旅にでとうございます」

「旅、どこへ」

「佐渡ヶ島にございます」

光時が考えあぐねた。

「あの島にはわしの領地はない。米も良くはとれぬ。やせた土地だ。ほかをあたえよう」

「いえ所領ではありませぬ。佐渡にお会いしたい方がおられまする」

光時はしばらく考えこんでいたが、はっとした。

金吾が手を床につけた。

「某の師匠、日蓮上人が無実の罪であの島に流されております。ひと月ほどお暇をいただければ、佐渡へまかりいでたいと考えまする」

 光時がむきになった。

「日蓮は罪人だぞ」

 金吾が胸をはった。

「その罪人が日本国の騒動を予言したのはまぎれもない事実にございます。われら主従はその当事者として、からくも生きのびました。殿、未萌(みぼう)を知る者を聖人と申します。しかれば日蓮上人は罪人ではなく、聖人ではないでしょうか」

 光時が食いさがった。

「わしをおいて日蓮につくのか」

「殿、頼基は箱根の山をこえ、馳せ参じたときも、殿と腹を切る覚悟をきめたときも、法華経のお題目を唱えておりました。某が晴れてここに殿と相まみえるのは日蓮聖人のおかげだと感じておりまする。それ故一刻も早くおたずねし、報恩の誠をつくすのが人の道と料簡しておりまする」

光時が不満そうにだまった。
 金吾がせまる。

「殿は願いごとをかなえるとお約束なさいました。今日ほど殿に仕えて、うれしゅうことはございませぬ」

光時が投げだすようにいった。

「よい、勝手にいたせ」
「おお、ありがたき幸せ」
 金吾が小躍りして喜んだ。

二ヶ月後の四月、金吾は佐渡へ出発した。そして無事日蓮と対面し鎌倉へ帰っている。 

日蓮は竜の口で生死をともにし、あまつさえ鎌倉武士として宮仕えの身でありながら佐渡をおとずれた愛弟子を讃えた。だが賞賛するだけではない。金吾にさらなる強い信心をうながしている。妻の日眼女とともに、強盛な信心をたもてという。

法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやす()みぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。()しき名さえ流す、(いわ)んやよき名をや。いかに況んや法華経ゆへの名をや。女房にも此の(よし)を云ひふくめて日月・両眼さう()のつばさ調ひ給へ。日月あらば(めい)()あるべきや、両眼あらば三仏の顔貌(げんみょう)拝見疑ひなし。さう()のつ()さあらば寂光(じゃっこう)宝刹(ほうさつ)へ飛ばん事須臾(しゅゆ)刹那(せつな)なるべし。(くわ)しくは又々申すべく候。恐惶謹言

五月二日  日蓮花押  『四条金吾殿御返事(煩悩即菩提御書)』


日蓮は妻日眼女への感謝も忘れない。金吾のかげで夫をささえる日眼女の姿を見ていた。金吾が信心を(たも)てるのも日眼女のおかげであるという。

日蓮は信心強盛な妻たちの激励を忘れなかった。難信難解の仏法であり、大難の最中である。妻の理解なしに信心をつづけるのは至難なのだ。

日蓮の婦人への気配りはこまやかである。日眼女しかり、土木常忍の女房しかり。阿仏房の妻千日尼、池上兄弟の女房など、数えきれない。

おのおのわずかの御身と生まれて、鎌倉にゐながら人目をもはゞからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、たゞ事ともおぼえず。但おしはかるに、(にご)れる水に玉を入れぬれば水のすむがごとし。しらざる事をよき人におしえられて、其のまゝに信用せば道理に()こゆるがごとし。釈迦仏・普賢(ふげん)薩(注)()薬王菩( )宿(しゅく)(おう)()( )等の各々の御心中に入り給へるか。法華経の文に閻浮提(えんぶだい)に此の経を信ぜん人は普賢菩薩の御力なりと申す是なるべし。

女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。須臾(しゅゆ)はな()れぬれば立ちあがる事なし。然るにはかばかしき下人もなきに、かゝる乱れたる世に此のとの(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神(さだ)んでしりぬらん。虚空よりもたかし。梵天帝釈もしらせ給ひぬらん。

人の身には同生同名と申す(ふたり)のつかひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて影の身にしたがふがごとく須臾(しゅゆ)もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にの()て申し候と仏説き給ふ。

此の事ははや天もしろしめしぬらん。たのもし、たのもし。  日蓮花押

此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。 『同生同名御書

最愛の夫を多難の地に送った日限女を絶賛している。

藤四郎の女房とはだれであろう。一説には弟子日向の父、男金藤四郎というがさだかではない。いずれにしてもこの迫害の時期に退転せず、法華経信仰を貫いた信徒たちは、互いによりそって信心の灯をともし続けていた。


                  47 強信の日妙婦人 につづく
中巻目次


 普賢菩薩

 文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈迦の脇士。法華経普賢菩薩勧発品第二十八や普賢経では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

「御義口伝に云はく、此の法華経を閻浮提に行ぜんは普賢菩薩の()(しん)の力に依るなり。此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護成るべきなり云云。」『普賢品六箇の大事



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# by johsei1129 | 2017-04-24 07:17 | 小説 日蓮の生涯 中 | Comments(0)
2017年 04月 22日

4 Nichiren Starts Propagation in Kamakura (4)

                        Japanese ver.


Nichiren continued criticizing the other religion at the same time. "Nembutsu is the hell of incessant suffering, the Zen is an evil spirit, Shingon destroy the country, Precepts Sect is traitor."

It means that the person chanting Nembutsu falls into the hell of incessant suffering. Nembutsu almost had force as it become a state religion in those days. Nichiren repeated criticism to Nembutsu mainly. Scholars of Nembutsu despise that Nichiren is one person and they attacked him, but Nichiren counterattacks by a shield of the doctrine of Buddha. There was not the person who matched Nichiren in a discussion of the doctrine of Buddhism

By the way,the Nembutsu sect (the Jodo Shinshu sect), Zen Buddhism (Soto sect), Shingon comes in the present age. Four denominations which added a denomination of Nichiren to this survived until the present age. In other words, a denomination created in the Kamakura era just survived until the present age. There is the age of civil strife after the Kamakura era, and there is the Meiji Restoration, and there was the defeat of the Showa, but, in these four denominations, it is witha basic tone of the Japanese mind structure regardless of awareness, lack ofself-consciousness without changing.

In addition,the Ritsu sect was transmitted by a Buddhist priest of Tang, Ganzin, in 754. However, it became outdated early because the doctrine of the Ritsu sect established the high sanctuary to become a priest and only granted religious precepts. Christianity to preach Moses' Ten Commandments came up in substitution for this. However, Christianity does not preach the three existences, and do not preach the retribution of cause and effect either; Christianity of non-Buddhism, so to speak, hardly spreads in Buddhism country Japan.

By the way, the population ratio of the Christianity believer in Japan is only around 1.5% now. In addition, birthplace India of the Buddhism became the British colony, but the Hinduism that preached samsara of three existences (past, present, future) and the retribution of the cause and effect penetrated to the people this country, and Christianity almost did not spread. The believer population ratio according to the Indian denomination, Hinduism is approximately 80%, Islam 13%, Christianity approximately 2%, the Buddhism do not reach 1%.

In addition, Christianity never spread out in China which was a Buddhism country. Folk belief (Taoism) is under the population ratio according to the modern Chinese denomination in a little less than 80%, Buddhism a little less than 13%, irreligion a little over 12%, Islam 2%, and Christianity is a little over 2%.

Nembustu that Honen advocated were all the rage in this time. Honen died ten years before Nichiren was born, but the teaching of Honen breathed for people of the Kamakura era vividly.

Nichiren criticizes Nembutsu as the prime example of the evil religion from the root. It was to criticize initiator Honen of the source to criticize Nenbutsu sect of Buddhism.

The Nenbutsu sect of Buddhism survives until the present age, but nobody evaluates Honen who is the founder. The reason is because Nichiren elucidated it how a doctrine of Honen came off from a text of a sutra.

The claim of Honen is like that.

Because the teaching except three Pure Land Sutra is difficult for to take enlightenment for people, destroy all it.

Therefore, he told people to abandon all sutras such as the Lotus Sutra, the Kegon Sutra and the Golden Best Sutra which Buddha preached, close it, ignore it and throw it away. So-called;"throw away, close, ignore, abandon."

Honen, in his own way, interpreted the golden words of Buddha that "the clear law that Buddha preached would hide and sink when the Latter Day of the Law."

It is preached on the Sutra of the Great Assembly (the 15th Bodhisattva Moon Storehouse) in this way.

“Shakyamuni Buddha addressed Bodhisattva Moon Storehouse, stating: The first Five-hundred-year Period after my death will be the age of emancipation, and the next Five-hundred-year Period will be the age of meditation, which will add up to one thousand years. The third Five-hundred-year Period will be the age of reading, reciting, and listening, and the next Five-hundred-year Period will be the age of building temples and stupas, which will account for two thousand years. The last Five-hundred-year Period will be the age of conflict within the teachings that I have expounded. This will cause the pure Law to become obscured and lost.”

This text of the sutra became the grounds of the thought of the Latter Day of the Law.

Nichiren also criticized other religions and elucidated that the way of attaining Buddhahood for human beingsof the Latter Day of the Law only exists in the Lotus Sutra. However, Nichiren quotes a lot of Buddhist scriptures except the Lotus Sutra in his writings and recognize the value of all sutras of Buddha. Nichiren placed the Lotus Sutra with the ultimate best teaching and, with that in mind, used all the Buddhist sutra.

In addition, Honen said the other than three sutras (Immortality Sutra, Meditation Immortality Sutra, Amida Sutra)of the pure land is the gate of the sacred path.

He preached. The teaching except three sutras is for a person with excellent ability, common people cannot attain Buddhahood in the Latter day of the Law. By this doctrine, he said that if we chant the name the Amida Buddha, we can attain Buddhahood in the afterlife. And he called this the gate of easy practice.

Honen says.

"There is not the tathagata Amida in real world. We can come across Amida who is in the other country after death. There is no attaining Buddhahood but to wait for the future life." However, this logic is words to lead to present negation.

We find hope or a thing such as the possibility in a hard everyday living in the root. It may be said that it is instinct. Honen closed the cap of such human being original emotions. This place to go, and to arrive is escapism, and only despair remains. That is why Nichiren called Nembutsu the hell of incessant suffering.

Hell is not a story of the future life. If we deny hope or possibility, only pains are left.

Nichiren uncovered wicked doctrine of Honen in this way, but knew that the logic of Honen did not too have consistency when the scholar of Nembutsu to be hostile to Nichiren checked a doctrine of Honen. Nembutsu spread out only naturally, but was not able to refute it at all when attacked from the document of all the sutras by Nichiren.

Therefore, there is not the person evaluating Honen in the present day. Furthermore, there are not the people who praise the contents of "the Selection of Nembutsu" of his writing.


                 continued


Life of Nichiren Part 1 contents


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# by johsei1129 | 2017-04-22 22:55 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 04月 20日

4 Nichiren Starts Propagation in Kamakura(3)

                      Japanese ver.


Nichiren preached Nam-Myoho-Renge-Kyo that was the title of the Lotus Sutra directly. He preaches it regardless of the ability of a person hearing immediately. Shakubuku meant this.

On the contrary, Shakyamuni induced all creatures adversely for more than 40 years. He preached various law to preach the Lotus Sutra that was the core of Buddha Law. ‘Be set, and develop ability’ means this. Shakyamuni needed 40 several years tobegin to preach the Lotus Sutra that was long-cherished hope of the success in life.

Nichiren was different from Shakyamuni and preached the core of the Lotus Sutra promptly.

This method is shown in "24th, the Bodhisattva Never Disparaging" of the Lotus Sutra. It is Shyakubuku that preached when the Bodhisattva Never Disparaging (note) appearing there does not discriminate to all public, and said that "there is life (the paradise of Buddha) of Buddha to all creatures".

The public does not have the relationship of the Lotus Sutra.

‘Originally not being yet of goodness’ (note) means this. Therefore, the public had malicetoward the Bodhisattva Never Disparaging and persecuted the bodhisattva with a stick and a tree and a tile and a stone. Nichiren inherits fate of the Bodhisattva Never Disparaging, too.

Nichikan (note) of the Nichiren Shōsyū 26th preaches it.

“And our sect father Daishonin in a book (A Sage Knows the Three Existences of Life) ‘Nichiren is the votary of the Lotus Sutra. I succeeded to the method of the Never Disparaging.’ Daishonin said in this way and completely did shakubuku and propagated it like the Bodhisattva Never Disparaging. Therefore, Daishonin propagated the Essential Teaching of Life Span of the Lotus Sutra forcibly promptly in Japan without gradually preparing the ability without making the means repeatedly like Shakyamuni did.” In other words, the present all creatures of the Latter Day of the Law are because it is a state of ‘Originally not being yet of goodness.’”

Collection of Fuji Sect Studies Pivot Vol. 10"Discussion of Life Span Chapter"


              Continued

Life of Nichiren Part 1 contents


Note

Bodhisattva Never Disparaging

The b0dhisattva who is preached in the chapter of the Bodhisattva Always Never Disparaging. Bodhisattva Always Never Disparaging is the different name. He appeared in the Middle Day of the Law, the post mortem period of the Authority Sound King Buddha. Because he preached the Lotus Sutra of 24 characters saying that all creatures had the Buddha-nature and worshiped all creatures and did not look down upon them, he was called Never Disparaging Bodhisattva. People looked down on him, and persecuted him bya stick tree, a tile and a stone, but he did not stop practices of the worship. Shakyamuni Buddha preaches a method of the post mortem propagation of Buddha and a merit of the reverse relationship through bodhisattva practices.

Nichiren Daishonin preached that he and his followers who chant to Myoho-Renge-Kyo in the Latter Day of the Law is the Never Disparaging Bodhisattva.

Point 10, on the words: ‘they heard his preaching, they all took faith in him and showed allegiance and obeyed and followed.’

The Record of the Orally Transmitted Teachings says: The word “heard” refers to the stage of hearing the name. After all, it is the daimoku to anger forcibly. “All” means to the four kinds of believers who are arrogance. “Faith” refers to the faith or belief that is without doubt. “Showed allegiance” means showing allegiance to the Lotus Sutra. “Obey” means that one’s mind is dedicated to the Lotus Sutra. “Follow”means that one’s body is dedicated to the Lotus Sutra. After all, this is saying that now Nichiren and his followers, practitioners of the Lotus Sutra who chant Nam-myoho-renge-kyo, are the Bodhisattva Never Disparaging of the Latter Day of the Law.”

(Thirty important point of the chapter in the Bodhisattva Always NeverDisparaging )

Nichikan

From 1665 to 1726. The nickname is Kakushin.He is born as a child of Jo’en Ito of the retainer of castle king of Joshu (Gunma) Maebashi, Lord Sakai. At the age of 18 years old, he made up his mind to become a priest to hear sermon of Nissei in the Jozai Temple of Shitaya. He worked hard at study after a priest under Nichi’ei and changed the name to Nichikan in 1689. In 1711, He become the schoolmaster of the sixth. During this time, he publicized justice of Nichiren and devoted himself to the prosperity of the religious sect. Main writing has Exegesis on the Five Major Writings and Sixth-volume Writings. In 1718, he received the transfer of the heritage from Nichiyu of the 25th and become Daisekiji Temple chief priest. He is said to be a father of the halfway prosperity along with Nichi’u of the ninth.

Originally not being yet of goodness

The inborn capacity of all creatures has two kinds of the "Originally there is already goodness” and “Originally not being yet of goodness" "The goodness" means a seed to become Buddha, and it isnecessary to plant the seed called Myoho-renge-Kyo because there is not this seed as for the all creatures in the Latter Day of Law. Shakubuku which is a professor method of the Latter Day of the Law has significance to plant the seed of Myoho-renge-Kyo to the all creatures of “Originally not being yet of goodness."


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# by johsei1129 | 2017-04-20 22:13 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 04月 16日

4 Nichiren Starts Propagation in Kamakura(2)

                     Japanese ver.


Poor houses formed a line in the downtown area of Kamakura. The common people lived in the poor house broken at any moment. Judging from the present age, it maybe said that it is the slums, but people are strong.

The everyday wear of the common people wore pants to a kimono of the cotton and closed an ankle with a string. It is the appearance of loose trousers to see in the country and is still familiar with modern us. They stand out in comparison with modern us, and the different point is that men attached formal headwear. Both an old man and the youth put three angles of black crowns on one's head and they tied it up with a string under the chin and fixed it. It is said that they attached this when they even sleep. It is thought that noble culture of the Heian era came down to the common people.

The eating habits were simple. Their staple food mixed wheat and a fox tail millet with unpolished rice and steamed it. They did not cook rice cleaning from water like the present age. A noble ate the polished rice, but therefore generally the noble life was short.


The thatched hut of Nichiren was a simple building.

He is the mere Buddhist priest who came from the country of Awa. It was only a few believers of the hometown Awa country that he relied.

There was the ground which was called Matsuba valley by the place called Nago’e whom it was located southeast, and Tokimasa Hojo of the first regent set up the hall of Kamakura. There is the house of the townsman, there is the house of the samurai. The sea is near here. There is the Zaimokuza Shore which overflowed in vigor if we go down the loose slope. There was a mansion of Nago’e who was branch family of Hojo near. Nago’e is the parents' house of O’ama. It is far from around Hachiman shrine where the center of the Shogunate lives in here. The majority of Buddhist priests became excited over that it got closer to power, but at first Nichiren held a thatched hut in the Matsuba valley and started propagation to a samurai and a townsman.


The people feel interest in a strange thing.

"Hey! You go to wherever."

"It is said that there is a Buddhist priest to tell to have moved to the Matsuba valley recently. It is said that the Buddhist priest does the sermon that he is thankful for.”

"Hum! It is interesting. Will I hear it?"

"Then I go, too. By the way, do you have money stolen?”

Townsmen go into the thatched hut of Nichiren.

There was around ten audience around Nichiren in the house.
There are a townsman and a cage woman and the samurai.
All of them sat down for laying wooden flooring and heard a story of Nichiren.

The paper which was greatly written as a Nam-Myoho-Renge-Kyo is put on the wall of the house.

In front of paper, there is a Buddhist altar, and eight Lotus Sutras and the opening sutra of Infinite Meanings and the ending sutra of Bodhisattva Universal Worthy, ten in total were central and were dedicated.

Nichiren began sermon with Buddhist altar as a back.

"The person believing a prayer to Buddha advocates it with Nam-Amidabutsu. They do not pray for Buddha but pray for Amidha. In the first place Amidha is the Buddha whom Shakyamuni Buddha preached. Amidha is the same as another person if we assume Buddha a parent. That is why it is the same as looking down upon a parent all creatures ignore Buddha of the parent, and to worship another person.”

Audience looked puzzled.

"The Buddhist priest of the Zen Buddhism say ‘Having been told other than teaching particularly’, and they put up the false theory that the truth of the Buddha Law was orally transmitted to Mahakashyapa. Such a thing is not possible. The Zen Buddhism is teaching of an evil spirit excluding a great debt of gratitude Buddha who began Buddhism"

One left among audience, and two people left. There was the person who he waved a neck, and returned.

And anyone disappeared.

Still Nichiren remained calm.


                  continued(3)


Life of Nichiren Part 1 contents


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# by johsei1129 | 2017-04-16 11:17 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 04月 09日

Life of Nichiren Part 1

Novel

 

 Life of Nichiren Part 1

                          Japanese version


       work by Mitsugu Kosugi supervision by Tsunemasa Miura

         January 3, 2014 public


               Outline of Life of Nichiren


  table of contents
1 Journey to Home

2 People of Seichō-ji Temple of the Hometown

3 Nichiren Declares the Establishment in True Buddhism in the Hometown on Readiness.

4 Nichiren Starts Propagation in Kamakura

5 Appearance of Shijo Kingo

6  Feud with Kagenobu Tojō

7  Three Disasters and Seven Calamities (Great disaster attacks Japan)

8  Birth of Disciples and Believers who Supported Nichiren for a life

9  Appearance of Women Believers

10 Tutelage to the Disciples

11  Enemy of Buddhism of the life of Nichiren, Ryōkan of Gokurakuji Temple

12  Great Earthquake of Shōka Era that was the Remonstrating Opportunity to the Nation

13  Writing the Correct Teaching for the Peace of the Nation, and fateful encounter with Nikkō

14 To the Nation Remonstrate and Persecution of Buddhists of Matsuba Valley.

15 Nichiren Suffers the Difficulty of the Izu Exile

16 Tokiyori Pardons Nichiren

17 Persecution of Komatsubara that Nichiren Suffered a Wound in Forehead

18 The Book from Mongolia Arrives, and the Difficulty of the Other Countries Aggression Proves Right

19 Nichiren Decides to Remonstrate to the Nation

20 Remonstration to Hōjō Tokimune

21 Letter to Gokurakuji Ryōkan, the Counterfeit Saint, a Person of Overbearing Arrogance

22 Three Kinds of Enemies who Have a Grudge

23 Fetal Movement of the Powerful Enemy

24 The Wall of Kōsen-Ruhu

25 Nichiren Confronts Gokurakuji Ryōkan by the Rain

26 Nichiren Says Grace to the Rain Hard

27 Omen of the Great Persecution

28 Machinations of Gokurakuji Ryōkan

29 Remonstration to Yoritsuna Taira

30 Persecution of Buddhists in Tatsunokuchi

31 Sweeping the Provisional and Revealing the Origin

32 Escape from the Crisis

33 Second Exile, Nichiren Go to the Island of Sado

34 Testament to the Disciples



Table of Contents    Part 2    Part 3


f0301354_21062437.jpg
             Mt. Fuji and the Mountain Gate of Taisekiji Temple


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# by johsei1129 | 2017-04-09 21:03 | LIFE OF NICHIREN | Comments(0)
2017年 04月 08日

31 発迹顕本

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               (竜の口へつづく湘南の海岸 前方は江の島)

  すでに真夜中になっていた。
 北条宣時邸の門前では、幾本もの松明(たいまつ)が赤々と暗闇を照らしていた

平頼綱があらわれ鎧姿で馬にのった。

このあと日蓮が屋敷からでてきた。

兵士が両側にまっすぐ直立し、日蓮がそのあいだをすすむ。

兵士の中には、何故僧が打ち首になるのか戸惑いを隠せない者もいた。しかし頼綱の命は絶対であり従うしかない。

彼らは日蓮を鞍のない裸馬に乗せた。

松明をもつ先頭の一団が夜の鎌倉を出発した。戦闘でもないのに、真夜中に多数の兵士が隊列を組んで鎌倉の街道を進んでいく。異様な光景だった

日蓮のそばに味方はいない。弟子たちは捕縛され追いたてられて散りじりとなり、小僧の熊王だけが、とぼとぼと馬のあとをついていく。熊王は歩きながら泣きじゃくる。少年は日蓮に助けられていらい、身辺の雑事を引きうけていた。その日蓮が死の淵に立たされている。父親が連れ去られて、泣かない子がどこにいよう。

この竜の口の法難に立ち会った熊王は、後に日蓮が出家の本懐として弘安二年に建立した大御本尊の文字を刻印する日法上人になる。何とも不思議な機縁であると言えよう。

やがて日蓮の目に鶴岡八幡宮の社がみえてきた。

八幡宮は月明かりの中、悠然とそびえ建っている。

頼綱が馬をおり、武士の神である八幡宮にむかって頭をさげた。郎従や兵士も一列に静止して頭を下げる。
 頼綱がふたたび馬にのり、全軍がすすもうとしたその時だった。

日蓮が声をあげた。

「またれい」

日蓮が、一行を制する声を聞いて兵士がおもわず歩みを止めた

「この期におよんで、おじけづいたか」

頼綱が軽蔑の目でみた。死を前にしての狼狽は恥とされる。

しかし日蓮はおちついていた。

「おのおの方、騒ぐべからず。べつのことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり」

日蓮は馬からおりたとたん、あろうことか八幡を大音声で叱責した。人がかわったような叫びだった。

「いかに八幡大菩薩は、まことの神か」

一列にならんだ兵士が驚愕し、体をふるわせた。われらの氏神を罵倒するとはなんという僧侶。

日蓮が腹の底から雄たけびをあげる。

今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。そのうえ身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間地獄におつべきを、助けんがために申す法門なり。また大蒙古国よりこの国を攻むるむらば、天照大神・正八幡とても安穏におわすべきか。そのうえ釈迦仏が法華経を説きたまいしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天ならびに天竺・漢土・日本国等の善神聖人あつまりたりし時、おのおの法華経の行者におろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状をたてられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、急ぎ急ぎこそ誓状の宿願をとげさせたもうべきに、いかにこの処にはおちあわせたまわぬぞ()()()()

日蓮の大音声が闇夜に響きわたる。

平頼綱が呆然とした。

最後に日蓮がおどすように叫ぶ。

「日蓮、今夜首切られ霊山浄土へまいりてあらん時は、まず天照大神・正八幡こそ誓いを用いぬ神にて候いけれと、さしきりて教主釈尊に申しあげ候わんずるぞ。痛しとおぼさば、急ぎ急ぎ御計らいあるべし」

この日蓮の大音声は「八幡大菩薩が法華経の行者を守るという誓いを破り、日蓮が今夜首を切られ、霊山浄土へ行くようなことになったら、誓いを守らない神だと教主釈尊に言いつけるぞ」という趣旨である。
 だが八幡大菩薩は闇につつまれ、沈黙したままだった。

日蓮がふたたび馬にまたがる。

全軍馬をすすめたが鎌倉幕府の守り神、八幡大菩薩を叱りつけるという日蓮のただならぬ大音声に驚愕し、兵士の中には身震いする者も少なくなかった

頼綱の軍馬が若宮大路をくだる。

月明かりの下、人影はなかった。

この大路は昔、征夷大将軍源頼朝の妻、政子の安産のために開かれた。いま兵隊は僧侶の首を刎ねるためにとおる。

ここに日妙と娘の乙御前が手をあわせていた。日妙は気丈に振る舞っているが、乙御前は涙が止まらない。

「日蓮聖人様」

日妙が日蓮の馬に近づいたが、兵士にはねとばされてしまった。

乙御前が母にだきつく。二人は地べたにすわりこみ、日蓮の無事を祈るばかりだった。


隊列はかまわずすすむ。

前方に黒衣の僧の一団がみえた。

彼らは日蓮にむかって念仏を唱和しだした。

そのなかに扇子を開いて顔を隠す者がいる。僧侶は扇子の骨の間から日蓮を見つめた。

極楽寺良観その人だった。


月光が闇夜に沈む太平洋を照らしていた。

日蓮の隊列はようやく由比の浜についた。

ここに(やしろ)があった。鎌倉の基礎を築いた権五郎景政を祀る()(りょう)だった。

ここを右手におれて江の島竜の口の道を進もうとしたとき、日蓮がまたも声をかけた。

「しばしまて。告げるべき人あり。熊王よ」

熊王少年すぐにかけよった。

「熊王、四条金吾殿を呼んでまいれ」

少年は日蓮の目を見てうなずき鎌倉にむけ一目散で飛ぶように走った。

熊王にとって日蓮は育ての親以上であり、人生の師でもあった。日蓮にお供することが自分の人生そのものになっていた。その日蓮に死が迫る。

熊王は四条金吾様ならこの絶体絶命の窮地から救ってくれると直感した。彼はそう思うと、いてもたってもいられず、まるで空中を飛び跳ねるかのように金吾の屋敷にむかって駆け抜けた。

四条金吾の屋敷には明かりがついていた。

熊王がやっとのことでたどりつく。熊王の膝はもはや立たなくなっていた。彼は屋敷の明かりにむかって声をふりしぼった。

「きんごさま・・」

扉が開き、燭台を手にした金吾がでてきた。金吾はこの夜中になにごとかと警戒したが、熊王少年とわかるとすぐに事態を飲み込んだ。

「熊王ではないか、聖人に何かおきたか」

少年は涙声で告げた。

「聖人が、聖人がお呼びです。頼綱様の兵隊にさらわれて」

「しまった、今どこだ」

「由比の浜の御霊(ごりょう)の前です」

金吾が熊王をかかえて家に入れてると、すぐさま支度をはじめた。

着物の裾をしばり、刀を差した。そして勇躍外へでようとしたが、目の前に妻の日眼女があらわれた。
 娘をだいている。

日眼女は正座した。

金吾もゆっくりとひざを折った。

「すまぬ・・聖人に一大事だ。いかねばならぬ。帰ってはこぬかもしれぬ・・」

妻は不思議に笑顔である。

「覚悟しておりました。おまえ様、それでこそ日蓮聖人の一の弟子」

「わしこそ、そなたを妻にしたのが誇りであった。すまぬ、(つき)(まろ)をたのむ」

金吾が外にでて、月天子にむかって叫んだ。

「どうか日蓮聖人をお守りくだされ」

金吾は裸足で一目散に油井の浜にむかった。また居合わせた金吾の兄弟三人もあとにつづいた。

のこった日眼女が娘をかかえ、おなじく天空に向かって叫ぶ。

「どうか日蓮聖人を、四条金吾頼基(よりもと)お助けくだされ」

現場にたどりついた金吾は月夜の下、馬上の日蓮が由比の浜で兵士に取りかこまれているのを見た。

最初、兵士は金吾におどろいて薙刀(なぎなた)ふせいだ。しかし平頼綱は興奮する兵士をなだめた。

「静まれ、静まれ。その者をとおしてやれ。日蓮一番の弟子、四条中務(なかつかさ)郎左衛門尉頼基殿のおでましだ」

 頼綱に侮蔑の口吻がまじる。法華宗の金吾は御家人のあいだでも有名である。頼綱は師弟の最後の対面を許した。

金吾が馬の手綱をとった。

「ご無事でしたか。不肖の弟子ですが、なんとか間に合いました」

師日蓮は意外にもにこやかだった。

「今宵、首を斬られにまいるのです。この数年があいだ願っていたことです。この娑婆世界に(きじ)となったときには(たか)につかまれ、(ねずみ)となったときには猫に食われした。あるいは妻のために、子のために、また敵に身を失ったことは大地微塵よりも多いのです。いずれにしても死は一定です。されば日蓮、今世では貧道の身と生まれ父母の孝養は心に足らず、国の恩に報いる力もない。このたび首を法華経にたてまつり、その功徳を父母にたむけます。そのあまりはそなた方弟子檀那に分けてさしあげよう。問注があった日の夜、館で申したことはこの日の事だったのです」

しばし待っていた平頼綱が、改めて全軍に力強く命じた。

「これより、竜の口にむかう」

先頭に松明をもつ兵士数人。つづいて日蓮をかこむ軍団がすすむ。

平頼綱はここで軍団を見送り、鎌倉へ引きかえした。

頼綱の仕事はここで終わった。あとは自邸に帰って日蓮の首をまてばよい。闇にまぎれて暗殺するのは幕府執事のやることではない。あとは雑兵どもにまかせればよいと・・。

澄みきった秋の夜長、空には一片の月と無数の星霜が輝く。

右にけわしい山々。左に広大な太平洋を望む。

日蓮を乗せた馬は、金吾のもつ手綱に引かれて、潮騒の音がやまない海岸線を粛々とすすむ。

いっぽうこの時間、北条時宗邸の寝室では、時宗が妻(のり)子の大きな腹をなでていた。彼はこの夜中に深刻な事態が進行中であることをつゆ程も知らない。

二人はたがいにほほえみあった。

時宗が祝子の腹に耳をあてた。

「早くでてこぬかのう」

祝子が笑う。

「そんなわがままをいってはなりませぬ。もう少したたないと生まれてはきませぬ」

「まちどおしいのう。生まれる日がはやくこぬかのう」

「殿はどうあれ。わたしは今がいちばんでございます」

「どうしてじゃ」

「このように殿にだいじにされるのが、いちばんうれしゅうございます」

祝子が時宗の胸に顔をうずめた。

この時、戸の向こうからささやく声がした。

「殿、殿、お休みでございまするか。殿・・」

安達泰盛の声だった。

時宗は何事かとばかりに立ち上がり、(ふすま)あけた

泰盛が正座してかしこまっている。

祝子がおどろいた。

「お兄さま」

時宗は泰盛の突然の訪問に戸惑いをかくせない。

「泰盛殿、この夜半に、いかがした」

泰盛が頭をあげ、憤怒の目を光らせた。

「たったいま注進がございました。日蓮の御坊が頼綱の兵に拉致され、竜の口にむかったとのことでございます」

「なに、日蓮殿を首を斬るというのか」

竜の口は斬首の代名詞である。祝子が時宗の背にだきついてふるえた。

時宗の声が邸内にひびきわたる。

「止めよ。頼綱に申せ。御台所懐妊の時に、僧侶の首を斬るとは何事ぞ。日蓮殿に罪はない。誤っては後悔あるべし」

月明かりの下、配下の武士が馬にとび乗った。

泰盛が時宗の書状を託して叱咤(しった)した。

「いそげ、竜の口だ」

泰盛は頼綱の横暴に憤っていた。頼綱の専横がつづけば自分も危うくなる。どうすればよいか。

泰盛は考えを張りめぐらした。

日蓮の処刑を妨害すれば、頼綱の力をそぐことになる。日蓮を助けるためではない。己の保身のためにだ。

日蓮を乗せた馬が海岸線の道を竜の口に向け、さらにすすむ。

現在もそうだが、左は海、右はせりたった山がつづいている。逃げ場はない。

平頼綱は闇の中で日蓮を葬るつもりでいる。鎌倉幕府は要人の処刑をつねに隠密裏に行った。都ではけっして斬らない。平家の処刑しかり、承久の変で捕えた公家しかりである。

かたや四条金吾はすでに覚悟を決めていた「平頼綱が竜の口と決めた以上、日蓮上人の死は免れない。ならば自分も腹を切るまで」と。

金吾は日蓮から日ごろ度々聞かされていた。

「死は一定」と。

いずれ人は死ぬ。されば何のために死ぬかで来世の命運が決まる。武士としての師は北条一門の名越光時だが、三世にわたる法華経の師は日蓮に他ならない。その師ともに霊山に行くことができるのなら、己の人生に何の不足があろうか。

竜の口の刑場に波がよせては返す。

暗闇に広大な太平洋がひろがる。

砂浜の一角の四方に松明がともされ、兵士が守りをかためていた。

一人の兵士が首のおちる穴を掘る。

太刀取りの依智三郎直重は傲然と床几に腰かけ、名刀蛇胴丸を左脇に立てて日蓮の到着を待っていた。その刀の柄が松明に照らされ不気味に光った。

時宗の使者が海岸線を疾駆していた。だがいま一歩おそかった。

日蓮の一行はすでに竜の口の目と鼻の先まで近づいていた。

月明かりの下、彼方に江ノ島が見えてきた。

ここで金吾は日蓮の馬の手綱を引きながら思いにふける。

日蓮との出会いを回想していた。

はじめて会った時、金吾は日蓮に食ってかかった。それをやさしく受けとめてくれた師匠の笑顔。

入信して日蓮に喜ばれた日。

我が子をだいてよろこぶ日蓮の姿。

そして証人となるようにと言われた時の日蓮の親をも凌ぐ愛情。

いまになって、どれもこれもがいとしい。

金吾がますます感傷にふけった。

(ああそうだ、そうだったのだ。このお方は自分の主であり、師であり、父だったのだ。今それがしかとわかった)

 この時金吾は、日蓮から説法をうけた法華経()(じょう)()()を思い起こした。

「在在諸仏土(じょう)()(しぐ)(しょう)」ここ、かしこの仏国土に、常に師と俱に生るるなり、と。


やがて前方に刑場の灯がみえた。

刑場の兵士がさわぐ。

「きたぞ」

兵士が日蓮の馬をとりかこんだ。

覚悟を決めていたとはいえ、ここで金吾が感きわまり、手綱をつかみながら声をふりしぼって日蓮に叫んだ。

「上人、ここで今生のお別れでございます・・」

金吾は大声で泣いた。

ふだんは短気で強情な四十一歳の男だった。しかし涙が流れるのをとめることができない。

馬上の日蓮は金吾を見て慈愛の目をみせた。しかしつぎの瞬間、厳父の顔で金吾を叱りつけた。

「なんと情けない武士だ、金吾よ。これほどのよろこびをなぜ笑わぬ。なぜ約束をやぶるのだ」

金吾は手綱をつかみながらひざまずき、泣くのをやめない。

御書にいう。

左衛門尉申すやう、ただ今なりとなく()。日蓮申すやう、かく()のとのばらかな。これほどの悦びをば笑えへかし。いかにやく()そく()をばたがへらるゝぞ 『種々御振舞御書

最後の最後まできびしい師匠であった。この期におよんでも弟子を叱った。だが日蓮にとって一緒に死のうとする金吾の気持ちを思えば、これほどうれしいことはない。しかし今、自分が末法の法華経の行者として最大の岐路を迎える瞬間がせまっている。その時になにがおきるのか。日蓮は予感していた。だがそこに証人がいなければ、後世に正しく伝わらない。歴史の荒波に藻屑として消えるやもしれないのだ。

日蓮は金吾をさますため叱責した。

「四条金吾よ、しっかりするのだ、心して見ておけ」

日蓮が馬からおり、刑場へおもむく。

現在の午前三時前後、丑寅の刻であった。

月と松明の明かりの中、(むしろ)しかれている。そこに首切り役人がまっていた。

日蓮は敷物に正座し手をあわせた。

ここでようやく伯耆房ら弟子たちが追いついた。彼らは数珠をとりだし、涙とともに題目を唱えはじめた。つねひごろ気丈な伯耆房の目頭からも、さすがに一筋の涙がこぼれた。

四条金吾は日蓮のななめうしろに正座した。そして上半身裸となり、短刀の鞘からおもむろに刀をぬく。日蓮と死を共にするためだ。

号令がかけられた。

「はじめ」

日蓮が唱える。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

首切り役人が日蓮の左うしろにすすみ、ゆっくりと刀をぬき、高くかかげた。

この時である。

どこからか、光が刀剣に反射した。

役人があやしんで動きをとめた。

光は海のむこう、江の島方向の太平洋の暗闇からだった。

満月と見まごうほどの大きさの白い光り物が、ゆっくりとこちらにむかってくる。

「あれはなんだ」

目の前の江ノ島全体が不気味にかがやいた。

兵士が絶叫した。

光が音もなく、兵士一人一人の顔を照らし、竜の口の刑場一面が真昼のようになった。

「でた」

首切り役人は倒れ伏し、兵士は悲鳴をあげて逃げ散った。武士は馬からおり、ふるえながら手をあわせる。馬の上でうずくまる者もいた。

古来、竜の口の法難についてはさまざまなことがいわれてきた。斬る瞬間に雷がおちたとか、刀がこなごなにわれたとか、まことしやかにいわれるが真相は以上である。

光物に関する詳細な史料はただ一つ、日蓮がのこした『種々御振舞御書』にしかない。

()しま()のかたより月のごとくひかり()たる(もの)まり()のやうにて辰巳(たつみ)(東南の方角)のかたより戌亥(いぬい)(西北)のかたへひか()りわたる。十二日の夜のあけ()ぐれ()、人の(かお)()へざりしが、物のひか()り月()のやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取り目くらみ()ふれ臥し、兵共(つわものども)おぢ(おそ)れ、けう()さめ()て一町計りはせのき、或は馬よりおりてかしこまり、或はうま()の上にてうずくまれるもあり。

兵隊は刑場周辺に散り散りとなった。のこされたのは日蓮と金吾、伯耆房ら日蓮門下の弟子信徒だけとなった。

奇跡であった。

読者はこの劇的な事件が作り話と思われるかもしれない。

じつは光物の登場はこれがはじめてではない。

北条幕府の公式記録「吾妻鏡」におなじ光物の記録がある。この日からさかのぼること五十年前、寿永元年六月二十日のことだった。

  戌剋(イヌノコク)。鶴岳辺有光物。指前浜辺飛行。其光及数丈(シバラク)不消。

(午後八時頃、鶴岡の辺に光る物があらわれた。前浜の辺へと飛んでいき、その光は数丈に及び、しばらく消えなかった)

 鶴岳とは日蓮が叱咤した八幡宮の場所である。光物はここから海にむかって飛来したという。竜の口の光物は寅の刻、午前三時頃の深更にあらわれた。また進入経路も五十年前とは逆で、太平洋から内陸にむかって飛んでいる。


またこの現象を科学的な見地から推測した学者がいる。東京天文台長で東大教授だった広瀬英雄は、この光物の正体は彗星が落とした破片(流星)だったという。

この日、文永八年九月十二日は太陽暦で今の十月二十五日にあたる。日蓮によると光物が出現する直前は真っ暗で、人の顔も見えなかった。この時を「あけぐれ」と呼んでいる。天体運用表で計算してみると、当日の月没時刻は午前三時四十四分(日本標準時)であるから、死刑執行予定時刻は月没ごろかその少しあと、ほぼ現在の午前四時前と考えてよい。(うし)の刻の終わりである。

さらに広瀬はこの光物が、おひつじ・おうし座の流星群に属するものと考えた。なぜならこの流星群は十月下旬に活動し、しばしば明るい流星を発生させるからである。この流星群を発生させる母体がエンケ彗星である。この彗星は太陽の周りを3.3年の周期で公転する。その軌道に沿って落としていった小さな破片(流星)が地球に落下し、日蓮の命を救ったという。『流星光底の長蛇・日蓮と星』一九七三年

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                  エンケ彗星 Wikipedia より

 いずれにせよ光物は日蓮を闇の中で葬ろうという陰謀を、白日のもとに暴いたのだった。

 四条金吾は絶体絶命の窮地を乗り越えたことに驚愕するとともに無事であることの喜びで師のもとにかけよった

「聖人、ご無事でなによりでございます」

しかし日蓮はどうしたことか意外な行動にでた。

立ちあがり、逃げ散った兵士を叱ったのである。

いかにとのばら・かかる大禍ある召人(めしうど)にはとを()のくぞ近く打ちよれや打ちよれや。 
 ()あけば・いかにいかに(くび)(きる)べくわいそぎ切るべし夜明けなば()ぐる()しかりなん。  「種々御振舞御書

「どうしたおのおのがた。この囚人になぜ離れる。もどらぬか。近くにきてこの日蓮を斬ってしまえ。もう夜が明ける。急いで斬るべきだ。明るくなれば見苦しいではないか」

 すさまじい気迫である。

だが兵士は草や砂に身をかがめて動けず恐怖にふるえた。戦いでは勇猛果敢でも、得体の知れない相手には死ぬほど臆病だった。

日蓮はなおも怒ったように呼ぶ。)

答える者はだれもなかった。

この時、かがやく朝日がかなたの水平線から顔を出し、暗闇がやぶられた。

日蓮が光を真正面に受け、砂浜に正座した。

そして太陽にむかい、手をあわせて「南無妙法蓮華経」と一声題目を唱え、地にひれ伏した。

よせる波がざわめく。

ひれ伏していた日蓮が上体をおこすと、太陽の光線が日蓮の全身をてらした。

四条金吾、伯耆房らの弟子信徒がこの姿に打ち震え、かけよって日蓮その人にひれ伏した。

元初の日天子が天空にみなぎり、日蓮とその門下をてらす。

日蓮はこの時の心情を、九日後に四条金吾に宛てた手紙で次のように書きのこしている。


今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におと()るべしや。其の故はすでに法華経の故なるがゆへなり。経に云はく「十方仏土の中には(ただ)一乗の法のみ有り」と、此の意なるべきか。此の経文に一乗法と説き給ふは法華経の事なり。十方仏土の中には法華経より(ほか)は全くなきなり。「仏の方便の説をば(のぞ)く」と見えたり。()し然らば日蓮が難に()う所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界(注)の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には(たつ)(のくち)に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土(じゃっこうど)(注)ともいうべきか。神力品(じんりきぼん)に云はく「若しは林中に於ても、若しは園中に於ても、若しは山谷(さんごく)曠野(こうや)にても、是の中に乃至(ないし)(はつ)涅槃ねはん)したまふ」とは是か。 『四条金吾殿御消息



           32 虎口からの脱出 につづく
上巻目次

発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん

)迹を(ひら)いて本を(あらわ)す、と読み下す。天台は、法華経如来寿量品第十六で、釈尊が始成正覚(釈迦族の王宮をでて出家し、菩提樹の下で悟りを開いた)という迹を(はら)って五百(じん)(てん)(ごう)()()他阿(たあ)僧祇(そうぎ)久遠(くおん)成道(じょうどう)したという「久遠(くおん)(じつ)(じょう)」の本地を顕したと説いた。日蓮大聖人は竜の口の法難で、上行菩薩の再誕という迹を発って、末法の本仏としての本地を顕した。


娑婆世界

苦悩が充満している人間世界のこと。忍土・忍界ともいう。娑婆は梵語サハーの音訳で、勘忍(かんにん)・能忍と訳す。また娑婆とは法華経弘通の世界である。釈尊は法華経如来寿量品第十六で「我常在此 娑婆世界説法敎化 亦於餘處 百千萬億 那由佗 阿僧祇國 導利衆生(我は娑婆世界で常に説法敎化してきた。また余所の幾千万億の国でも衆生を導き利してきた」と説いている。ここから狭義の意味では娑婆は釈尊有縁の仏国土=地球と言える。また余所の幾千万億の国という表現は、この宇宙に仏が出現する仏国土つまり星は無数にあることを示している。

「御義口伝に云はく、本化弘通の妙法蓮華経を大忍辱(にんにく)の力を以て弘通するを娑婆と云ふなり。忍辱は寂光土なり。此の忍辱の心に釈迦牟尼仏あり。娑婆とは堪忍世界と云ふなり云云」『神力品八箇の大事』

寂光土

常寂光土ともいう。観無量寿経疏等で天台が説いた四土の一つ。真実の本仏が住する国土のこと。常は本有(ほんぬ)常住またはその体である(ほっ)(しん)、寂は寂滅・解脱、光は光明・諸相を照らす智慧般若(はんにゃ)の意。この常住・寂滅・光明の仏土が常寂光土である。しかし釈迦は法華経如来寿量品第十六で「是れより(このかた)(われ)(つね)()の娑婆世界()って説法教化す」と説いて娑婆世界が即常寂光土であることを明かした。日蓮大聖人は妙法(たも)つ者の住所が常寂光土であると説く。

「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷(せんごく)(こう)()皆々常寂光の宝処なり云云」『御義口伝 化城喩品七個の大事



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# by johsei1129 | 2017-04-08 18:39 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

27 大難への予兆

 日が暮れて鎌倉中が暗くなってきた。

 極楽寺では人々が雨のおちる門前にあつまり、平形の数珠を投げすてた。

 日蓮の法華宗への転教である。

 寺の中では周防房と入沢入道が良観をさがしていた。

 行方不明になったのである。

 やがて良観は邸内の庭にいることがわかった。

 彼は草かげにうずくまり、湿った地面を凝視していた。

 雷光が良観のすさまじい怒りの顔面をてらした。

 良観は釈尊の仏敵、提婆(だいば)(だっ)()になることをきめた。いや、なるべくしてなった。

 なんとしてでも日蓮を葬り去ることをきめたのである。

 提婆達多は釈迦の命をねらいつづけ、最後は自らの親指に毒を仕込み、釈迦を毒殺しようとしたが、自分自身に毒が回り、大地が割れ現身のまま無間地獄におちたという。

 その提婆逹多が釈迦を憎んだ直接の理由は、公衆の面前で罵倒されたからである。

 世尊提婆(だいば)(だつ)()を汝愚人・人の(つばき)を食らふと罵詈(めり)せさせ給ひしかば毒箭(どくせん)の胸に入るがごとくをもひて、うらみて云はく「()(どん)仏陀(ぶつだ)にはあらず。我は(こく)(ぼん)(のう)(注)の嫡子、阿難尊者が兄、瞿曇が一類なり。いかにあしき事ありとも、内々教訓すべし。(これ)()(ほど)の人天大会に、此程の大禍を現に向かって申すもの大人仏陀の中にあるべしや。されば先々(さきざき)妻のかたき、今は一座のかたき、今日よりは生々世々に大怨敵(おんてき)となるべし」と誓ひしぞかし。『開目抄上

 瞿曇とは釈迦のことである。

 釈迦は悪意があって提婆を叱責したわけではない。

 提婆はもともと釈迦の弟子だった。彼は釈迦とおなじ印度の王族であり、いとこ同士だった。それだけに智慧もあり衆望もあつかったが反面、功名心が異常に強く、釈迦のあとは自分が引きつぐと慢心していた。

 釈迦はそのような提婆をいくども教訓したが提婆は聞かない。釈迦は彼のどす黒い心性を見抜き、未来を思って叱責したのだった。

 人の唾を食うとは痛烈である。

 それほど提婆の暗い本性は底知れなかった。名聞名利で生きる提婆にとって大衆の面前で罵倒されることは死ぬことよりもつらい。提婆の心中に毒の矢が刺さった。立身にはやる提婆にとって、公衆の面前で面罵されたことは抜きがたい恨みとなった。印度第一の美女、耶輸(やしゅ)多羅(たら)(にょ)を妻にしようとして釈迦に敗れた遺恨もあった。

 提婆は思った。釈迦を亡きものにすることが自分を救うことだ。いらい彼は終生、釈迦の命をねらった。

 男は恥に命を捨てるという。提婆は公衆の面前で恥をかかされて、その本性をあらわにした。

 ちなみに提婆逹多はこのあと三逆罪を犯す。()阿羅漢、破和合僧、出仏(すいぶつ)(しん)(けつ)である。まず釈迦の弟子であり養母だった摩訶波闍(まかはじゃ)波提(はだい)を殺害した。つぎに釈迦の教団から自分の弟子を連れ出して分裂させ、存亡の際まで追いつめた。最後は岩石を落として釈迦の小指をつぶしている。いかに悪人といえど、仏の身を傷つけたのは、あとにも先にも提婆達多と小松原の法難で日蓮の額を刀で切りつけた東条景信だけである


 良観は祈雨の勝負で立ち直れないまでの敗北を味わった。この恨みを晴らすためには、日蓮を抹殺する以外にない。いまの良観にとって日蓮の門下にくだるどころか、懺悔など露ほども考えられないことである。そのためにあらゆる手段を使わねばならない。僭聖(せんしょう)増上慢の本性をむき出しにしたのである。

 日蓮は釈迦と提婆逹多の二人の出会いが宿命であり、おなじく聖徳太子と物部守(もののべのもりや)の関係と同様であるという。法華経の行者の前に怨敵がいるのは必然であるといいきっている。

仏と提婆とは身と影のごとし、生々にはなれず。聖徳太子と守屋(注)とは蓮華の花果(けか)、同時なるがごとし。法華経の行者あれば必ず三類の怨敵(おんてき)あるべし。三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の眼の亀の(ふぼ)((注)に()ふなるべし。 『開目抄下

降雨の祈りを終えた日蓮の一行がしとしと降る雨の中、若宮大路を進んだ。

勝者の行進だった。

沿道の衆が大歓声でむかえた。

無理もない。

関東の一円はこの雨で蘇生した。飢饉は間一髪でまぬかれたのである。


祈雨の勝利によって日蓮に帰依する人々が熱狂的にひろまった。

晴れた日の広場に人々があつまった。

木々の緑はあざやかによみがえっていた。

伯耆房が館で法華経の説法をした。

また念仏の寺院では日朗が黒衣の僧と対面した。念仏僧が手をあわせて日朗に深々と頭をさげ、帰順の態度をしめした。

武家屋敷では三位房がいならぶ武士の前で説法した。武士の一人が手をあわせるのにつづき、ぞくぞくと三位房に合掌した。

三位房は得意そうな顔でうなずいた。

鎌倉中が寝静まった夜、いつものように日蓮は弟子たちを前に法華経の講義をした。座は熱気にあふれ、広宣(こうせん)流布(るふ)(注)への機運がいやがうえにも高まってきていた。

一念三千と申す事は迹門(しゃくもん)にすらなを()許されず(いか)(いわん)()(ぜん)(ぶん)()へたる事なり。一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)の十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の()()(はん)(もん)、迹門は本門の依義判文なり。(ただ)真実の()(もん)(はん)()は本門に限るべし。されば円の行まち()まち()なり(いさご)かず()へ大海を()なを()円の行なり。何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但これらは時時(よりより)の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の(ぎょう)()なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととな()へさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名ありこれ通名なり。別名は三世の諸仏(みな)南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。十章抄

 講義のあと、伯耆房がうれしさをこらえきれず話しだした。

「法華経の説法をぜひ聞きたいと懇願される御家人が多数でてまいりました」

日朗もつづいた。

「上人の祈雨が叶ったとの噂が広がり、鎌倉以外の地からも説法を請う者が数えきれないほどです。この十余年、日本国はみな念仏者でございましたが、上人のお力で十人に一人二人が南無妙法蓮華経と唱え、二三人は南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の両方を唱え、また未だ念仏を申す者も、心は法華経を信じているように見受けられます」

つづいて三位房も鼻高々だった。

「わたくしめも幕府をつかさどる武家の面々の前で説法することができました」

ここで彼は急に京都なまりになった。

「さきごろは京都でお公家様がたに召され、お話をいたして面目をほどこしました。そこでわたしは名を変えてみようかと思っております」
三位房はいささか公家なまりで滔々と語りだした。

日蓮が話をさえぎった。

「まて、三位房。そなたの話はいかにも気がかりに思われる」

三位房が意外な顔をした。法華経がいま勢いよく流布しているというのに日蓮の表情はけわしい。

「たもつ法はこの世にまたとない法門である。たとえ大菩薩であろうとなんであろう。まして日本の天皇はただ小島の(おさ)である。長なんどに仕える者どもに召されたとか、面目なんど申すのは、(せん)ずるところは日蓮を卑しんで申すようなものだ。総じて日蓮の弟子は京にのぼれば、はじめは忘れぬようにて、のちには天魔がついてものに狂う少輔房のようだ。おまえも少輔房のようになって天の怒りを招くことになる。わずかのあいだに名を変えるとは正気の沙汰とは思えない。言葉つきも声も京なまりになった。(ねずみ)がこうもりになったようだ。鳥にもあらず鼠にもあらず、田舎坊主にもあらず京法師にも似ず、すっかり少輔房になったようだ。言葉は田舎なまりで通せ。その浮かれた振る舞いは、なかなか悪い前兆であるぞ」

座が緊張した。

今や高弟となった三位房が信徒の面前で叱責された。しかし三位房の顔は納得していない。

日蓮がつづける。

「一切衆生の尊敬すべきものに三つあり。いわゆる主と師と親である。また習学すべきもの三つあり。儒教・外道・仏法である。この中に過去、現在、未来を見とおしてすぐれた教えは仏法である。その仏法の中でただ一つの正しい教えは法華経である。あらゆる虚飾をとりはらい、永劫の命を説いた法華経こそ真実の教えである。しかしだれもが法華経を見たが、読んだ者はいない」

弟子はいぶかしがった。

日蓮が法華経をひらく。

「『諸の無智の人有って悪口(あっく)罵詈(めり)等し及び(とう)(じょう)を加ふる者あらん』と。この一節は日蓮がこの世に生まれなければ、釈尊はほとんど妄語の人となったであろう。釈尊滅後、いったいだれが法華経のために悪口罵詈せられ、刀杖の難をうけた者がいたであろうか。日蓮がいなければ、法華経のこの偈は虚妄となってしまう」

日蓮の真意とは反対に、弟子の中で日蓮を疑う者がいた。

三位房はその筆頭で、内心ではこうつぶやいていた。

(師匠の思いあがりだ)

 日蓮は淡々と説いていく。

「『この悪僧、常に大衆の中にあって国王、大臣、()羅門(らもん)に向かって我等の悪を説く』と。今、世の僧らが日蓮を誹謗し流罪にしなければこの経文はむなしい。この釈尊の予言が適うゆえに、ただ日蓮一人がこれを身で読んだのである。いまもまた三類の強敵(ごうてき)がうごめいている。すでに()()良観らが訴状をしるして将軍家に献上しようとしているのだ。これが三類の強敵でなくして、なんであろうか」

祈雨の勝利によって鎌倉での日蓮の評判は激的に好転したが、同時に日蓮を亡き者にしようとする勢力はその本来の力をむきだしにして策謀しはじめた。

良観は念仏僧の然阿とともに、訴状を将軍家にさしだして日蓮を訴え、建長寺道隆は自ら奉行所に出むいて讒言した。

日蓮はこの動きを察知していた。それはきたるべき大難の予兆だった。

弟子たちは法華経の流布が進展していることに浮かれていたが、一人さめていたのである。


 ここで疑問が残る。日蓮はなぜ良観に降雨の対決を迫ったのかという疑問が。

 疑問の一つは、宗教の正邪は経による法論で決すべきと主張してきた日蓮が、なぜ降雨の対決で正邪を決しようと良観に迫ったのか。

 もう一つは、日蓮はこの時代では確実な予測が極めて困難な、しかも七日先までの天候について如何(いか)にして予知できたのであろうか、かりに予知測ができたとしたら、その根拠はいったい何だったのか。一説には日蓮は安房・()(みなと)の漁師の家で生まれたので、父親から天候の予測を聞いて育ったから雨が降らないことをあらかじめ予測ができたのだろう、と言う主張がある。しかし天候は変動する。しかも七日先までに雨が降らないという確実な予測は困難だ。

 生涯、法華経の弘通(ぐつう)に身を投じた日蓮が、宗教の正邪ではなく、雨が降らすことができるかどうかで宗教の勝劣を決するというのは、ある意味、博打(ばくち)同然であるとさえ思えてくる。そうなれば行き着く結論は、日蓮は自らが天候を自在に左右するだけの力用(りきゆう)を有していて、その絶対的確信をもって良観との降雨の対決に持ち込んだとしか考えられない。

 その意味で、日蓮大聖人は、良観に降雨の対決を迫った時点で、すでに末法の本仏としての確信を得ていたのでは、と強く推察される。

 
          28 極楽寺良観の策謀 につづく

上巻目次

 斛飯王   

釈迦の父()()()()(じょう)(ぼん)(おう)の弟で、釈迦の叔父。竜樹の大智度論によると提婆(だいば)(だっ)()・阿難兄弟のの父となっている。

 守屋

物部守屋(もののべのもりや)のこと。?~五八七年。大和時代の中央貴族。()()()()敏達・用明朝に大連となり、父・尾輿の排仏論を受けて崇仏派の蘇我馬子と対立した。日本書紀によると、敏達天皇十四年、馬子が大野岡に塔を起こして仏会を行ったのに対し、その頃、起こった疫病は崇仏が原因であるとして中臣(なかとみ)勝海(のかつみ)と共に排仏を上奏した。そして勅によって寺を焼き、仏像を焼いて難波の堀江に流した。その時、疱瘡が流行し、天皇・守屋・馬子共に患い、ついに天皇は逝去した。次いで用明天皇二年、勅によって崇仏が行われたが、守屋はこれに反対して軍勢をおこした。天皇の没後、(あな)穂部(ほべの)(おうじ)を擁立しようとして更に馬子と対立し、数度の戦いの後、(うまや)(どの)皇子(おうじ)(聖徳太子)が四天王に祈願した矢にあたって敗死した。以後、物部氏は衰退した。

一眼の亀の浮き木

 大海にすむ一眼の亀が、広大な海の中で我が身を癒す栴檀の浮き木にあいがたいこと。人間に生まれて正法にあうことの難しさをたとえたもの。

「仏には()いたてまつること得難し。()曇波(どんば)()()の如く、又、一眼の亀の浮き木の(あな)に値えるが如し」 「妙荘厳王本事品」

 広宣流布

仏法を広く()べ流布すること。法華経薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して、断絶して悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉(やしゃ)鳩槃(くはん)()等に、()便(たより)を得せしむること無けん」とある。仏法を広く世界に弘め伝えることによって平和な社会を築くことをいう。歴史上では、紀元前三世紀ごろ、インドの()(そか)王時代の小乗教流布、六世紀、中国・天台の法華経迹門(しゃくもん)の流布などがあり、日本では平安初期に伝教大師が法華経迹門の戒壇を比叡山に建立している。

日蓮大聖人は末法に広宣流布すべき法門として三大秘法を打ち立て、在世中に本門の本尊を顕し、滅後に本門の戒壇の建立を遺命した。

「御義口伝に云はく、畢竟(ひっきょう)とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住すべき者なり、是人とは名字即の凡夫なり、仏道とは究竟(くきょう)(そく)是なり、疑とは根本疑惑の無明を指すなり。末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏すべきこと決定(けつじょう)なり云云。」 『神力品八箇の大事 畢竟(ひっきょう)(じゅう)一乗(いちじょう)○是人於仏道 決定(けつじょう)()有疑(うぎ)の事』

 地涌の菩薩

釈迦の説法を助け、滅後の弘教を誓った本化の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に説かれている。地涌の大士・地涌千界の大菩薩・本化の菩薩ともいい、末法に妙法を弘通するために出現する菩薩をいう。滅後の弘通を勧める釈迦の呼びかけに応えて大地の底から()き出てきたゆえに「地涌の菩薩」といい、上行・無辺(むへん)(ぎょう)・浄行・安立(あんりゅう)(ぎょう)の四菩薩を上首とする。釈迦は他方および迹化の菩薩を退(しりぞ)けて、如来神力品第二十一で上行等の四菩薩を上首とする地涌の菩薩に妙法を結要付嘱し、末法の弘通を託している。末法に三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える者が地涌の菩薩となる。

「今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は従地涌出の菩薩なり。外に求むる事無かれ云云。」『御義口伝 二十八品は悉く南無妙法蓮華経の事』


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# by johsei1129 | 2017-04-06 22:08 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

26 日蓮、降雨へ渾身の祈り

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                        (日蓮聖人御一代記より)
 良観が阿弥陀像の前で正座した。
 そこに入沢入道が息を切らせて走りこんできた。
「日蓮の使いがきております」

 良観がおどろいたのと同時に日蓮の弟子、日朗があらわれた。

 薄墨色の法衣を着た日朗は黒衣の僧を見まわし、一字一句かみしめるように言い伝えた。

「日蓮上人の弟子、筑後房日朗が謹んで上人の伝言を申しあげまする。雨の祈りは本日一日、良観上人にとって運命の日でござる。もし本日雨がふらなければ、かねてのお約束どおり日蓮上人の弟子となって、一から法華経の修行に励み候べし。さもなくば山林に身を隠するがよろしかろう」

極楽寺の信者が日朗につかみかかったが、周防房と入沢入道が止めた。信者は日蓮への憎しみをむきだしにしたが、周防房が懸命にさとした。

「さわぐな。ここで手をあげれば、われわれの負けだ」

 信者は日朗に罵声をあびせた。

「まだ終わったわけではないぞ」

 彼らは罵りながら早々に日朗を追いだした。

 日がかたむき、祈祷所に風が舞う。

 極楽寺の信者が一人二人去っていく。

 このうち一人が腹立たしげに平形の念珠を地面にたたきつけた。平型は念仏宗の象徴である。

 信者がまばらになっていく。

 ここで二度目の使者、日昭があらわれた。

「日蓮上人の弟子、弁阿闍梨日昭が上人の伝言を申しあげる。良観殿、もう日はくれる。いさぎよく負けを認めなされ。良観殿、見苦しい姿を見せるのはやめたまえ。しょせん戒律・念仏はとるにたらず、法華経におよばないのだ。良観殿、観念したまえ」

 良観には聞こえない風だった。彼はなおもうつろな顔で念仏を唱えていた。

 太陽が山の端にさしかかり一日が終わろうとしている。

 ここで良観は突然、もっていた数珠を引きちぎり空に叫んだ。怨恨をこめた怒声だった。

「なぜふらぬ。余はかつて雨をふらせないことはなかったのだ。だが今なぜふらぬ。余のどこに落ち度がある。余はこんなところで祈る者ではないのだ。鎌倉はもとより、奈良・京都に君臨する大僧正、いや大師と呼ばれるにふさわしい身なのだ。そうだ、余に失敗は許されぬ。これからも愚かな大衆の上に君臨しなければならない身だ。それなのになぜ今・・」

 良観が頭を地面にこすりつけ、なんどもたたいた。

 それでもなお諦めきれない良観の信者は念仏を唱え続ける。やめれば敗北を認めることになる。それはさすがに耐えきれないのだろう。

 良観の敗北が決定的になった時、三度目の使者、伯耆房日興が登場し夕陽を背に高らかに告げた。

「日蓮上人の弟子、伯耆房日興が上人の伝言を申しあげる。忍性良観殿、雨ふらずして悪風のみ吹きたるは何事である。戒律第一の良観聖人は法華・真言の義理をきわめ、慈悲第一と聞こえたもう。それが数百人の宗徒をひきいて七日のうちになぜふらすことができぬ。これをもって思いたまえ、一丈の堀をこえぬ者、十丈二十丈の堀をこうべきか。やすき雨さえふらすことができぬ、いわんやかたき往生成仏をや。しかれば今よりは日蓮を(あだ)みたもう邪見をば、これをもって(ひるがえ)したまえ。なんじ来世を恐ろしく思わば、約束のままに急ぎ来たりたまえ。雨ふらす法と仏になる道を教えてつかわそう」

 良観が伯耆房をにらみ、声をうならせた。記録によれば、彼は泣いて感情をむきだしにしたという。

 尋常ではない。鎌倉の生き仏といわれた聖人である。良観がこれほどの屈辱をうけたことはいまだかつてない。

 しかし伯耆房は容赦なく言いはなつ。

「干魃はいよいよさかん、悪風はますます吹きかさなって民のなげきいよいよ深い。すみやかにその祈りをやめたまえ」

 信徒が我にかえったように念仏をやめ、伯耆房を仰ぎ見た。

 怨念の声があがった。

 この怨嗟(えんさ)の響きが外にもれ、様子を見ていた群衆が逃げだした。

 日蓮はのちにこの祈雨について、建治五年五十六歳の時、著した「下山御消息」で次のように記している。

 起世経に云はく「諸の衆生放逸(ほういつ)()し、清浄の行を汚す、故に天即ち雨を(くだ)さず」と。又云はく「不如法(ふにょほう)なる有り、慳貪(けんどん)嫉妬(しっと)邪見(じゃけん)顛倒(てんどう)せる故に天則ち雨を(くだ)さず」と。又(きょう)(りつ)異相(いそう)に云はく「五事有って雨無し。一二三これを略す。四には雨師(うし)淫乱、五には国王理をもって治めず、(うし)(いか)る故に()らず」云云。此等の経文の亀鏡をもって両火房が身に指し当てゝみよ、少しもくもりなからむ。一には名は持戒ときこゆれども実には放逸(ほういつ)なるか。二には慳貪なるか。三には嫉妬なるか。四には邪見なるか。五には淫乱なるか。()の五にはすぐべからず。又此の経は両火房一人には(かぎ)るべからず。昔をか()み今をもしれ。

 両火房とは良観の別称である。祈りが叶わないのは、放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱のゆえという。

良観は完膚なきまでに敗れた。この瞬間、名声は地におちた。

 北条時宗邸では安達泰盛と平頼綱が激論していた。扇子をかざしながら非難の応酬である。

 泰盛が唾をとばして頼綱をなじった。

「おぬしも雨乞いの件は賛成したではないか」

 頼綱が食ってかかる。

「なにを申す。わしがいいたいのは結果だ。この責任をどうするのだ。この七日間、期待をかけたばかりに、干魃はひどくなったのだ。責任をとられよ」

「おぬしこそなにをしていた。北条の官房でありながら、無策の毎日だったではないか。その言葉、そのままかえすぞ」

 すわっていた二人が刀をつかんで立ち膝になった。
 時宗が怒る。

「まて。つまらぬ争いはやめよ。すぎたことはいたしかたない。これからどうするかが問題であろう」

 二人がふてくされてすわった。しばらくして泰盛がつぶやいた。

「それにしても、町では日蓮が良観の祈祷をさえぎったとの評判でござる。それがまことならば許してはおけぬ」

 頼綱が吐きすてた。

「日蓮にそのような力はないわ。良観に実力がなかっただけのことだ。まったく、金の力で成りあがった坊主に期待をかけるとはな」

 時宗の前で頼綱頼になじられた泰盛は、悔しさで身震いした。泰盛の妹で、父亡き後養子とした覚山尼は、時宗の正室となっている。泰盛は北条の外戚として時宗を支えている。北条とは無縁の頼綱ごときに非難される筋合いはないと怒りが収まらない。この二人の軋轢(あつれき)は幕府を揺るがす火種となった。

 いっぽう泰盛の思いなど眼中にない頼綱が主人に告げる。

「いずれにしても日蓮は捕らえるつもりでござる。われらを支配者と認めぬ者は首を斬るのが筋」

 時宗がなだめた。

「頼綱、早まるな。父上の遺言である。日蓮上人に手を出してはならぬ」

 頼綱はねばる。

「今回の件で日蓮の一派が勢いづき、信者をふやしております。危険は増しておる。殿、日蓮は良観のように従順ではございませぬぞ。あやつを捕縛しなければ、必ず禍根をのこします。事がおきる前に処理すべきでござる」

 泰盛がいきどおった。

「執権の命令を聞かぬか。そんなことをしても、だれも納得せぬわ」

 頼綱が目を細めた。

「日蓮は祈祷に勝っただけだ。雨をふらせたわけではない。今回の件は時がすぎればおさまる。かえって鎌倉のだれもが雨を止めた日蓮を恨むであろう。日蓮の逮捕は世を静めることになる。もっとも日蓮にふらす力があればべつだが」

 時宗と泰盛が腕を組んだ。

 この時、小姓があわただしくやってきて時宗の耳にささやいた。

 幕府の重鎮が談合している最中に、時宗お墨付きの小姓とはいえ、割って入るとは急な事態が起きたことは間違いない。

 泰盛と頼綱がなにごとかと時宗の目を見る。

 時宗がつぶやいた。

「日蓮殿が雨の祈祷をされる」

「なんとなんと、日蓮殿が祈祷とは」

 思いがけない展開に泰盛は一瞬笑みをこぼす。いっぽう良観の肩を持つ頼綱は憎々しげに泰盛を睨みつけた。

 ぎらつく太陽の下、町衆が日蓮の館の前でひしめきあった。群衆は暑い日刺しにさらされぬよう傘をさすか、かぶり物をつけている。

 日蓮らの一行が出てきた。彼らは良観の黒衣とは対照的に、薄墨の衣であらわれた。

 鎌倉の期待は一気に日蓮にあつまった。

 大衆が歓声をあげる。

「日蓮上人様」

 なかには「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱える者まででてきた。日照りに苦しむ農民にとって雨の願いは切実だ。良観殿の念仏がだめなら、日蓮上人の法華経にすがるしかないとの思いがひしひしと伝わってくる。
 一行は四条金吾、土木常忍を露払いとして出発した。
伯耆房、日朗、日昭が香炉、燭台、花立をもってすすむ。少年の熊王は誇らしげに南無妙法蓮華経と大書した旗をもった。

 群衆がそのあとをついていった。彼らは日蓮の背中によびかけた。

「日蓮上人、どこへゆきなさる」

 伯耆房が固い決意でいる。だがほとんどの弟子は不安な面持ちだった。

 極楽寺は閑散としていた。信者は広い本堂にまばらである。

 良観はやつれてはいたが平静をよそおっていた。彼は苦しまぎれに話しだした。

「このたびの件はわけもないことでございます。雨の祈りというものは、十回祈って一回ふれば大成功なのです。このつぎはこの良観、かならずふらせてみせましょう。であるから雨をふらせるのに勝負ということは、あまりに軽率なことで・・」

 良観は赤恥をかかされても説法をやめない。はなれた信者をつなぎとめようと必死だった。

 ここに周防房が汗まみれで本殿に入ってきた。

 良観がとがめる。

「いかがいたした。そのあわてぶりは」

 周防房はいかにも恐ろしげだった。

「日蓮が雨の祈りを始めるとのことです」

 これを聞いた信者がつぎつぎと外へでていった。

 鎌倉郊外。

 強い紫外線のもと、日蓮の一行が田舎道をすすむ。彼らは小高い山裾の道を歩いていた。群衆がついていく。

 林に囲まれた池があった。

 一行が池のほとりに(むしろ)をしいた。

 伯耆房らが香炉や経机を運んで準備をはじめた。

 群衆があきれた。

「こんなへんぴな所で祈るのか」

「しかもたったあの人数で・・」

 四条金吾が最後尾で聴衆を静める。

「みなの衆、日蓮上人の祈りがはじまりまするぞ。お静かに願いつかまつります」
 金吾も町民や農民に対してはいつもとちがっていやさしく語る

 日蓮がおもむろに胸から一枚の板をとりだし、筆でさらさらと祈祷文をしたためた。そして板をゆっくりと池に入れ、手をあわせ一声力強く「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と題目を三遍唱えた。このあと方便品第二、如来寿量品第十六を読誦する勤行がはじまった。

 鎌倉御所では汗まみれの泰盛と頼綱がうらめしく空を見ていた。

 庭の花が枯れかかっている。

 極楽寺では良観が座敷をせわしげに歩き回った。良観は膳の美食にも手をつけられない。不安にさいなまれる自分をどうすることもできない。

 日蓮の読経()がつづく。

「毎時作是念。以何令衆生。得入無上道。即成就仏身。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経経・・」

 伯耆房日興が太鼓をたたく。この音にあわせて日蓮が題目を唱えはじめた。

 日蓮はあらかじめ弟子たちに『雨が降るまで唱題は止めない』と厳命していた。

 雌雄を決する時がきた。日蓮門下の弟子一同、また金吾・常忍・乗明等の強信徒も決死の形相で日蓮につづく。

 群衆がしばらく見守っていたが、灼熱の空に変化はない。

 首をふって帰る者がでてきた。

「ふるわけがない。これでもう、だれも信じられなくなったわ」

 この時、かたわらの大きな葉に一粒のしずくがおちた。

 炎天下に田畑は枯れきった。

 ひとりの百姓が桶を天秤で運んできた。桶は井戸からくんだ水である。日の出から沈むまで、何回もくみあげた。大切な畑のためだった。それでも足りない。

 百姓は汗だくになりながら桶をおいた。水は半分にも満たない。

 そこへ赤子が近づいて水を飲もうとした。子供もかわいていたのだ。

「おとう。みず、みず」

 百姓が子供に気づいたがおそかった。子供が桶をたおしてしまった。

 おどろいて駆けより、流れた水をすくったが、水は乾いた地面に吸い込まれた。

 思わず子供をつきとばした。赤子が泣きじゃくる。

 はっとして我にかえった。

 妻が家から出てきて子供をかばい、涙声でなじった。

「子供にあたってどうする」

 妻は子を抱きかかえ家にはいる。家では床に伏せた老婆がいた。

 百姓が子供の泣き声を聞きながら畑にうずくまり、なんども土をたたいた。

 しぼりだすように涙がでる。土をつかんだ手の甲に、涙がぽたりぽたりとおちた。もう限界だった。

 しかしどうしたことか、百姓はしずくがまわりの地面にも落ちているのに気づいた。

 はっとして空を見あげた。

 一片の雲が真上にあるのを見た。

 雨がぱらぱらと落ちてきた。

 百姓に生気がもどった。

「雨だ」

 百姓がいそいで家にかえった。

「雨だ、雨だぞ」

 妻、子供、寝ていた老婆も、外を見あげた。

 雨がしずしずとふる。すべてをうるおす甘露だった。空はうす曇りとなり、水滴がゆっくりとおちてきた。

 人々は思わず道にでた。みなよろこびの顔で雨露にうたれた。

 池では群衆が空を見あげて大騒ぎになっていた。

「雨だ、雨だ」

 空全体がみるみる薄黒い雲でおおわれていく。

 だきあう者、泣きだす者。雨で顔をあらう者がいる。祈っていた四条金吾も土木常忍も抱きあってよろこんだ。いつも冷静沈着な太田乗明が涙ぐむ。

 伯耆房の太鼓が響く中、なおも題目の声がひびく。

 この時、雷が光とともに音をたてた。轟音は地面をゆるがし、歓声がいっそう高くなった。

 やがて群衆が日蓮の姿に気づいた。

 一心不乱に題目をあげている。雨がふろうがふるまいが懸命に祈っている。その姿は降雨という、ひと時の現象が問題ではなく、その先にある成仏こそが大切なのだと教えているかのようだった。

 群衆はかぶり物をはずし、雨に濡れるのを厭わず地面に正座し、いっせいに手をあわせた。日蓮にたいする感謝の一念が自然に人々をそうさせた。彼らにとって眼の前の日蓮は神・仏と仰ぐべき救世主だった。はじめは単なる野次馬だった。法華経の信心など、まるで縁のない民であった。だが今、池をとりかこむすべての大衆が太鼓の音にあわせ唱えはじめた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・」

 民衆は、雨に濡れ粗末なむしろに座る日蓮をとりかこんだ。かれらはこの日、日蓮門下の僧俗と一つになった。

            27 大難への予兆 につづく
上巻目次


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# by johsei1129 | 2017-04-06 21:39 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)
2017年 04月 06日

25 極楽寺良観と日蓮、降雨の対決

時は文永八年。日蓮は齢五十歳になっていた。
 太陽がぎらぎらと燃える。

田畑は干あがり始めていた。

乾いた砂ぼこりが舞う。

やせ細った馬がぐったりとしていた。

汗だくの百姓が鍬で土を掘るが砂のようにこぼれてしまう。彼は土おこしをあきらめた。

一面の大地に旱魃がはじまった。人々は十年前の正元元年春の大飢饉・大疫病をいやでも思いおこした。

百姓が心配そうに一枚一枚の葉をなでた。そして真っ赤な太陽をうらめしく見あげた。

鎌倉でも人々は灼熱の太陽の下、木かげや家の影でたむろしていた。

みなうらめしそうに空を見た。

北条時宗邸の一室に安達泰盛、平頼綱、北条宣時など幕府の御家人があつまった。みな扇子をふるのにいそがしい。

泰盛がうだるような暑さに閉口しながらも、ようやく会議の口火を切った。

「諸国が飢饉が蔓延しているとの知らせが頻繁に届いております」

頼綱が同調する。

「地頭も弱っておる。かれらは百姓に苗や銭を貸しているが、こう雨がふらねば共倒れになるのは必定じゃ」

宣時もつられて後追いする。

「各所で水争いがおきております。蒙古にくわえて、やっかいなことになり申した」

泰盛が時宗に伺った。

「その蒙古の使者が、また太宰府にきております。いかがすれば」

 時宗は吐きすてた。

「ほおっておけ。それよりも飢饉のことだ。なにか妙案はないのか。今年もまた不作となれば人心はますます乱れよう。いまは国がひとつにならねばならぬ時なのだ。蒙古どころではない。知恵をだすのだ」

北条宣時がまっていたとばかり言上した。

「殿、極楽寺の良観殿に祈らせてはいかがでございましょう」

宣時は良観の大檀那であり、念仏者である。

泰盛が手をうった。

「そうじゃ、それだ。良観殿がいた。雨乞いの名人だ。実績もあるぞ。あの僧ならば雨をふらす術にたけておる」

「殿、幕府の命により、良観殿をご指名くだされ。さすれば殿の御ためにも幕府の御ためにも、有難きことに」

泰盛が了解と察知し指示した。

「すぐに良観殿を政所に召されよ」

ほどなく極楽寺良観が政所迎賓の間に到着した。彼のそばには弟子の周防(すおう)房、入沢(いるさわ)入道がひかえる。

安達泰盛と北条宣時が真っ白い下文を携えて、あわてて迎賓の間に入ってきた。

泰盛はたった今しがた、時宗が花押をしたためた下文を読みあげた。

「諸国、干魃により被害すくなからず。わが幕府もこのまま手をこまねくは本意にあらず。よって汝極楽寺良観殿に雨の祈祷を命ずる。古来、五穀豊穣は上の願うところ、民の頼むところなり。(よろ)しく法の(しるし)をあらわし、民のため幕府のため勤めるよう」

良観の答えはうやうやしい。

「おそれ多いお言葉。しかとうけたまわりました。雨をふらすは、たやすくないとぞんじますが、かならずやご期待にそえるよう、阿弥陀仏に願いたてまつりまする」

 良観と北条宣時との目があった。
 

良観殿が幕府から降雨の祈祷を命じられた、との噂を聞きつけた信徒、武士、町民など大勢が良観一行を出迎えた。

 みな良観に手をあわせた。

 大檀那の北条光時が頭をさげる。四条金吾の主君である

「上人、雨の祈祷を時宗様からおおせられたとか」

良観がうなずいた。

「容易なことではありませんが、阿弥陀仏の本願により、祈りは間違いなく叶うでありましょう」

 町民が手をあわせた。

「良観様、お願いでございます。このままでいくと、鎌倉の田畑は全滅でございます。上人のお力で恵みをお与えくだされ」

 良観は満足だった。

「おまかせあれ、ふらせてみせよう。ただひとつ気がかりなのは『念仏無間、律国賊』などと、たわけたことをぬかす日蓮のことです。日本国の僧侶男女におしなべて戒律をもたせ、国中の殺生、天下の酒を止めよう思うのだが、日蓮がこの願いをさまたげておりまする。この日本国にとって嘆かわしいことでございます」

良観は五十六歳、鎌倉幕府の手厚い庇護もあり得意の絶頂にあった。

彼は執権時宗にも影響力をもっていた。飯島からの「関米」徴収権、鎌倉七道における木戸銭徴収権を得て幕府に上納していた良観は、国家鎮護の宗教的バックボーンとして、また経済的にも幕府と表裏一体の強い影響力を持つ存在だった。

 ふたたび松尾剛次氏の論文から引用する。松尾氏は良観の慈善活動が幕府と一体であったことを指摘している。

 桑ヶ谷は、現在の光則寺のある谷の北隣の谷で、極楽寺の東方に隣接する谷でもある。当初、極楽寺の建設予定地で、おそらく北条重時流の所領であったのだろう。それゆえ、忍性は、そこに病院を建て、病者の治療活動に邁進できたのであろう。

 ところで、こうした忍性の慈善救済活動を支えたのは、信者たちの寄付のみでなく、鎌倉幕府の後援も大きな意味をもっていた。(中略)桑ヶ谷の療病所では、二○年間で、四万六八○○人が治療を受けたが。その内、死者は一万四五○人で、実に五分の四の人が治癒したという。こうした治療活動は、北条時宗が発し、忍性が助けて実行していた点である。

 それゆえ、北条時宗は、土佐国(高知県)の大忍(おおさとの)(しょう)を忍性に与えて、桑ヶ谷での治療活動にかかる費用に充てさせたという。たしかに、極楽寺にも病宿(病院のこと)があり、極楽寺内での病宿で行うのがやりやすかったはずである。しかし極楽寺内の病宿ではなく、桑ヶ谷という極楽寺外で病院を作り、しかも二○年間で、四万六八○○人もの人々の治療活動を行っている。とすれば、桑ヶ谷での治療活動は、たんなる極楽寺の独自な活動という性格のものではなく、得宗(とくそう)(注)たる北条時宗の意向を代行するものであった。つまり、幕府の実質上の最高責任者である北条時宗が、忍性に救済事業を代行させていたのである。


極楽寺良観は権力の中枢にわけ入っている。彼の前に敵はいない。いるとすれば日蓮一人だったが、信者同士で小ぜりあいがある程度だ。良観にとって、無位無冠の日蓮など眼中になかったのである。

その夜、五十歳になった日蓮が説法をはじめた。頭には白いものが目立ちはじめた。

聴衆は暑さで扇子をふる者、汗をぬぐう者が大勢である。

この中に良観の弟子、周防房・入沢入道がいた。二人は偵察のためにきていた。日蓮に動きがあれば、すぐ良観に報告していた。

日蓮の説法はきびしさを増す。

「この鎌倉に良観という法師がおられます。身なりは質素であり、二百五十戒をかたくたもち威儀正しい。世間の無知の道俗はもちろん、国主より万民にいたるまで生き仏とあおいでいる。だが法華経を拝見するに、末法に入れば法華経を弘める者に、三人の強敵(ごうてき)があらわれると説かれている。余はその中のもっとも(はなは)だしい第三の敵はこの良観殿とみている」

周防房がたまらず口をはさんだ。

「おまちくだされ。なにを根拠にそのようなたわごとを」

日蓮はおもむろに法華経巻五を手にとり、勧持品第十三を開いた。

「唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説 有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍。

 (ただ)願わくは(うらおも)いしたもう()からず、仏の滅度の後の恐怖(くふ)(あく)()の中に()いて我等(まさ)に広く説くべし。(もろもろ)の無智の人の悪口(あっく)罵詈(めり)等し及び(とう)(じょう)を加うる者有らん、我等皆(まさ)に忍ぶべし」ではじまる二十行の偈である。

仏の滅後、ひとりの僧侶があろう。戒律をたもつようにみせかけ、わずかに教典を読んでは飲食に執着し、その身を養うであろう。袈裟(けさ)を着るといえども信徒にむかい、猟師が鹿を狙うように、猫が鼠を伺うように。さらにこの僧は常にこの言葉を唱えるだろう、われ悟りを得たりと。外面は賢善をあらわし、内には貪欲をいだく。口をあけた()羅門(らもん46)のように、実には僧にあらずして僧の形をあらわし、邪見さかんにして正法を誹謗する」


入沢(いるさわ)入道があざ笑う。

「なんというともわが良観上人は、時宗様もお認めなられる鎌倉随一の名僧でござる。先日も幕府より雨の祈りを命ぜられました。失礼ながら日蓮殿には願っても叶わぬことでございまする」

周防房も薄笑いし、日蓮に言い放った。

「これにて失礼いたす。所詮われらと日蓮殿とは水と油でございまするな。御坊がなにを申されても世間の人々は全く認めておりませぬ。これで失礼いたす。われらは雨乞いの準備がありますので・・」

その時、日蓮は二人が立ちあがるのを止めた。

「おまちなされい。六月十八日より雨の祈りとのこと。もし良観殿が七日のうちに雨をふらせたならば(それがし)は良観殿の弟子となろう」

聴衆は降雨の対決を迫る日連の発言に驚きの声を隠せなかった。

入沢と周防が顔を見合わせ、すわりなおした。

日蓮はつづける。

「七日のうちに雨一粒もふらすことができたならば、日蓮は良観殿の弟子となって二百五十戒をつぶさに(たも)たんうえに、念仏は無間地獄と申した法門は誤りだったと捨ててご覧に入れよう」

聴衆は日蓮の言葉にあっけにとられた。まさか雨乞いの名人に対決するとは。

周防房もまさかの展開に半信半疑だった。
「日蓮御坊殿、その言葉、うそいつわりはございますまいな」

日蓮は断言した。
「日蓮が帰伏したならば、余の弟子をはじめとして日本国は良観上人になびくでありましょう。逆に雨がふらずば、良観殿の戒律が誤りなのは明らかである。いさぎよく法華経に帰伏していただきます」

二人は思わぬ展開に互いの手をにぎりあった。

「信じがたい。良観上人にたちむかうとは。日蓮殿はうつけ者なのか・・」

 日蓮はふだん通り冷静であった。

「いにしえも雨乞いについて、勝負を決したためしは多い。いわゆる伝教大師と()(みょう)(注)と(しゅ)(びん)(こう)(ぼう)(注)となり。これをもって勝負といたそう」

二人は信じられないとばかり日蓮に念を押した。

「今の言葉、くつがえすことはできぬぞ。お忘れなきよう」

日蓮の弟子たちは茫然とした。その一人、大進房が飛びたしてきた。

「上人。良観殿は雨乞いの達人です。とてもかなうものでは・・」

 日蓮が真正面をむいた。

「現証で決着をつけるのです。良観の大慢心を倒して、無間地獄の苦を救うのだ」


周防房と入沢入道が高笑いしながら大路を小走りに去っていく。

二人は思った。

これでわが良観和尚の敵はいなくなった。いままで日蓮に煮え湯を飲まされてきたが、その日蓮が無謀な挑戦をしかけてきたのだ。笑いが止まらなかった。

干魃が本格的になっていた。

田畑の空には雲ひとつない、燃えるような太陽だけだった。くもりの日があっても風が鳴るだけで、渇きはいっそうひどくなっていった。

百姓が枯れかかった稲を心配そうに見た。そしてうらめしく空を見上げた。

今の日本には深刻な旱魃はない。だが灌漑設備の乏しい当時は、わずかな日照りで深刻な飢饉をもたらした。今も世界中では旱魃による飢饉が頻繁である。異常気象をふせぐのは人智ではどうにもならない。

科学が未発達だった時代、宗教による祈りはこうした自然の驚異にたいして世界共通の究極の解決策だった。万策尽きた人々にとって、あとにのこる手立ては祈りしかなかった。

館では日蓮を導師に弟子信徒が祈った。

日蓮はふだんと変わらなかった、弟子檀那はちがった。みな真剣な表情である。もし雨がふれば、自分たちの未来はない。師匠を良観の弟子にさせてはならない。悲壮な唱題だった。 


いっぽう極楽寺の入口は群衆でごったがえしていた。そこへ黒衣の僧が大挙して入っていく。
 群衆は汗だくになりながらも僧侶を迎え、手をあわせた。

ここに良観があらわれた。彼は僧侶の大群をひきいて登場した。

群衆が手をふり、歓声がひときわ大きくなった。

「良観様」

祈祷の場が極楽寺の境内にできた。急ごしらえの吹きさらしの家屋である。良観を先頭にして数百人の僧侶がつづく。壮観である。極楽寺を総動員した祈禱だった。

祈祷所には地蔵もあれば阿弥陀像もあり、あらゆる仏像がならべられた。この雑多な仏像の前に黄金のたらいがおかれた。稚児がうやうやしく柄杓の水をはこぶ。良観がその水をうけとり、たらいに入れた。そして僧侶の一団にむかって演説した。

「このたび鎌倉殿のおおせあって、雨の祈祷を行ずることになった。ここでわれらは民の苦しみを抜く祈りをおこなう。われらがいただく戒律と念仏が正しければ、雨はかならずふる。ふらぬと申す輩もいるようだが」

僧侶たちが傲慢に笑いだした。

「さりながら油断はならぬ。期限は七日間。おのおの自らの宗義をかたく守り、勤めあげるよう」

文永八年六月十八日、良観が読経を開始した。二十四日まで七日間の勝負である。雨がふれば日蓮は敗れ、良観の門下にくだる。

数百人の僧がいっせいにつづく。地鳴りに似た響きだった。

北条時宗が窓ごしに空を見ていた。安達泰盛、平頼綱がうしろでひかえる。

泰盛が口をひらく。

「いやはや、町では良観殿と日蓮の対決で、もちきりでござる。どちらが勝つか」

時宗が他人事のように聞いた。

「評判はどちらじゃ」

頼綱があざ笑った。

「良観にきまっておりまする。日蓮め、墓穴をほりましたな。蒙古の予言がまぐれ当たりだったのを幸いに、よりによって良観に刃向かうとは。勝負は七日間。七日をすぎたところで日蓮を捕らえるつもりでござる」

泰盛がおどろいた。

「捕らえる。罪状は」

「しれたこと。幕府の雨乞いを妨害したのでござる。これは幕府を非難するにひとしい。いかが」

泰盛が時宗を見た。

「いかがでございましょう」

時宗がだまったまま、かすかに聞こえる読経に耳をすませた。

祈りの効果は早速あらわれた。

町民が空を指さした。驚いたことに、雲一つなかった空のかたすみに黒雲がわいてきたのだ。

「見ろ。雲だ、雨雲だぞ」

町民が歓びにあふれた。

雲はつぎつぎに集まり、空が暗くなっていく。

良観の読経がこだましていた。

夕闇がせまった。今にも泣きだしそうな空となった。

良観がここで初日の読経を終えた。

引きあげる僧侶が満足げに見あげた。

「明日は間違いなくふるであろう。駿河ではすでに雨だそうな」

「日蓮め、後悔していることだろうて」

僧侶が笑いあった。

その夜、良観は勝利を確信して眠りについた。雨乞いは以前にも成功している。ぬかりはない。

こうなれば日蓮という目の上のこぶをはらい、幕府に恩を着せることができる。彼の師の叡尊が朝廷から興正菩薩の名を賜わり、四天王寺の別当となったように、身の栄達が目前だった。良観の喜悦ははかりしれない。自分を誹謗する者がいなくなるのだ。なんと心地よいことか。鎌倉は思いのままになる。良観は安堵感と同時に浮かれないではいられなかった。

良観はその日の未明に夢をみた。

厚い雨雲に覆われた薄暗い日中、良観がおごそかに祈る。

突然雷が天空に響き、大粒の雨がふり始めた。

群衆が喜びあう。

そこに日蓮がずぶぬれで近づき、おもむろに良観に手をあわせた。

良観は予期せぬ事態に思わず後ずさりする。
 そこで目が覚めた。はたして正夢となるのか。

翌朝。寝室は雨戸で閉めきられて暗かった。光がわずかにさしている。

外から弟子の呼ぶ声がする。

「お師匠様、お師匠様」

夢の余韻に浸っていた良観が驚いたようにとびおきた。

弟子の周防房だった。

「お時間でございます」

良観は恐る恐る雨戸をはずした。

(たのむから雨がふっていてくれ)

しかし強烈な光線が刃のように目を刺した。思わず袂で目をおおった。

鎌倉は灼熱の空にもどっていた。昨日までの雲は完全に消えていた。


読経が延々とつづく。

僧侶の頭から湯気がでてきた。

彼らは湿気のない空をうらめしそうに見あげた。

やがて燃えるような夕陽が鎌倉の西の空をおおった。

炎天の下、旅人が道ばたですわりこむ。

こうして良観の祈祷の二日目がおわった。

三日目の朝となった。

良観の弟子たちがみな焦りだした。良観を中心に輪ができた。みな一様に頭をかかえた。

「雨がふるどころか、空には一つの雲さえありません。良観様、なにかよい手だてはありませぬか」

「案ずることはない。延暦寺の開祖、伝教大師とて三日かかったのだ」

「しかしこれだけの大勢の僧が真剣に祈っているのに、全くしるしがないとは、いったいなにがいけないのだ」

 自身への疑いが広がり始めた。

 場の空気を察した良観が突然提案した。

「雨は必ず降らせねばならない。いまさら日蓮の門下にくだるわけにはいかない。背に腹は代えられぬ。どうであろう、このさい法華経で祈ってみるのは」

周防房が手をうった。

「そうでした。法華経があった。法然上人も法華経は衆生にとっては難信(なんしん)難解(なんげ)と説いてはいたが、すぐれた経であることは認めていた。このさい日蓮が頼みとする法華経で祈りましょう。我々は題目ではなく法華経一部を読誦(どくじゅ)ましょう。必ずしるしがあるはずです」

なりふりかまってはいられない。良観は法華経の巻物八巻を用意すると、すぐに声を合わせて読経をはじめた。

「如是我聞、一時仏住・・」

するとどうしたことであろう。鎌倉の山なみから黒々とした雲がわきおこってきた。

黒雲は一天をおおうようになった。

良観が声を一段と強める。

この時だった。

悲鳴に似た音をたてて突風がおき、吹きさらしの建物をゆらした。

宝殿に安置していた諸仏、諸菩薩の立像が倒れだした。

僧侶たちは驚いて読経をやめたが、ひとり良観だけは懸命に唱えていた。


 鎌倉市街には砂嵐が襲った。
 町民が悲鳴をあげて逃げまどう。

屋根が突風で吹き飛ばされた。切望していた雨ではなく逆風だった。

混乱に明け暮れた三日目の夜がふけた。

夜中じゅう、鎌倉の町には風が切るような音をたてた。

北条時宗は執権の間で町を格子ごしにながめていた。

いつものように泰盛、頼綱が控えている。

泰盛がうなった。

「いかん。この風は。いよいよ日照りがすすむぞ」

農地は地割れをおこしはじめた。くわえて空っ風が追い打ちをかけた。

 土地をひきはらう百姓が続出した。彼らは当座の荷をかつぎ、身寄りのいるところへ肩をおとしながら去っていった。

 明るいうちに支度できる百姓はよかった。ほとんどの農家が借金を払えず夜逃げした。

 だがその中でも土地に居すわり、収穫をあきらめずにいる百姓がいた。

 家には妻が力なくすわりこんでいる。奥には老婆と幼い子供がよりそって寝ていた。

 百姓は叫んだ。

「おれは負けんぞ。かならず米を実らせてやる」

四日目。風の吹く中、然阿良忠を先頭にした黒衣の僧百名が大路を行進した。

 沿道の町民は念仏僧の大群に目をみはった。

 百名は極楽寺についた。

 良観が笑顔で出むかえ、然阿と対面した。

「よくぞ来られました」

念阿がうなずく。

「ですぎた振舞ではないかと躊躇(ちゅうちょ)しましたが、加勢いたすことにしました。この鎌倉を日蓮に我が物顔で振る舞わせる訳にはいきません(せん)ずる所、雨を降らす法は念仏をおいてほかにござらぬ」

 良観一門が祈る。然阿一門がそれに続く。祈祷所全体が前に倍した声で念仏を唱え始めた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」

念仏の声が乾いた空に増幅され周囲に響き渡る。しかし刺すような光線が祈祷所にそそぐ。さらにこの光線が良観を襲った。

良観が思わずかがみこんだ。


やがて夜がふけていった。

祈祷所から汗だくの僧侶が極楽寺に引きあげた。みな争うように水を飲みこんだ。

良観と周防房、入沢入道の三人は、なおも祈祷所にのこり、念仏を唱えていた。

弟子の二人が顔を見あわせ、背中越しに良観に話しかけた。
「お師匠様、明日がございます。今日はここまでとしたほうが・・」

しかし良観は耳に入らないのか念仏を唱え続けている。

二人が前へでて、良観の顔をのぞいて仰天した。
 げっそりと頬が落ちている。なにかにとり()れた形相である。

 良観は弟子の問いかけに答えることなく、ふらふらと立ちあがった。


あくる日も祈りがつづいた。

僧侶のなかに祈りながらも床に伏して倒れる者がでてきた。意識がもうろうとしている。熱射病である。口から泡を吹く者、嘔吐する者もいた。一人もう一人と前に倒れ、横に倒れて担ぎだされていく。

 良観はあいかわらず憑かれたように祈り続けていた。

 周防房と入沢入道も体調に異変が起きていた。苦しみだした。


ついに日蓮と約束した七日目の朝がきた。

雨の気配はなく、乾いた風が吹く。

朝、良観はふらふらと祈祷所にむかった。

驚いたことに、良観の目の前を然阿の集団が横ぎった。彼らは退去するところだった。良観があわてて追いかけた。

「然阿殿。いかがいたした。今日が最後でございますぞ。どちらへ」

然阿は、ばつ悪そうだった。

「これは貴殿と日蓮との賭け事でしたな。われらがさしでがましい事をしでかすのはどうかと思いましてな」

良観の口ぶりは哀願がこもる。

「とんでもございませぬ。然阿殿はわれわれにとって心強い味方ですぞ。どうかおのこりあって・・」

「いや失礼いたす。六日間、飽かずに祈ったのでござる。それにこの空です。今日一日でふるとは、思いませなんでな」

ここで良観がはじめて然阿に詰問した。

「然阿殿、余は今まで律僧でありながら、そなたの念仏を弘めてきたのですぞ。貴殿にとって余は一番の味方のはず。この良観は鎌倉殿も御帰依の身。この上はどうなるか承知でしょうな」

然阿が突きはなした。

「それでは。法要がありますので」

然阿らが大挙して去っていく。

良観が背をむけた一団をなじった。

 然阿はふりむかずに去った。彼は最初、数をたよりに加勢したが、分が悪いのを見ると、素知らぬように逃げた。
 当時、悪い事態をさらに悪化させる人を
立入(たていり)(もの)と呼んだ。然阿は良観にとって立入者だった。



              26 日蓮、降雨へ渾身の祈り  につづく
上巻目次



得宗

鎌倉幕府北条氏惣領の家系をいう。初代執権北条時政以後、二代義時の嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時まで九代続いた。


護命 ()()()()()()()()()()()修円

22 三類の怨敵 参照

 


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# by johsei1129 | 2017-04-06 21:22 | 小説 日蓮の生涯 上 | Comments(0)